作兵衛翁が描いた蒸気機関車(その1)
当館より発行された図録の「炭坑の語り部・山本作兵衛の世界(584の物語)」の中で図録番号【118】の墨画と【397】の水彩画(「田川市特設ホームページhttp://y-sakubei.com/からご覧いただけます)に作兵衛翁が子どもの頃見たと言う蒸気機関車が描かれています。
どちらも同じ構図、ほぼ同様の説明書きですが、水彩画の方の左上に、「明治三十一年春 嘉麻川芳雄橋上を通る オモチャの様な汽カンシヤ 八屯ツミの貨車十二、三台 飯塚駅よりの緩坂を靑イキ 吐息で進行していた、 シンチュウのストンガップだけピカピカ光っていた、」とあります。
今回は、この「明治三十一年(1898)春」と「嘉麻川芳雄橋」、「飯塚駅よりの緩坂」という記述と絵から、描かれた機関車が実在のものかについて考えてみました。
なお、この年代このあたりを通る路線で鉄道を運行していたのは、九州鉄道株式会社です。この会社が当時この絵にある様な機関車を運用していたかどうかも調べてみました。
蒸気機関車の形式を見るには石炭と水を積む炭水車の有無と動輪とそれ以外の車輪の数と配置が目印になります。
絵の機関車には炭水車はなく、運転室の後ろにボイラー用の石炭を入れる箱、ボイラーの横に四角い水タンクがあり、車輪は四列見えます。
内側の二輪が連結棒でつながり、その連結棒の前側に蒸気シリンダーからの動力を連結棒に伝える役目の主連棒という部品が蒸気シリンダー方向へ延びているように描かれています。
以上から、この機関車は動輪が二組で、残りの前側が先輪、後ろ側が従輪という軸配置(軸配置記号2-4-2または1B1)のタンク式機関車と考えられます。
そこでこのような形態の機関車があったかどうか調べてみます。(その2に続く)
補足:軸配置記号「2-4-2」は先輪1組2輪、動輪2組4輪、従輪1組2輪を表わし、「1B1」は片側分の車輪配置を見て、先輪1、動輪2(B)、従輪1を表わしています。ちなみに片側動輪数を表わすアルファベットはB(2)、C(3)、D (4)、E(5)となっています。)