みなさん、こんにちは!
田川のコトを、少しでも多くの方々に知っていただこうというこのシリーズ。
第一回に続く第二回目は昭和時代。
大正時代に田川市の東側は伊田町となりましたが、ひとあし先に、同じ三井田川鉱業所の企業城下町である、現田川市の西側「弓削田村」が、明治40年に町制施行し『後藤寺町』になっておりました。
三井田川伊田坑では、明治43年に竪坑を竣工します。
伊田竪坑(第一・第二)は、現飯塚市の製鐵所二瀬中央坑、現福智町の三菱方城炭礦と並び、竣工時は日本三大竪坑とも呼ばれ、筑豊の竪坑は300m時代に突入しました。
鉄道開通と合わせて伊田町はますます発展し、昭和8年には北東部の金川村【旧夏吉村・糒(ほしい)村】を編入します。
昭和18年、同じ三井田川鉱業所の城下町である後藤寺町と伊田町が合併して市制施行、ようやく田川市が誕生しマシタ!
(時期的に第二次世界大戦の真っ只中で、しかもほぼ同じ規模の町同士の対等合併であり、色々と紆余曲折はあったそうデスが。。。)
初代田川市長は、伊田町の町長であった林田春次郎(はやしだ はるじろう)氏デス。
ちなみに旧林田邸は別邸が現存しておりまして、国の登録有形文化財に登録されており、現在は「料亭あをぎり」として営業しております。
昭和30年、後藤寺町の南側にある猪位金村(一部除く)を編入して、現在の田川市の完成デス。
ちなみにこの年の国勢調査によると、田川市の人口は100,071人でして、福岡市、八幡市、小倉市、大牟田市、門司市、久留米市に続く、県内でも有数の大都市に成長を遂げています。
後に北九州市になる戸畑市や若松市でも、当時の人口は10万人以下でしたので、往時の田川市がどれほど大きな都市であったかがワカリマスね。
しかし、昭和37年の「原油の輸入自由化」に伴うエネルギー革命により日本の石炭産業は衰退し、昭和39年3月2日の三番方を最後に、『炭都(たんと)』と呼ばれた田川を支えた三井田川鉱業所が閉山します。
明治維新からおよそ100年間に渡って、日本の産業革命と戦後復興を地底から支え続けた田川の石炭産業は幕を下ろします。
それから約半世紀、田川市の人口は約5万人と半分になってしまいましたが、筑豊の田川エリアの拠点として、マチとイナカが絶妙にブレンドされた地方都市となっておりマス。
近年、NHK朝の連続ドラマで筑豊の近代が採り上げられるケースが増えたり、昨年の「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録などもあり、これまであまり注目を浴びることのなかった近代史やその遺構に目を向ける方々が増えてきまシタ。
そんな近代史を彩った炭坑や石炭のことを、少しでも多くの皆さまに知っていただけますよう、「田川市石炭・歴史博物館」は、元気いっぱい皆さまのお越しをお待ちしておりマス!
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金川村の編入は修正していたのですが、猪位金村の方をすっかり忘れておりました(汗)。
修正しておきますデス。
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