精霊信仰、太陽信仰、先祖信仰
神話が息づいていた永い時代
古への遺跡は、眼に見えぬ心の形を伝えている
しかし、眼に見える物を追いかける人にはわかりにくい
でも眼に見える精霊信仰、太陽信仰が衰退する過程は残されています。
キリスト教が先進のものというヨーロッパの視点から、
アニミズムは原始的な未開社会のものである
その視点からキリスト教でない世界の隷属支配を行った植民地時代
8世紀頃より始まる国独自の武の体制が
15世紀頃にヨーロッパの植民地支配に至る
国、大地・先祖と結ばれた信仰が失われていく過程
ヨーロッパにおけるヴァイキングの侵攻は、キリスト教徒による異教徒に対する戦争と時期を同じくする。
ヴァイキングによる攻撃は同社会におけるキリスト教の広まりに対する反撃ではないかと位置付けています。
スカンディナヴィア人はキリスト教徒による不平等な条件の押しつけで苦しんでいた。
8世紀から12世紀に繁栄し
13世紀までには、殆どのヴァイキング・ノルマン人は消滅した
ヴァイキングは次第にスラヴ人に同化して消滅していった。ルーシでは、スラヴ人君主ながら親スカンディナヴィア政策を取ったキエフ大公ウラジーミル1世までがヴァリャーグ人時代であった、リューリク朝が東スラヴ人の国家ではあったものの、1598年まで存在していたなどの影響が残った。
北欧神話の神は
大蛇ヨルムンガルド
大狼フェンリル
オーディン
オーディーンは、戦い・詩・魔法・死を司る神です。
スレイプニルという8本足の馬、グングニルという如何なるものも貫くといわれる槍、ヴァラスキャルヴとヴァルハラという神殿を持っています。
バイキングの歴史や習慣、宗教はすべて口頭で伝えられた。
北欧人やアイスランド人はバイキングの時代が終わっても、先祖たちの武勇伝や民話、神話を子供に伝えた。
それらの神話や伝説、武勇伝をアリ・ソルギリスソンがまとめた。それはサガ(saga)と呼ばれた。
ヴァイキングジュエリーにその繊細な感性が現れています。
クメール王国 アンコール・ワット
12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教寺院として30年を超える歳月を費やし建立される。
1431年頃にアンコールが放棄されプノンペンに王都が遷ると、一時は忘れ去られるが再発見され、アンチェン1世(フランス語版)は1546年から1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施した。孫のソター王(フランス語版)は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えたという。
クメール王朝(アンコール王朝)は、9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国。
802年頃、ジャヤーヴァルマン2世(英語版)王がシャイレーンドラ朝から解放し、プノン・クレン丘陵で即位した[1]。これがクメール王朝の始まりである。王都はハリハラーラヤ(英語版)。
889年、ヤショーヴァルマン1世がヤショーダラプラ(英語版)に遷都。
1113年、スーリヤヴァルマン2世が、西隣のチャオプラヤー川デルタのシャム人やモン人、南隣のチャンパ王国や、東隣の李朝と戦い、王国の範囲は、タイ中部、マレー半島、ベトナム南部におよんだ。彼は寺院建築に熱心で、アンコール・ワット(アンコール遺跡)、トマノン、バンテアイ・サムレ、ピマーイ遺跡などのヒンドゥー教寺院を建築した。
12世紀から13世紀にかけて、クメール王朝はヴィジャヤ王朝(英語版)ともしばしば戦争を行った。一時はヴィジャヤ王朝を占領したこともあり、アンコール遺跡にはチャンパ人兵士の浮彫が残されていることが知られている。12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世の時代に最盛期を迎え、現在のタイ東北部、ラオス、およびベトナムのそれぞれの一部をも領有していた。ジャヤーヴァルマン7世はそれまでの王が掲げていたヒンドゥー教ではなく、仏教を信仰し、アンコール・トム(ノーコー・トム)を始めとする一連の仏教寺院を建立した。また、灌漑設備を建設して農業の振興をはかり、強大な勢力となった。
ジャヤーヴァルマン7世が死去して激しい後継者争いが行われた結果、クメール王国は弱体化し、1238年にスコータイ王国、1259年にラーンナー王国が独立した。1283年にクビライのモンゴル帝国が侵攻。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年と1292年に元朝に朝貢した。宗教的には、13世紀に上座部仏教がインドシナを掌握するまで、ヒンドゥー教や大乗仏教の混じった宗教が信仰されていた。クメール王朝は寺院建築で莫大な国費を費やした上、宗教をめぐる政争で次第に国力が衰えていった。クメール王朝では、王は即位すると新たな寺院を作るものとされていたことから、アンコール・ワットの周囲には千以上にもおよぶ遺跡が残っている。ヒンドゥー教徒のジャヤーヴァルマン8世の治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直された。1295年に仏教徒のインドラヴァルマン3世(英語版)が8世を殺害し、王位に就いた。
1351年にアユタヤ王朝が近隣のタイで建国された。1353年、アンコール・トムへ留学していたファー・グム(英語版)を支援し、ラーンサーン王国が建国された。
1378年、スコータイ王国がアユタヤ王朝に征服された。
14世紀後半からアユタヤ王朝が勃興し、アユタヤ王朝との戦いによって国力は疲弊。
1431年、アユタヤ王朝が侵攻し、クメール帝国の首都アンコール・トムが陥落した。
インドネシアのヒンドゥー教と仏教の伝来
紀元前1世紀の頃からはインド洋を渡ってインドの商人たちが訪れるようになり、ヒンドゥー教の影響を受けた独自の文化が発展し始め、5世紀頃から、ボルネオ島東部にクタイ王国、西部ジャワにタルマヌガラ王国が繁栄し始める。
ジャワでは、8世紀前葉に古マタラム王国とシャイレーンドラ朝(8世紀-9世紀)が建国された。シャイレーンドラにより8世紀末から9世紀初めにジャワ島の中部に建設されたボロブドゥール寺院は、底部の一辺が120m、高さ約42mという巨大な大乗仏教の石造ストゥーパである。
古マタラム王国は、10世紀初め頃まで続き、壮大なヒンドゥー寺院であるプランバナン寺院群を建設した。
その後、ジャワでは、1222年にケン・アロクによって、シンガサリ朝が建国された。最後の王クルタナガラ(英語版)のとき、モンゴル帝国、元朝の使者が来たが、その顔に刺青を入れて送り返したので、元の大ハーン、皇帝クビライは報復として大軍を派遣した。ジャワ島は元の遠征(モンゴルのジャワ侵攻で被害を受けたが、やがて元軍を撃退したラデン・ウィジャヤが1292年にマジャパヒト王国を建国した。
1602年、オランダ東インド会社がジャワ島に進出し、オランダによる植民地化の時代が始まる。オランダ人たちは前世紀にこの地域に到達していたポルトガルや、同じ時期にやってきた競争相手のイギリスを追いやってこの地域における主導権を握り、長い時間をかけて次第に支配地を現在のインドネシアの領域全体へと拡大していった。
元 (1271年~1368年)
人材運用において、「根脚」と呼ばれる、先祖の功績にもとづく家柄、皇帝家との姻戚関係などの関係の深さ、主従関係の由緒の古さが重視されるモンゴル伝統の封権制度が元を支えており、宋以来の科挙試験による中国の人材運用とは全く異質であった。モンゴル皇室の由緒を記録した『元朝秘史』が、チンギスの功臣たちや各部族集団がチンギスの先祖とチンギス本人に仕えるようになった経緯を特に詳しく記述しているのは、個々の貴族の根脚の高さを説明するためだったと考えられる。
西遊記、水滸伝や三国志演義などはこの時代に原型が出来たとされる。
スペインのアステカ帝国征服
一の葦
アステカには、かつてテスカトリポカ(ウィツィロポチトリ)神に追いやられた、白い肌をもつケツァルコアトル神が「一の葦」の年(西暦1519年にあたる)に戻ってくる、
という伝説が存在した。帰還したケツァルコアトルが、かつてアステカに譲り渡した支配権を回復すると信じられていた。
1519年11月18日、コルテス軍は首都テノチティトランへ到着し、モクテスマ2世は抵抗せずに歓待した[23]。コルテス達はモクテスマ2世の父の宮殿に入り6日間を過ごしたが、ベラクルスのスペイン人がメシカ人によって殺害される事件が発生すると、クーデターを起こしてモクテスマ2世を支配下においた
その後スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した。
その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。
スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した。
スペインによるインカ帝国征服
1532年ペルーは、内戦、新征服地の不安、そしておそらくより重要なことには中央アメリカから広まった天然痘などにより、インカ帝国はかなり弱体化していた。ピサロは当時、わずか168名の兵士と1門の大砲、27頭の馬という兵力であり、決して抜きんでたものではなかったため、内部対立から逃れる必要があった。
インカ軍に比べスペインの完全防備の騎兵は、技術的に大きく優越していた。アンデス山脈における伝統的な戦闘とは、イベリア半島におけるムーア人との何世紀にも及ぶ長い戦闘を通じて学んだ戦術を身につけていた。このように戦術的にも物質的にも優越しているうえに、スペイン人はインカの統治から脱しようとする何万もの現地の同盟国を買収していった。
最初の交戦は、現代のエクアドル、グアヤキル近郊の島で1531年4月に始まったプナの戦い(英語版)であった。その後ピサロは、1532年7月にピウラを建設した。エルナンド・デ・ソトは内陸部の探検のために送り出され、兄との内戦に勝利し8万人の兵とともにカハマルカで休息中の皇帝アタワルパとの会見への招待状を携え帰還した。
ピサロとビセンテ・デ・バルベルデ(スペイン語版、英語版)神父らの随行者は、少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨んだ。バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と帝国のカルロス1世への服従とキリスト教への改宗とを要求した投降勧告状を読み上げた。言語障壁と拙い通訳のため、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われている。アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰の教義について更に質問を試みたが、スペイン人たちは苛立ち、皇帝の随行者を攻撃、皇帝アタワルパを人質として捕らえた。
アタワルパはスペイン人たちに、彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供した。ピサロはこの身代金が実現しても約束を否定し釈放を拒否した。アタワルパの幽閉中にワスカルは余所で暗殺された。スペイン人たちはこれをアタワルパの命令であったと主張、1533年8月のアタワルパ処刑に際しては、これは告訴理由の一つとなった。
スペイン人たちはアタワルパの弟マンコ・インカ・ユパンキ(一説に弟ではなく、下級貴族出身とも)の擁立を強行し、スペイン人たちが北部の反乱を鎮圧する戦いの間は協力関係が続いた。その間、ピサロの仲間ディエゴ・デ・アルマグロはクスコを要求した。マンコ・インカはスペイン人同士の不和を利用することを試み、1536年にクスコを回復したが、スペイン人たちに奪還された。
インド哲学では、4つのユガが循環すると考える
サティヤ・ユガ
徳が支配する時代であり、人間の平均身長は21キュービット、平均寿命は400年になる。
トレーター・ユガ
徳が4分の3、罪が4分の1を占める。人間の平均身長は14キュービット、平均寿命は300年になる。
ドヴァーパラ・ユガ
徳が2分の1、罪が2分の1を占める。人間の平均身長は7キュービット、平均寿命は200年になる。
カリ・ユガ
徳が4分の1、罪が4分の3を占める。人間の平均身長は3.5キュービット、平均寿命は100年になる。
大地・先祖に結ばれた徳が失われて行く時代
今時の事件が起こる
先達の人は
艱難辛苦が魂を磨く
と捉える
末法の世が来てから弥勒(567)が産まれる
日本の8世紀末 最澄、空海が産まれ
12世紀 鎌倉時代 仏教が一番繁栄した時代
法然、親鸞、道元、日蓮
末法への視点の異なるアプローチ
鎌倉幕府は朝廷より武士への移行の時代
1457年 アイヌと和人のコシャーマインの戦い
和人の理不尽な扱いにアイヌが蜂起した戦
百年ほど続く争いで松前藩に支配され不平等な条件での交易とすることになる。
その後の感染症でアイヌの人口は減少する。
アイヌ(人間)とは、魂(カムイ)と会話することに
生きる意味を求める人
失われたカムイ(神意)と向き合う心
大地が大きく動くカムイは
大地を通して魂と会話する視点への螺旋