海と山と

釣りと近場の山歩きを趣味とするリタイヤおじーのひとりごと

テレビとプロレスの思い出

2025-01-22 15:07:53 | 家族旅行
私を育ててくれた叔父叔母の家は新しい物好きで私が小学校4、5年生頃(昭和29年頃)にはテレビ、電話、冷蔵庫(上に氷を入れるタイプ)、炊飯用石油コンロ、内風呂などが有った。
電話は近所の人の呼び出し電話としても使われていた。街頭テレビが多かった時代でテレビの有る家庭は珍しかった。そのテレビのチャンネル番号は6までしかなかった。我が家で買った2、3年後に12までになった記憶がある。テレビは観音開きの折り戸のついた棚の中にしまわれ、テレビを見るときは家族が揃って前に座り観音開きの戸を開けてみていた。そのころよく見ていた番組はNHKの「ジェスチャー」(女性組と男性組に分かれて問題をジャスチャーで示し、答えを当てる・・・水の江滝子、柳家金語楼など)、「私の秘密」(高橋圭三アナ)、民放の「日真名氏飛び出す」など。特に日真名氏飛び出すは主演が久松保夫で、浜町二丁目の出身だったので好んでよく見た。洋物ではいつ頃かはっきり覚えていないが「名犬リンチンチン」が毎週楽しみな番組で有った。
その頃、プロレス中継が始まり力道山が活躍していた。シャープ兄弟対力道山・遠藤幸吉・木村などとのタッグマッチは家族全員が興奮してみていた。大体前半に日本組がやられ気味になるが、後半に特に力道山の空手チョップがさく裂してシャープ兄弟を抑え込むパターン。他にもダラ・シンとかルーテーズなどもいたが、何しろ日本人(力道山は朝鮮人だったが)が大きな外国人を倒すと言うところが我々の心に圧倒的ヒーローとして存在していた。
プロレスの時間になると隣近所から「テレビを見せてください」と我が家に上がり込んで6畳の部屋が人で一杯になる。力道山が登場すると我が家でも歓声が沸き上がっていた。今ではテレビもあまり見なくなってきた。

暖かい日が続いている。ウォーキングコースの梅の蕾も気持ち程度膨らみ始めている。
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両国花火の思い出

2025-01-19 09:22:39 | 昔の思い出
隅田川と言えば花火大会で有る。私が小学生~中学生の頃は「両国花火」と言われて
いたと思う。場所も我が家からも端の方が見えたので新大橋から少し清洲橋側に出た
ところまで打ち上げ花火をやっていたと思う。我が家の前に浜町中学(今は中央区浜町
区民館)があり花火の日は屋上が観覧席に開放されていた。学校の屋上でお酒が
飲めるのも異常だし、確か有料だったと思うがその収入はどうなったのだろう。
隅田川の堤防に沿って桟敷席が設けられていた。私たち友達が集まって花火の翌日
朝早く桟敷席の周り、下など何か落ちていないか探し回った。ゴミが散乱していたが
それ以外は何も落ちていなかった。と言うより私たちより先に早くから同じことを
考えている大人(今でいうホームレス)がたくさんいた記憶が有る。
花火大会も昭和36年ごろに開催されなくなった。交通事情もあろうが、川の汚れ
臭気なども中止の一因だっただろう。昭和53年に復活したようだが今は倉敷に住んで
いるため観ることはできない。懐かしい思い出となっている


明日は大寒だがここのところ暖かい日が続いている。
種松山麓の家に咲く蝋梅はほぼ満開


梅はまだまだ

近々、久しぶりに種松山に登って梅の状況を見てこよう
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どぶ川だった隅田川その2

2025-01-18 15:55:22 | 昔の思い出
先に嘗て隅田川はどぶ川だったと書いたが、あの干潮時にタールで
覆われたような真っ黒な川底を見ると死んだ川と言うイメージだった。
現在の川を見るとよくここまで回復したものだと感心してしまう。
そのころ川にはいろいろなものが流れてきていた。多かったのが犬猫の
死骸、ネズミの死骸など。ほとんどが腐乱して漂っていた。コンドーム
もかなりの数流れていた。私はまだ小学低学年の頃でゴム風船と思っていた。
叔父に「ゴム風船が流れている」と言ったが叔父は黙っていた。
中学に上がるころにコンドームであることが分かった。(名前は分からなかった
が、男と女が交わるときに使用するものと理解できた)
隅田川沿いには花街、遊郭などが多く存在していたのでそのあたりから流れて
きたのか? その他に電球、ゴムボール、靴,下駄・・・等なんでもあれだった。
川の汚れは上流の工場での排水垂れ流しもあるかもしれないが、川沿いの家
でも平気で家庭ごみを川に放り込んでいたのを目にすることもあり、その
影響も多分にあったのでは無かろうか? その頃はそれが普通と思っていた。

今日は穏やかな日で福田公園の池でのヘラブナ釣りものどかに見える。


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ドブ川だった隅田川

2025-01-16 12:41:06 | 昔の思い出
私は6歳途中から再び東京に戻った。母方の伯母宅(愛媛県)から東京の
父方の弟(叔父)のお世話になることになった。愛媛の田舎から
東京に出てきて、その時代(1950年頃)でも東京は車が多く、ビルの
多い所と思った記憶がある。住まいは日本橋浜町三丁目。今から思うと
戦後5年しか経過していないのに町並みは整然としていたように思う。
家は箱崎川から墨田川への出口に近く、川を挟んで向かいに中州が見える
場所に建っていた。居間の外が川の堤防で堤防の上には簡単に上がれ、
箱崎川、隅田川を見ることができる。
当時の隅田川は「どぶ川」で有った。潮の干満がここまで影響していて
干潮時には川底が露出するほどヘドロが堆積がしていたのが見えた。
メタンガスか硫化水素ガスがプクプク噴き出していて干潮時は特に臭気が
ひどかった。その後東京オリンピック開催が決まったためか隅田川の浄化
対策が取られた。その間に浚渫も進み、今では干潮でも川底が見えること
はなくなっているようだ。
その当時でもフナがいたが息苦しいのか頭を水面に出して人影を見ると
潜るが、すぐに頭を出す。そんな川が今は嘘のように浄化されている。

(写真は「中央区観光協会特派員ブログ」より転載)
写真は箱崎川。奥が蛎殻町、左が中州、右側が浜町、私の家は右側の写真の
切れたところから少し下の方に有った。
私の家の両隣が料亭で向かいの中州にも料亭があった。そんな地形のため新内
流し船が我が家の周りによく来ていた。叔父は居間の窓辺で三味線と唄を聞きな
ら晩酌を楽しんでいた記憶が有る。でもあの臭い中での料理、唄も雰囲気が
がた落ちだっただろうに。
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寝小便

2025-01-12 19:36:30 | 昔の思い出
私は6歳頃(昭和25年頃)まで四国の愛媛で過ごした。父が戦争で死に母が
女で一つで二人の姉と私を育てていたが母は栄養不足で病に倒れ寝たきりに
なった。それを期に四国の母の姉宅にお世話に成ることに。
私は納戸のような板の間で寝かされたがほぼ毎日寝小便。「もう5歳にも
成るのに」と毎日叱られただろう。母は寝小便の治療として「お灸」を選んだ。
今のような火傷をしないお灸ではなく百草を山盛りにしててっぺんに火をつけ
熱くなるのをじっと我慢するタイプ。
当然やけどをする。その痕跡が今でも背中に数か所薄っすらと残っている。
肝心の寝小便は治らず。ある日納戸の大掃除があり箪笥も動かした。
箪笥の裏からミカンの皮が大量に出てきた。もちろん納戸に収穫し仮置き
してあるミカンを寝る前に盗み食いしたのは私だ。食べ物も少なかった時代
育ち盛りの私の唯一の楽しみだったのだろう。
その日は母も寝床から起きて私を思いっきりしかり松の木に縛り付けられ
た記憶が有る。母の記憶はそれだけしか残っていない。
その日から寝小便は治った.
それからしばらくして母は他界した

初めて見る綿の木 ウォーキング中の盗撮(他家の庭、塀越しに撮影)

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しんしょうがん

2025-01-11 20:33:08 | 昔の思い出
1月11日
 最近見なくなった遊びに「ビー玉」遊びと「めんこ」が有る
ビー玉は主に「野球ゲーム」と「メッカチ」
野球ゲームは土の地面に1m四方くらいにホーム、1塁、2塁、3塁
各々にビー玉が入るくらいの穴を掘りビー玉をピッチャーの位置から
親指と中指で挟んでホームに向かって転がし、それを打者が確か割りばし
か何かではじき返すと言うものだったと思うが、細かなことは記憶にない。
一番力を入れたのが「メッカチ」。直立の位置から足先をハの字に開き
(相手のビー玉がハの字の中心に来るように)上から片目で狙い定めて
落とし、相手のビー玉に当たればもらえると言うもの。これも技術が必用
でまともに真上から当たってしまうとビー玉が割れてしまうことが有るので
なるべくかすめる程度に当てるのが上手いとされてきた。
無地のビー玉はあまり価値がなく、中に虹が入ったようなものとか白色の
ビー玉が「しんしょうがん」と言って宝物になってそれをたくさん持ってい
いるのが「かっこいい」と言うことになっていた。
当時近所に板金の光沢仕上げを行う工場があり、研磨剤を溶いた液とビー玉
を混ぜて金属板の上に垂らし金属板を前後左右に揺らして表面を仕上げを
行っていたが、そこで使い古しのビー玉をもらってきたが、価値が落ちる
ので「しんしょうがん」にはならなかった。

今日も寒いけどウォーキング。

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凧上げの思い出2

2025-01-09 16:24:18 | 昔の思い出
前回に続いて凧揚げについて。
大人の凧揚げでカッコイイと思ったのがもう一つ。
タコ糸だ。私は木片に巻き付けた糸を繰り出すのも手繰り
寄せるのも、手動で有ったが大人の中には釣り用のリールを
使っている人もいた。釣り竿を30~40cm短く切ってリール
を取り付けトップのガイドを新たに取り付けたものを持って
きてかなり高く、遠くまで揚げている人もいた。
スピニングリールがまだ一般的でなかった時代で、太鼓リール
を使用していた。手回しのドリルを糸巻に改造している人もいて
それらを使える人がうらやましかった記憶が有る。
今はリールを使って魚を釣っている。
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凧揚げの思い出

2025-01-08 17:13:32 | 昔の思い出
今年は昔を少しづつ思い出して記録しておきたい思う。
最近、凧揚げを目にしない。遊びがスマホのゲームに変わってきたの
だろう。それと凧揚げは広い場所が必要で今では至る所に電線が張り
めぐらされており自然とやる人が少なくなり、その子供までに影響して
いるのだろう。今から70年くらい前、まだ東京に住んでいる頃、正月の
遊びと言えば、外では凧揚げ羽根つき、家では百人一首、神経衰弱、
ふく笑いなど。今では限られた人の遊びになってきてるだろう。
そのころは大人でも凧揚げをやっていて、主に自作の角凧であった記憶
が有る。かっこいいと思いったのは「うなり凧」だ。角凧の上部に左右に
ゴム紐(幅10mm位の生ゴムのゴム)を張り、これを上げるとゴムが振動
し上空でうなる。いかに大きな音を出すか技術が必用らしかった。
私も挑戦したがいい音が出なかった。私は何個か角凧を自作したが、
その真ん中に自分の名前から1文字とって『一』と書いてあげることが多
かった。その時代、東京でも電線が邪魔で街中での凧揚げはできなかったが、
私の家は隅田川沿いにあったので思う存分楽しめた。今では自宅のあった
ところは昔の川は埋め立てられその上に高速道路が出来ている。

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インフル罹り初め

2025-01-07 12:03:12 | 健康
明けましておめでとうございます。
初投稿が今日になってしまった。
元日、近くの神社にお詣りに行ってきたが、小さな神社にも拘わらず
参拝まで30分以上待ちになるのでいったん帰宅。夕方再度出直して20
分待ちの列に並んで参拝終了。帰路おみくじで今年の運勢を占った。
今年は末吉、昨年は中吉。昨年病気に悩まされた妻は小吉。昨年は
大吉だったのに。お互い健康には気を付けろと言うことだろう。
と考える間もなく元旦の夕方少し熱っぽい。2日も37.5℃くらいの発熱。
3日に休日外来で診察してもらったところ「インフルエンザA型です」
とのことで5日間の安静、他の人との接触制限などを受ける。
3日から5日まで39℃近くの熱にうなされながら7日にほぼ平熱に復帰。
今日から買い物に出かけた。タミフルの副作用か胃がむかむかしている。
おみくじの通り今年後半から運気、特に健康面で向上してくれる
ことを祈るばかり。
今日からウォーキング、筋トレに励む予定。

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