「何々の可能性がある」という言葉はクセもの。「可能性が高い」ならまだ意味がある。「可能性がない」は明確だ。
— rk70 (@tikarato) 2019年2月22日 - 11:04
「可能性が出てきた」は今までなかったと思われたのに出てきたと解せるから意味はある。
判決文とか論文などで「可能性がある」という指摘は、どの程度の可能性なのかの度合が重要だ。
全知全能の神様ではないので裁判官も判決を下すのは大変だ。刑事事件では、可能性がゼロという証拠が見つかればよいが、多くは可能性の度合の判断に帰着する。
— rk70 (@tikarato) 2019年2月22日 - 11:26
文系の学術論文でも多くが可能性の度合の指摘になることも。100パーセントそうだと… twitter.com/i/web/status/1…
美術品の真贋も、人は本物でなければ偽物、偽物でなければ本物と思いがちだが、現実の作品には、この間に位置するものもなくはない。
— rk70 (@tikarato) 2019年2月22日 - 12:53
これは真贋の判断がつかないからではなく、時代とともにさまざまな加筆があったり、意図的な贋作ではなかったり、単に学者による作者の帰属や時代判定の誤りであったり、もともと作者が一人ではなく、工房作など、複数の場合があったりするからである。現代でも美術教師が学生に手伝わせることはある。
— rk70 (@tikarato) 2019年2月22日 - 13:11
また、作者自身が自分の過去の作品を再制作することもある。そして、その作品の質が劣ることも起こりうる。
— rk70 (@tikarato) 2019年2月22日 - 13:14