美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

中村彝の洲崎義郎宛書簡、その時の喀血と未完成作品

2024-05-27 18:59:12 | 中村彝

 今回検討するのは『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(新潟県立近代美術館、1997)で、大正9年7月5日とされている書簡である。

 これには、なぜかこの手紙の前に出した手紙の内容について彝は先ず書いている。前の手紙が届かなかったのであろうか。

 「多分一四日か五日の日に御手紙を差し上げた筈ですが、そしてそれには七日の日一六日の夜に少しばかりブラッドを出したので絵は未成のまま出品して終った」こと、その後は「多少のブラッド」はあるが経過は極めてよいとか、「例の丸善の本の事と、よくなり次第(そこに)行ってみる」ことなどを書いたはずだと。

 しかし、この内容をよく読んでみると、14,5日に出した手紙に、なぜ16日夜のブラッドのことが書いてあるのか意味不明である。これは、おそらく「7日の日、6日の夜」の読み間違いではなかろうか。

 次に、彼は前の手紙の内容を書いたのち、「画面全体の統一と効果に向かって著しく過敏になっている」自己の精神の高潮を語っている。

 この言葉は大正4年6月1日の書簡に見られる「統一から来る自由と充実とが次第に画面を支配するようになりました」という言葉を思い出させるから、その頃か、それに近い頃の彝の探究を示す言葉に符合する。

 また、重要なのは、「昨日は一寸よかったので文展を見ました」という見逃せない記述である。

 これによって、彝が帝展を文展と書き間違えたのでない限り、この書簡は当然、大正9年のものとはなり得ない。しかも、いずれにせよ、それが7月5日というのはあり得ない。そして彝は大正6、7の文展、大正8年の第1回帝展には出品できなかった事実もある。従って、それらの年の手紙ではない。

 すると、大正4,5年頃の手紙の可能性が思い浮かぶ。

 「その後私の知らない処で幾多の変遷がありました」と「俊子の問題」に触れているのも、大正9年というのは遅きに失している。

 彝の知らないところでその問題の変遷があったというのは、おそらく大正5年ころに最も相応しい語句である。

 大正8年4月30日の書簡が語っているように、彝は俊子の結婚については、その前日の29日に知った。最初は非常に驚いたけれど、「三年以来の極端な自己抑制と無干渉とを考え合わせると、寧ろこうなるのが当然だという気がして来て」と述べている。

 すなわち、彝は、しばらく事が複雑になリ過ぎるのを避けて俊子の結婚も知らないほど、「三年来」あえて無干渉の態度をとってきた。

 つまり、「私の知らない処で」の俊子の問題での「変遷」(これはもちろん俊子の結婚を意味するものではない)があったと書いても不自然でないのは、大正4年では自らが問題に関与していたから早すぎ、大正5年の夏から秋ごろ以降なら妥当する。

 丸善の本の話題も、大正5年ころのエピソードを思い出させる。

 こうして見てくると、この書簡は、やはり大正5年の文展開催時のころの彝の状況と合致しているように思われる。実際、この年に出品した「田中館博士の肖像」は、好評を博した作品なのだが、実は未完成の部分もあったし、「裸体」の方も10月2日時点で「間に合いそうにない」と心配している葉書もある。

 病状についても、大正5年10月13日に多湖実輝に出した葉書があり、それによれば、「僕は近来悪い習慣がついてチョクチョクブルをやるので弱っている。先週も火曜の日に非道くやッつけて終った」とある。
 大正5年10月13日は金曜日で、その前の週の火曜日となると10月3日となり、6日の夜のブルには合致しない。だが、6日の夜の頃まで「ブラッド」が酷かったと考えれば矛盾がないわけで、彼の病状も大正5年10月上旬に合致していると言えるだろう。

 以上のようなことから、この手紙は大正9年7月5日のものでは有り得ず、それよりもずっと前の大正5年10月の文展開催時(10月16日、17日以降)のころのものと考えるのが相当と思う。


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