大正9年9月20日の洲崎義郎宛書簡も1997年の新潟県立近代美術館での展覧会で紹介されたきわめて興味深い書簡である。だが、やはりその与えられた日付は、再検討しなければならない。
この書簡には塩井雨江(1869‐1913)という「文学士」の名前が出てくる。そして、彼の娘(独身)を彝は「一昨日面白い人が弟子入りを申し込んできました」と書いている。「実は年四十を超え、絵を初めてから既に二十余年にもなろうと言う…迚も奇抜極まる、画狂です…」と紹介している。
塩井雨江は、『於母影』の訳者・落合直文に師事し、日本女子大などの教授になっており、詩人・文学者として知られている。雨江の妹が、雨江の友人・大町桂月の夫人になった塩井長で、雨江の娘が彝に絵を習いに来た「塩井さん」である。
さて、この手紙の末尾には確かに二十の日付が書かれているが、なぜそれが大正9年9月の20日になるのであろうか。
「塩井さん」という名前は、すでに大正9年4月1日や同年5月3日の洲崎宛書簡に出てきている。従って、これら2通の書簡の日付が誤っていない限り、「一昨日」に当たる9月18日に雨江の40歳を過ぎた娘が弟子入りして来たと報告するのはおかしくないか。
また、この手紙には明日から金平が来ることになっていると書いている。「水戸の女中」は駄目になったので、新聞に「取り敢えず女書生募集の広告を出す事にしました」と。
そして「女書生募集の広告」に関連した事柄は、大正9年2月25日の手紙にも書かれているのである。
更に問題の手紙には、「婆ヤは、実婦危篤との報によって急に暇をやる事にしました」とも書かれている。ここに書かれている婆ヤとは1月下旬に彝の所に洲崎が連れて来た土田トウのことと思われ、おそらく彼女は2月20日ころまでには柏崎に帰ったはずである。(※文中の「実婦」は意味不明であるが、「婆ヤ」の旦那となっている人の本妻ということか。)
こうした事実を辿っていくと、この手紙はおそらく大正9年2月20日に書かれたのではないかと思うのである。
ところで、この書簡の前半には彝が描いた洲崎義郎の肖像画についての曽宮一念の興味深い感想と、彝の考える肖像画論が書かれている。
「君達が帰ると翌朝早く曽宮君がやって来ました。そして、あの君の肖像画をわざわざ引っ張り出して、何時までも何時までも、しげしげと見守って居ります。…すると突然曽宮君が言うには、『この肖像画は今まではよく洲崎さんに似ている居ると思ったがしかし昨日僕が見た洲崎さんとは少しも似て居ない様な気がする。あああの寂しい女性的な優しさがこの顔には見られない。』それを聞いた僕は『涙の滲み』で眼が痛むのを感じた。」(続く)