臼井吉見(1905-1987)の『安曇野』は、氏の代表的な著作物である。
本著は「大河小説」と言われているが、多くの場面が、紛れもない実在の人物の事実的な要素によって構成されている。作者は主要人物の伝記的事実やその背景を、労苦して詳細・丹念に調べ上げ、この小説を書いたことは間違いない。
さて、中村彝がこの小説に登場するのは、主に第3部の冒頭当たりからだろう。その中でも、この小考で取り上げるのは、その第3部「その五」、「その六」で語られている場面についてである。
なぜ、『安曇野』に語られている中村彝を問題にするかと言えば、彝を調べていた私自身がかつてこの「小説」を読んでいて、ある種の戸惑いを覚えた経験があるからである。(おそらく他の登場人物の伝記的事実を知っている多くの人も、私と似たような戸惑いの経験をしたかもしれないが、ここでは問題の対象を際限なく広げていくわけにはいかない。)
その戸惑いというのは、読んでいて、これはどこまでがフィクションであり、事実の部分はどこまでか、というような問題である。フィクションと割り切って読んでしまえばそれでよいのだが、読書中、自分の知っている事実とどうしても照らし合わせたくなる箇所もあり、そうすると多少頭の中が混乱してくるので、これを若干、解剖・整理してみる必要を感じた。
この作品は全体としてはフィクションなのだが、臼井氏が書いた部分や文章の細部を見ていくと、実在する彝の書簡などの資料の一部が殆どそのまま本文に組み込まれているような場合があることに気付く。何処までが資料からの引用なのか、何処からが臼井氏が純粋に創作した文章であるのかよく分からない書き方である。
それは歴史小説などでは当たり前の手法なのかもしれない。だが、注意しなければならないのは、彝が他の人物に宛てた書簡の一部を、別の人物に宛てた手紙として利用しているような場合があることである。
例えば大正5年1月31日の彝の書簡がある。
これは彝が相馬俊子との最後の会見を語っている長い毛筆書簡であり、実際には白河の伊藤隆三郎に宛てたものであるが、その手紙の一部を、中原悌二郎に宛てた手紙として臼井氏は利用している(『安曇野』第3部115‐116頁)。
最初の短い2文と手紙末尾の短い2文を除き、「会見の顚末を委しく書くといいのだが」以下、「悪魔はこの絶望と疑ひとをねらって、人の心に入り込むのだ」まで、伊藤宛の彝書簡からの引用である。決してそれは中原悌二郎に宛てたわけではない。
また、中村彝の大正4年3月の書簡がある。
実際には伊豆大島から中村春二に宛てたもので、大島風景の色彩的な叙述や、彼の健康状態と眼前に見えている風景とを重ね合わせた画家の内面・心理描写が見られる実に印象的な手紙である。
『安曇野』第3部「その五」の冒頭部(81‐86頁)の多くの部分は、この手紙に始まり、彝の『藝術の無限感』にある「藝術の無限感」のような小文や「細心な霊よ」のような詩文も組み入れ、さらに3月19日の同じく中村春二宛て書簡や、8月14日の伊藤隆三郎宛の手紙などの一部を、瞬間「おやっ」とは思わせつつも、不自然さをあまり感じさせないように、巧みに繋ぎ合わせて、3月5日の中原悌二郎宛の書簡に仕立て直している。
つまり、その冒頭部の悌二郎宛のかなり長い、創作されたと思われる彝の手紙は、実は、彝が実際に異なる人物に宛てた実在する複数の手紙の部分や詩文等をいくつか組み合わせて再構成したものなのである。
『安曇野』の文学的な価値や、その手法の可否についてここで立ち入ろうとは思わないが、この作品の読者は、こうした場面もここにはあるのだということは知っておいたほうがよかろうと思う。