気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

グラナダを後に

2017-09-15 | 旅行記

・・馬上槍試合を大混乱に陥れ、王をも侮蔑した自分はもうトレドには居座り続けられない。

しかし責任を痛感しているし、逃げ帰ってきた都の様子も気になる。

・・・オウムに探ってきてもらった。トレド中、蜂の巣をつついたような状態だという。

都中が、失心して宮殿へと運び込まれた王女と、大混乱で中止になった試合と、突如、降って湧いたように姿を現わし、桁外れの狼藉をはたらき、こつぜんと姿をくらましてしまったイスラム教徒の騎士について

・・・あれはモーロの魔術師の仕業だ、魔人だ、洞窟から魔法にかけられた戦士が飛び出してきたなどと噂話を報告した。

夜になりフクロウが王宮に偵察にいくと、王女は独りになると一通の手紙を取り出し、読み、それに接吻なされて、ヨヨヨとばかりに泣き崩れておしまいになった。

 ・・・

この報告にアフメッド王子の優しい胸は張り裂けんばかりだった。

・・・やがて王女は病魔に取りつかれた、食事を受け付けず固く心を閉ざし、名医の処方も効き目無く、魔法の呪文にかけられたと考えられた。

・・・「誰であれ、王女の病を治したものには、王国の財宝庫にある一番値打ちのある宝石を取らせよう」と布告、お触れが出された。

・・・フクロウが、「王の財宝庫から何を取るべきかが問題だ!  紫檀の箱があり、中の賢者ソロモンの王座に敷かれておった絹の絨毯

・・・不思議な霊力のある魔除けを手に入れれば・・・」王子も魔除けの絨緞の話を聞いたことがあった。

翌日、王子はアラブ人の粗末な衣装に身をやつし、顔も顔料で黄褐色に変装し、・・・。

・・・門衛の兵士から、宿なしアラブ人が、・・・殴って追い返すところだったが、運よく騒動を聞きつけた王が連れてくるように命じた。

アフメッドは、羊飼いの短い葦笛を持参していて 「王女様の病気が何かの魔の仕業でしたら、この首にかけてお祓いしてみせましょう」 と言った。

王はアラブ人が神秘的な秘法に通じていることも承知していたので・・・塔の一番上にある王女の部屋に連れて行った。

・・・暗がりの中に王女は横たわっていた。

王子はテラスに出て、小鳥たちから学んだ楽曲を数曲、笛に乗せて吹き鳴らした、・・・王女は何の反応も示さない。

葦笛を脇にやり、単調なメロディに乗せて・・・鳩に託した手紙の愛の詩を口ずさみ始めた。

王女は、はっと気づいた、頭をもたげて、じーと耳を澄ました。

・・・見る間に眼には涙が溢れ、嵐のような激情に襲われ、その優美な胸はあえぐかのように、波打っていた。

「吟遊詩人をここに」 と王は命じた。

アフメッドは部屋に入り王女と言葉を押し殺し、眼と眼とを見交わした。

王は賛辞と畏怖の入り交じった眼で、アラブの吟遊詩人を見つめた。

「奇跡の若者よ!わしの宮廷の第一位の侍医としよう。約束の褒美として宝物庫の最も高価な宝石をとらせようぞ」

「おお、王様!金銀財宝は欲しくはありません。イスラム教徒の遺品、絹の絨緞を納めた紫檀の箱が戴きたい」

・・・紫檀の箱が運び込まれ、古い絨毯が取り出され・・・。

アフメッドは「この絨毯は、その昔、賢者ソロモンの玉座に敷かれていたものです。

美しい王女様がお立ちになるだけの値打ちがございます」

「長椅子の下にその絨毯を・・・」 王女がそこに立つと・・・その足元にひざまずき、

「いったい誰が運命の書に記されていることに逆らえるでしょうか?占星術師たちの予言が、果たして虚言であるかどうか、見ていただきましょう。

王様、今こそ言いましょう。お嬢様とぼくとは、もう長いこと、ひそかに愛し合ってきたのです。ぼくが、恋の巡礼です!」

王子がこう言い終わるか終らないうちに、絨毯は、王子と王女を乗せたまま、空へと舞い上がっていった。

王も、侍医たちも、呆気にとられ、ただ見ているだけだった。

二人を乗せた絨毯は、・・・一片の雲に吸い寄せられるように・・・消えてしまった。

我に返った王は、怒り狂い・・・トレド王は、大軍勢を組織して、逃亡した二人を探すため、グラナダへ向けて出立した。

・・・

15世紀は変革の時代です。ヨーロッパで、依然注目することは・・・やはり宗教、いや布教する、維持することが目的の教団の活動と信徒の行動。

ルネッサンスが起こる一方で、ジャンヌ・ダルクの登場など騎士の時代は続いていました。

日本も戦国時代へ・・・肉体と肉体が戦っていた時代です。

・・・三大宗教の元祖、ユダヤ民族は武力闘争は好まず、弾圧からは集団で逃避行・・・、避難先で頭脳で勝負と保険、金融、税の取り立てと・・・、

キリスト教徒は弾圧には抵抗し、異教徒を迫害し、武力も行使し、有名な十字軍は異教徒ユダヤ人も殺害しているようです。為政者には便利な宗教のようです。

最後にイスラム教徒、アラビア砂漠の物流中継都市で、経済が衰退していた時代に誕生したムハンマドの宗教は、・・・。

・・・当時の砂漠の遊牧民は、生活するために「隊商を襲って輸送品を略奪すること」を普通に行っていたようです。

隊列の警備隊に戦闘を仕掛け、・・・略奪ですから遊牧民は武闘派です。戦利品は一定の割合で分配し、捕虜の身代金要求など今日の中南米でよく聞かれる行為です。

イスラム教は、この様な遊牧民の生き方が根底にあり、「砂漠の掟」;部族に従って生きていくそんな環境で誕生しています。

・・・アラーの側につけば・・・勝てば戦利品をもらえるし、戦死しても天国に行ける、天国では官能的な快楽を飽くことなく追い求めることができる、彼らはこう信じた。

(EARIY ISLAM 18頁)、信じている者は無敵です。

・・・イベリア半島でも、イスラム教徒側がキリスト教徒側に攻め込まれ、やむなくモロッコに援軍を頼むと、信心深い新興勢力のイスラム教徒軍は、圧倒的な武力でキリスト教徒軍を撃退します。

堕落した城主を追い出し、イスラム原理主義に従い厳格に治世を始めるが、勇猛なモロッコのイスラム教徒も、この地で歌舞音曲、美女にワインにと溺れ、豊かなアンダルシア地方で腑抜けになっていく。

ここグラナダ王国は、キリスト教徒側に貢物を献上したり、外交に手腕を発揮したが、・・・ついに、この時を迎えてしまいます。

中世、ヨーロッパの騎士団が向かい合っています。

余裕の見える白馬の女王、隣は栗毛の馬上に赤装束の貴族、国王でしょうか、轍(ワダチ)を挟んで対峙するのは、黒毛の騎馬、黒装束に金刺繍のマントの将軍?でしょうか。

背景の建物は・・・アルハンブラの要塞のようです。右が東です・・・やや西日を浴びているようですが・・・、赤土の丘陵地帯に赤土で焼かれたレンガで築いた城壁からなる赤い城(カルアト・アルハムラー)・・・。

・・・この絵画は、グラナダ無血開城:Francisco Pradilla画、マドリード王宮近くのPalacio del Senado Madrid所蔵。

黒毛馬上の王が、グラナダ王国最後の王 ボアブディル王Boabdil(ムハンマド 12世:1459年〜1533年)

この場所で、グラナダ王国の鍵を・・・戦勝国に手渡す儀式が行われたのでした。右手に持っているのが王国の鍵でしょう。

白馬の女王は、イサベル、カスティリア女王です。

栗毛色の馬上の主は、イサベルの夫、アラゴン国王フェルナンド。これら連合国の兵20万の包囲に屈し、アルハンブラ宮殿を無血開城した。

1492年1月2日のことであった。

8世紀から700年以上続いたイスラム教王国のイベリア半島支配、・・・最後に、この地グラナダを首都に255年間続いたナスル朝も幕を閉じた。

 

 ボアブディル王はカトリック両王から 、20㎞程南の Alpujarra(アルプハラ)地方の裾野を新しい領地として与えられた。

しかし、安住の地とはならず2年後、更なる屈辱・・・、カトリック両王は領地を召し上げ立ち退きを命じた。

やむなく、モロッコ王を頼って、落ちて行く、

途中・・・母親、妻と 2人の子供、それにお供の者たちを連れて Lanjaron(ランハロン村)に投宿したとされている。

現在もシエラネバダ山系の鉱泉からつくられるミネラルウォーター「ランハロン」は有名で、人口4000人弱の村です。

・・・地中海の港に向かう一行は、峠の稜線を越えようとしていた。

下ればグラナダは永遠に視界の外に去ってしまう。ボアブディル王は、グラナダの街を振り返り涙を流したという。

 

Alfred Dehodencq 画 (Les Adieux du roi Boabdil a Grenade)

Suspiro del Moro(モーロ人の最後のため息)と呼ばれる峠が残っています。

 そこで王の母親 Aixa(アイシャ)が “Llora como mujer lo que no supiste defender como hombre”「男として国を守れなかったからには女のように泣きなさい。」と嘆いたとか。

(母親はゲルマン系ゴート族、キリスト教からイスラム教に改宗しています)

いろんな文書でこの逸話が記されていますが、

 ・・・アルハンブラ宮殿の無血開城後 3世紀を経た 18世紀に el padre Echevarriaが Los paseos de Granada の中で始めて記された言葉で、創作の説もあります。

 ところで、 ボアブディル王のその後は・・・モロッコ王の下、その後戦いに駆り出され戦死されたようです。

・・・

王子の伝説は・・・。・・・グラナダのイスラム教徒は大軍勢で立ち向かったのでしょうか。

トレド王は大軍勢を組織して、グラナダへ向かった。

・・・日数を要する、難渋な行軍の結果、グラナダを望む平野に陣を敷き、使者を立てて、娘の返還を要求した。

・・・グラナダ王自らが。全廷臣を従えて出向いて来た。

対面するとグラナダ王は、娘をさらった吟遊詩人その人だった。

アフメッドは、身罷(ミマカ)った父の王座を継ぎ、美しいアルデゴンダは彼の后になっていた。 

(現 スペイン国王夫妻です)

はるばるトレドから娘を取り返しにやって来たキリスト教徒の王は、娘がキリスト教徒のまま、イスラム教徒の王の后として迎え入れられていることを知って、容易に怒りを解いたのだった。

それは何も王が特別に敬虔なキリスト教徒だったからではなく、一国に君臨する者にとって、宗教はいつの場合も、対面と礼節のしるしとして尊重されなければならないからである。

(セビーリャ :スペイン広場 、トレドにはこの様な描写がありました)

血腥(チナマグサ)い戦争になるはずが、連日連夜、盛大な祝宴と催し物がうちつづいた。

宴が果てると、王とその軍勢は帰途についた。

・・・以下略。

・・・いたずらに二転三転させずに、ハッピーエンドの物語です。

フクロウは大臣に、オウムも式部長官に任命されたそうです。

ここスペイン広場の撮影画像から、もう一か所探しました。

 

GRANADA が見つかりました。

見たことがあるような・・・。拡大しましょう。

やはり、GRANADA は 「1492年1月2日」 キリスト教徒側、 戦勝国の記念日でした。

・・・500年以上前のイスラムの都、・・・アルハンブラ宮殿、ヘネラリーヘ離宮からの眺め

この谷の向こうには、当時のように洞窟で生活をする人々が後を絶たず、行政側も大変なようです。

予想外だった水と緑のグラナダから北上し、530km離れたカタルーニャ地方バレンシアへ、

地中海、学生の街、芸術と科学・・・穀倉地帯・・・米を生産している・・・パエリアが名物料理のようです。


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