気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

ヴェローナ

2019-02-15 | 旅行記

ミラノから東方のヴェネツィアに移動します。距離は約270km、東京から浜名湖くらいでしょうか。

この途中、東に160kmくらいの所で南北に走る(ローマとドイツを結ぶ)街道と交差する交通の要として、中世から栄えたヴェローナの街があります。

・・・紀元前1世紀にローマ帝国の支配地となり、得意の土建業でローマ同様、円型闘技場や水道施設などインフラが整備されました。

今日観光地として有名なのは、皇帝派と教皇派の紛争をベースに「ロミオとジュリエット」のロケ地?生誕地?

いや、シェイクスピアの作品の舞台となった地ですが・・・名所なのです。

今回は2000年に世界遺産となった旧市街地に、川を渡って古き遺跡から入ります。

アディジェ川が右側(上流)から左に流れ、川向うの旧市街をU字形に取り囲み、蛇行しながらヴェネツィアへと下っていきます。

橋の麓にはこの様な彫刻もありました。

剣を持っている天使、ミカエル?でしょうか、動作が良く理解できませんが・・・

橋を渡り道路が右に大きくカーブする所の左側に、このような遺跡がありました。

この門は始めて見ます。古代ローマ時代の門です。

資料によれば、ボルサーリ門、ベローナの正面入り口、(中世以前は、ユーピテル門と呼ばれていた)

門から中に進み商店街を少し直進し、やがて右折、そしてまた右折すると広場にでます。

円形闘技場、アレーナ・ディ・ヴェローナ 収容人員:2万2000人、長径:152m、短径:128m 高さ:30m

大きく破壊されていないので、この遺跡はイベントに使用されています。

マリア・カラスのここでの野外オペラ、イタリア初演は有名な話のようです。

他にも、U字形の最深部の川向うに半円状の野外劇場があります。

裏の丘の上に登り、旧市街を見たかったが・・・時間が無いようです。

足元に昔の旧市街の地図が埋められています。

着色と表示は作者が追記してますが、今日ではもう少し細分化され、広場も変わっているようです。。

左端のヴィットーリア橋を徒歩で渡り、ボルサーリ門から図では一ブロック上に進み右に1~2ブロック進み

下側のアリーナに出て来ました。

 

アリーナからまた地図上、上方に商店街をしばらく進み、

左に広場が見えてきた十字路を、右に曲がります。

・・・この通りをしばらく進むと、2ブロック先くらいの所にもこんな遺跡があります。

2000年前、ローマ帝国時代の土木工事が風化しないで残っています。(過去に撮影した画像)

古代ローマ時代の井戸跡、

旧市街、逆のコースで、こちら側から奥に塔が見える広場に向かって進むコースが、分りやすいでしょう。

このように遺跡を利用して景観を作っているのはさすが。

・・・では、元の位置に戻って、2~3軒先ではこのような景観ですが、これは雨の日で人通りが少なく特別です。

直ぐ先で、傘の女性が左を見ています。カッペロ通りのこの付近、通常はごった返しているようですが

この左のレンガのアーチ前は、

 

ジュリエッタの館、看板があります。

アーチの壁面は、メッセージが重ね合って貼られています。

中に入って、・・・撮影スポットがこちら、左奥の一角

ジュリエットの銅像です

後から市によって増設されたバルコニーもあります。

そして、このような風景が・・・人気を呼び・・・金ピカになっています。

シェークスピアのモデルとされている貴族のカプレティ家(13世紀とされる)、この館でも同様の悲劇があったのでしょうか。

館の向こう側上部に見えるV字あるいはM字のシンボルが目立ちます。

このベローナでは結構多いようで、神聖ローマ帝国皇帝派のマークで、ロミオの家は皇帝派。

ベローナは都市としては当初は皇帝派支持、やがて教皇派支持、その後また皇帝派が有利になったようです。

ジュリエットのモデルの家はローマ教皇派で、シンボルは上部の切り込みがなく平らの四角のようです。

この先斜め奥に、ロミオのモデルとされる館もありますが、入口に看板がある程度で内部には入れません。

都市や貴族を巻き込んだ神聖ローマ帝国の皇帝争いが続いた時代、・・・悲劇の物語のモデル地区が観光名所となっています。

通りに出て元の方向に戻り、十字路を直進するとエルベ広場にでます。

さらに進むと

広場中央、処刑もあったようです。中央の4本の柱は

歴史を感じさせる・・・水道がありました。

このベローナで一番高い建物が、広場横のランベルティの塔、

霧雨状態だが登ろうか・・・とにかく窓口へ・・・階段、エレベータ・・・8€ と言われて

確か自由時間は10から15分、視界が悪いので・・・コスパが悪すぎる、断念

ここでも画像が少ないので、以前の画像を

隣りの紳士たちの「シニョーリ広場」です。昔はアリーナの古地図にあったように今のエルベと続いていたようです。

1405年にヴェネツィアの支配下になり、教皇派と皇帝派の抗争も終止符が打たれたようですが・・・。

隣のフィレンツェでは、ダンテがジョットーが、宗教界ではアッシジの聖フランチェスコが聖書の解釈をめぐり

後に言われるルネッサンスの先駆け状況が生まれていました。

広場中央にはこの地を訪問したダンテの像、そしてパッラディアーナ聖堂、彫刻も色々あります。

羽根のある天使のようなライオン像はヴェネツィアの象徴です。(サンマルコの有翼の獅子像)

後年、ナポレオンのイタリア侵攻でヴェネツィア共和国が敗戦し、フランスの支配下になりますが

自由都市ヴェネツィアの近郊で、魔女狩りも少なかったのではと思います。 

このような

ゲートの投影画法や破断面などよく見ると、街中にはいろんな情報が掲示されています。

一方、こちらは元の広場をさらに進むと

噴水のある広場の向こう側に、壁面にフラスコ画?

モザイク画はヴェネツィアに多いのですが、教会には高価で贅沢と聖フランチェスコはフラスコ画を・・・

ルネッサンス以降の作品でしょう

色彩が淡く、画像処理をするとこのような見事な作品が見えてきましたが、この建築物には丁度良い雰囲気です。

濃い緑の格子が開き、シクラメンが窓辺に見えています。

落ち着いた、洒落たベローナ、エルベ広場から最初に入ってきた門に・・・何通りでしょう一直線、

前方に見えてきました。

裏側は、シンプルなデザインでした。ボルサーリ門の話です。

・・・アディジェ川に戻って来ました。

橋から上流にもこんな光景が、

こちらの橋の上、洒落たバスが走っていきますが、路面はローマと同じ四角錐の石を打ち込んでいる?

あちこち若干陥没状態も見られるが、・・・石は大変でしょう、用意するのも、修理も、

・・・浸透性のカラーアスファルトに何故しないのでしょうか・・・、

石の文化 先進国ですが・・・何故石畳か・・・雨の日は滑るし、騒音も多いし・・・。

歩けば・・・膝、腰に良くないし、霧雨のせいかスッキリしなかった。

 

 

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