先日、千葉県に住んでいる知人に“エミシ”のことで電話した。エミシとは、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、現在の関東地方と東北地方や北海道、樺太などに住む人々の呼称である。
中央政権の支配地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近代以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族でアイヌを指している。
そして、アイヌという自民族の呼称が意識的に使われだしたのは、大和民族とアイヌとの交易が増加した17世紀末から18世紀初めにかけての時期といわれる。
知人は古文書を読むのが趣味で、いろいろな博物館に行きエミシに関する古文書を読んできたそうである。その古文書を読んで分かったことは、大和朝廷側に立っていた人たちは、“エミシをやっつけた”と書き、エミシ側に立っていた人たちは、“大和朝廷にやられた”と書いている場合が多いそうである。
これで分かることは、歴史書とは、 “正史”が積みあげられて書かれたものであるが、その国や地域に支配的な影響力を持っていた王朝や政府などによって作られる。そのため正史は、勝利者側によって書かれた歴史書であり、正確性が保証されたものではないようである。
西暦801年、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命され、東北地方の“エミシ(蝦夷)征討”を行なっている。エミシ征討で分かったのだが、「前九年の役(1051~1062)」や「後三年の役(1083)」の戦いも、大和朝廷側とエミシ側が深く関与していた。私は、日本の歴史をあまり知らない。特に、エミシやアイヌの歴史が知らなかったので、これを機会にもっと詳しく知りたいと思う。
「十勝の活性化を考える会」会長
注) 後三年の役
後三年の役は、平安時代後期の陸奥・出羽を舞台とした戦役である。前九年の役の後、奥羽を実質支配していた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いである。
11世紀、東北地方には出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏という強大な豪族が勢力を誇っていた。しかし陸奥国の安倍氏は陸奥国府と対立し、康平5年(1062年)に前九年の役で滅亡した。この時、戦役の最終局面で参戦して国府側戦勝の原動力となったのが、清原氏の清原武則である。
永保3年(1083年)に後三年の役が始まるまでの東北地方の政治状況ははっきりしないが、清原氏の当主の座は前九年の役当時の清原光頼から弟の武則の系統に遷り、武則を経て武則の息子の武貞、さらにその嫡子の真衡へと継承されていた。
武貞は前九年の役が終わった後、安倍氏一門の有力豪族であった藤原経清(敗戦後に処刑)の妻(有加一乃末陪)を自らの妻としていた。彼女は安倍頼時の娘であり、経清との間に生まれた息子がいた。この連れ子は武貞の養子となり、清原清衡を名乗った。さらにその後、武貞と彼女の間に、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれた。
武貞の死後、清原氏の惣領の地位を嗣いだ真衡であったが、真衡には嫡男が生まれなかったので、真衡は海道小太郎なる人物を養子に迎えた。これが成衡である。これで清原氏は桓武平氏との縁戚関係が出来たことになる。 (後略)
(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
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