久々にジュリー演劇。
原作 泉鏡花 脚本 堀井康明
演出 蜷川幸雄
主演 浅丘ルリ子
沢田研二
1986年12月 帝劇公演
音楽 宇崎竜童 作詞 阿木耀子
泉鏡花は若い時に読んだきり、でも、なんだか美しい言葉が並んでたような気がする。
文芸評論家の尾崎秀樹さんがこう書いてます。
「鏡花は明治、大正、昭和の三代にわたり、巨歩を占めるとともに、三百余の諸作を通して
耽美的、主情的世界を拓き、日本語による表現の豊穣さをしめしたが、ロマンチシズムの賛美だけでなく
、日本の近代文学が見落としがちだった神秘主義、悪魔的なものとあわせて庶民の日常感覚、
抵抗意識をも汲み取っており、近代をこえるよそおいさえ感じられる。
三島由紀夫の鏡花論に次の一節がある。
「時代を超越し、個我を神化し、日本語としてもっとも危うきに遊ぶ文体を創始して、貧血した日本近代文学
の砂漠の只中に、咲き続ける牡丹園をひらいたのである。しかもそれを知的優越や、リラダン風の貴族主義や
民衆への侮蔑や、芸術至上主義の理論から行ったのではなく、つねに民衆の平均的感性と相結びながら
日本語の最も奔放な、もっとも高い可能性を開拓し、講談や人情話などの民衆の話法を採用しながら、
海のように豊富な語彙で金石の文を成し、高度な神秘主義と象徴主義の密林へほとんど素手で分け入ったのである。」」
まあ、ちょっと読むとちんぷんかんぷんだが、
これが蜷川演劇の舞台を見ると、忽然と理解できるようになる。
それほど、優れた演出だと私は思う。
お話はごく現実的な世界から唐突に荒唐無稽であり、鏡花の小説を知らなければ楽しむことができないかと言えば
それはそうではない。
とても、悪魔的、神秘的な要素がたくさんあり、
それは「浅丘ルリ子」「沢田研二」という類まれな美貌とオーラを持った俳優を使ったことで
「高度な神秘主義と象徴主義」が表現できたのだと思う。
原作 泉鏡花 脚本 堀井康明
演出 蜷川幸雄
主演 浅丘ルリ子
沢田研二
1986年12月 帝劇公演
音楽 宇崎竜童 作詞 阿木耀子
泉鏡花は若い時に読んだきり、でも、なんだか美しい言葉が並んでたような気がする。
文芸評論家の尾崎秀樹さんがこう書いてます。
「鏡花は明治、大正、昭和の三代にわたり、巨歩を占めるとともに、三百余の諸作を通して
耽美的、主情的世界を拓き、日本語による表現の豊穣さをしめしたが、ロマンチシズムの賛美だけでなく
、日本の近代文学が見落としがちだった神秘主義、悪魔的なものとあわせて庶民の日常感覚、
抵抗意識をも汲み取っており、近代をこえるよそおいさえ感じられる。
三島由紀夫の鏡花論に次の一節がある。
「時代を超越し、個我を神化し、日本語としてもっとも危うきに遊ぶ文体を創始して、貧血した日本近代文学
の砂漠の只中に、咲き続ける牡丹園をひらいたのである。しかもそれを知的優越や、リラダン風の貴族主義や
民衆への侮蔑や、芸術至上主義の理論から行ったのではなく、つねに民衆の平均的感性と相結びながら
日本語の最も奔放な、もっとも高い可能性を開拓し、講談や人情話などの民衆の話法を採用しながら、
海のように豊富な語彙で金石の文を成し、高度な神秘主義と象徴主義の密林へほとんど素手で分け入ったのである。」」
まあ、ちょっと読むとちんぷんかんぷんだが、
これが蜷川演劇の舞台を見ると、忽然と理解できるようになる。
それほど、優れた演出だと私は思う。
お話はごく現実的な世界から唐突に荒唐無稽であり、鏡花の小説を知らなければ楽しむことができないかと言えば
それはそうではない。
とても、悪魔的、神秘的な要素がたくさんあり、
それは「浅丘ルリ子」「沢田研二」という類まれな美貌とオーラを持った俳優を使ったことで
「高度な神秘主義と象徴主義」が表現できたのだと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます