コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

無憂華

2011-01-23 | Weblog



久々に書庫に入った。
それほどに本を読まなかった。

まずは専門書。近年それも読みたくはなかった。
いや、読むほどの必要がなかったのかもしれない。

病に臥せたらゆっくり読もう、なんて感じで求めた書物もあれこれ。
しかし、少し体調崩しても、とても読書などする気が起きないのに。

冷え冷えとした書庫でふと手にした1冊。
それは、九條武子著 「歌集と無憂華」。
無憂華 とは仏教の言葉である。
憂いの無い花 とでも言おうか。
インドに咲く無憂樹(Asoka)の花のことである。

この本には九條武子の美しい歌とエッセイが散りばめられている。

  百人(ももたり)の われにそしりの火はふるも
    ひとりの人の 涙にぞ足る

歌集「白孔雀」の冒頭の1首である。
「白孔雀」は昭和4年12月に武子三回忌記念に吉井勇によって編集せられた。
その序歌には与謝野晶子から5首の歌が寄せられている。

巻末を見ると、1978年改訂2刷 とある。
30年くらい前に求めたのかもしれない。


(まさに深窓の佳人 九條武子 最後の写真である。美人薄命とか。昭和3年1月27日
  享年41歳。その美しき生涯を終えた。)


ふたたび

  百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る

以前に読んでいた筈だが、また新しく読んだ思いがする。

大勢の人々から誹謗(そしり)を受けようが、たった1人の人が私に涙してくれればそれでいい。(拙意訳)

と彼女は歌ったのである。
まさにカウンセリングの真髄ではなかろうか。
翻って私はその「1人」たり得ただろうか・・・。
内心忸怩たる思いがする。

現在はカウンセリングや相談活動は後進にお願いして、スーパーバイズや研修・講演などを主にしているが、
どうしてもと乞われてお受けするケースもある。

相手のために如何ほどの涙を流しただろうか。
原点に立ち返った思いであった。

悲しいかな私には涙してくれる人は無い。
さほど「出る杭」などではないのだが、そしりの火は降りかかってやまない。
涙してくれる人がほしいと切に念(おも)うこの頃である。

  幾山河越えさり行かば寂しさの終(は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく

牧水の歌が脳裏を過(よ)ぎる心境・近況でした。

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