コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

啄木終焉の地に歌碑が!

2016-01-31 | Weblog


呼吸すれば、
  胸の中にて鳴る音あり。
   凩よりもさびしきその音!

  眼閉づれど、
  心にうかぶ何もなし。
   さびしくも、また、眼をあけるかな。
 


啄木ファンのyoーサンにはちょっとうれしい出来事でした。
石川啄木終焉の地、東京・文京区小石川五丁目に歌碑・顕彰室が完成しました。
啄木終焉の地歌碑建設実行委員会から「建碑報告書が」届きました。
最近、何かと慌ただしい上に、色々とあってブルーだったのですが、今日はにっこりしています。







歌碑は冒頭の二首です。啄木の最後の歌なんです。歌集「悲しき玩具」の最初にあります。
病状が悪化して、亡くなる2カ月ほど前に詠まれたものと聞き及んでいます。
私がまだまだ紅顔可憐な美少年(いやいや青白い顔した男の子)だった頃から、何度も口遊み涙したものでした。





佐藤勝先生が寄稿されています




私も佐藤先生とのご縁で呼びかけ人の一人に名前を連ねさせて頂きました。




少しでも元気なうちに、啄木所縁の各地を訪ねたいとしみじみと思うこの頃の私です。
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いまを生きる! 新・自分学講座 開講によせて 2. 

2016-01-27 | Weblog
自分学のルーツは

まずは、私のオリジナル「子育て自分学」(5~10回シリーズ)でした。
NPO法人カウンセリング研究会あのの のメイン事業の一つで、完成度の高い(自画自賛・w)
人気のある講座でした。
平成6年から10年間、各地で展開してきました。yoーサンまだまだ若くて輝いていた頃です。


福井カルチャーセンターでも開催して頂きました。あの頃の受講生の方々はお元気かしら。



懐かしいテキストです。苦心して書きました。繙いてみますと、今でも十分に使えます。


その後、やはり私のオリジナル「女性自分学講座」を開発しました。
しかしこの講座は数回のみで、以後は「素敵な女性への提言」というタイトルでのワーショップスタイルでした。

講演などでも同様の演題で各地でお話をさせて頂きました。
それ以後は、私が多忙を極めたこともあり、女性自分学はやりませんでした。
カウンセリング研究会などで、ややそれに近いこともしたのですが、会員さんの希望も10人10色でイマイチ自分の納得行くものではありませんでした。

そのような訳で、今度は私のオリジナルとしてはもう最後になるかと思っています。一方通行的なセミナーではなく、ワークショップでもなく、さりとてグループエンカウンターでもなく、それぞれのいいとこ取りで(w)。
よく、「なぜ、女性ですか?」と尋ねられますが、実は私、昭和57年(古いね)から10年間、
福井市勤労婦人センターの常任講師を務めさせて頂きました。

たしか、国際婦人年(10年間)の後期の頃だったと思います。「働く婦人の自立と子育て」というテーマを頂き、常設講座の講師をさせて頂きました。
それで、女性(その頃は婦人と表現されましたが)の生き方についても研究することになりました。
ホント!?本当なんです。笑ってユルシテ。

もちろん、男性諸氏のご参加も歓迎ですよ。
というわけで、今宵はこれにて。
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米沢豊穂 新プログラム  新・自分学講座 開講によせて 1. 

2016-01-26 | Weblog
雪の中にも春待つ心。新・自分学講座 開講準備

いま、北陸路は雪に覆われて
暖冬と思いきや大雪になりました。
でも、雲の向こうには青空が見え始めました。
節分、立春もやがて。雪国の人々は、巡りくる春の訪れを心待ちにしながら、
せっせと雪掻きをし、辛抱強く今日の生業(なりわい)に勤しんでいます。
北陸道丸岡ICに向かう道路です。

丸岡ICを下りると坂井市丸岡町。福井市、あわら市、そして永平寺町にも20分前後です。

何とか家(事務所)の前の除雪を。前が広いので、道路までずっと除雪しないといけません。

本宅の方も何とか。お店なのですぐ前が融雪道路で助かります。往年の地域一番店の縁(よすが)を
残しているでしょうか。

閑話休題
私はと申しますと、27年度最後の施設研修や講演などをちまちまと。
こんな雪の日は、4月スタート予定の新講座「自分学」の準備をしております。待って
いて下さる方々のご期待に応えるべく「自己忘るる」思い(w)で資料作りなど鋭意努力し
ています。12セッションの予定ですが、シュミレーションも兼ねて先日、ある保育園さんの
職員研修で資料の一部を使わせて頂きました。概ねご好評(自画自賛)頂きました。
進捗状況はまた、おいおいとupさせて頂きます。それでは今宵はひとまずこれにて。
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ふと、明恵上人のことを。 

2016-01-13 | Weblog
明恵(みょうえ)上人のことをふと。
長年に亘りカウンセリング研修や、その研究会等の講師を務めてきた。
単発の講演などは別にして、1年以上の継続学習では、短歌や俳句、或いは文学作品を紹介して講義もしてきた。
それは「文学に触れずしてカウンセリングを語る勿れ」という私の思いからであった。「なぜ文学なのか?」は長くなるので別の機会に譲る。また乞われれば仏教の話にも時間を割いた。
私自身、短歌が好き(特に啄木には傾倒してきた)なので、折に触れて紹介したり、実作もしてきた。啄木が何故好きなのか、何処がいいのか・・・などと問われても答えられない。物心ついた頃から啄木を読んでいたからなのかも知れない、なんて思っている。(w)
とは言いながら大した歌も作れない私である。
実は啄木以外にも好きな人が沢山ある。その一人が明恵上人である。どなたもご存じ、デューク・エイセスのあの、
京都 栂尾 高山寺恋に疲れた女がひとりの高山寺の明恵上人である。
以前、講話の中で下記のようなことを話したことがある。
明恵上人は歌人として知られた方ではないが、私は上人のお人柄は勿論のこと、御歌も好きである。上人の言葉に「和歌はよく詠まんなんどするからは、無下にまさなきなり。ただ、何となく読み散らして、心のまことに好きたるは、苦しくもなきなり」がある。
和歌は上手に詠もうなどと思って作ることではない。何となく、心に思うように詠むのがいい。とのことかと。(勝手な意訳ですが)
更には
「詩頌(しじゅ)を作り、歌連歌にたづさはることは、あながち仏法にてはなけれども、かやうの事にも心数寄たる人が、やがて仏法にもすきて、智恵もあり、やさしき心使ひもけだかきなり」(明恵上人遺訓)
下手な訳は止して、原文のまま味わって頂きたい。まことにその通りだと思う。文中の「仏法」を「カウンセリング」と置き換えたい。
上人がお月様をご覧になっての御歌に、
 あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月
本当に明るい月が目に浮かぶようである。また、
 山寺に秋のあかつき寝ざめして虫とともにぞなきあかしつる
夜半に目が覚めて、虫の鳴き声と一緒に明け方まで泣かれていたのである。
「あかつき」は現代では明け方という意味だが、古くは夜半、つまり夜中を言っていた。
上人は9歳で両親を亡くされていて、虫の声にもあの世の両親のお声かと思われて、涙なさったのではないかと思う。
明恵上人については、仏教上のことは元より、記したいことは沢山あるのだが、またの機会に改めたい。
 
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誕生日に思う 罪業深重 煩悩熾盛 の この身

2016-01-06 | Weblog

1月6日。恥ずかしながら今日は私の誕生日。


今年もまた素敵なお花が届きました。かれこれ20年近くも贈って下さいます。
その方はつい先日、師走も押し詰まっての頃にお母さんを亡くされたばかりなのに。「もう随分長く頂戴致しましたから」と誕生日のお花は固辞致しておりました。
本当に勿体ないことです。有難いことです。まずはお花に、贈り主の御心に手を合わせて愛でさせて頂きました。
また、ケータイメールにもオメデトウメッセージやお花、ケーキが。これは食べられないですがね。(w)
閑話休題
諸人よ思い知れかし己が身の 誕生の日は母苦難の日
故・高田好胤師のお話や著書の中でよく引かれておられた歌です。詠み人知らずということですが、私も法話や講演などで使わせて頂いております。
現在私は母を老々介護の身ですが、今日はこの歌をひとり声に出してみました。
親にはさんざん世話になり、苦労をかけながらも、なかなかその恩に報いることは出来ない私です。罪業深重とは私のためにある言葉かも知れません。
行基菩薩は
山鳥のほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ
と歌います。
父母(ちちはは)のしきりに恋し雉の声
は芭蕉の句です。
私も父を早く亡くしているので、感情移入することしきりです。
古来、親との死別から仏門に入る機縁となることがあります。高僧・名僧と呼ばれる方々にもとても多くあります。元はと言えば私の仏縁もそうではありましたが、煩悩熾盛の凡夫極まりない自身を恥じ入るばかりです。ままならぬ母の介護にもそのようなことを思い直しているこの頃です。

夕方、三女と孫達がやってきました。前もって注文しておいたというケーキをテーブルに置いてハッピーバースデーを歌ってくれました。これまた有難いことでした。



今宵はこれにて。
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米沢豊穂 近況・心境 朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや

2016-01-01 | Weblog
正月の炉に寄るここち限りなし一人なりせばさては知らねど(晶子)
例年そうであるように、行く当てもなく、来る人もなき正月です。
ふと晶子の歌など口遊んでいる私。

師走は30日に、
畏友・声明(ショウミョウ)セラピスト・釋 真聴 さんより
彼の主催される カウンセリング研究会くりのみ の機関誌「落穂拾い」411号が届いた。
今号は私のブログより「カウンセリング研究会萌え木の終焉」を掲載して下さっている。
何だか恥ずかしいような気持であるが、私の思いに同感して下さったことが何よりも嬉しく思っている。

朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや ご存じ、論語の中の一節である。
私には 朋有り、遠方より便り来たる。亦た楽しからずや でもある。
生来、群れることを好まず、長年一匹狼(いやいや一匹迷い犬ですが)の私には友人は少ないが、
彼とは、正に孔子の曰はく(のたまわく)「朋」であると思っている。「朋」とは友なんだけれども、志を同じゅう
する友だと思っており感謝している。





師走のある日、珍しく娘と一緒に金沢へ。何となく賑わいの中に身をおいてみたくなった。
     駅正面に大きなツリーが。



お昼はとんかつを。美味しかったです。

書店には来年の日記が。
金沢のお正月はやはり銘菓・福梅ですね。

スタバで珈琲を。注文している赤いショルダーが娘です。
帰省にはまだ少し早く、新幹線改札口はお暇みたい。
  
     ふるさとの訛りなつかし
     停車場の人ごみの中に
     そを聴きにゆく

啄木のこの歌など思い出しながらの金沢駅や界隈ぶらりでした。


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