「読書とは、著者の魂との邂逅である。」亀井勝一郎さんの「読書論」の言葉である。
今、暁烏敏全集を読み直している。敏師の魂との邂逅である。一字一句を心して読んでいる。
いつも残命を算えながら読書をしているので、つまらぬ雑本の類は読まない。
しかしながら、本書はなかな大部のものなので、そう簡単には読み切ることは出来ない。日々あれこれと用事が山積している。いきおい夜間寝る時間を惜しんで読むので、拙ブログの更新はいよいよ優先度が低くなる。
前々回も紹介させて頂いたが、畏友釈真聴(鈴木新太郎)さんは会報「落穂拾い」の冒頭に、私の本棚 いちばん古い居住本(?)は「毎田周一全集」(全12巻)昭和45年8月第2刷です。随分とシミも出てきましたが、もうしばらく凭(よ)りかかります。と書かれる。
釈真聴さんも私も同行(どうぎょう)・同朋であるが、お互い本当によく似たことを思っているものである。毎田師は金沢の方で、暁烏師に師事された方である。釈真聴さんとは本当に浅からざるご縁とつくづく思っている。
<閑話休題>
新あのの ANONO FU (釈真聴さんは、FUの方がと仰います。FUは優しい響きかしら)
皆様からのバックアップがうれしいです。
こちら地元の方でも「お手伝い出来ますことがあれば」とのお申し出を頂いております。リアルでの会を持つことが出来れば参加したいとのお声も頂きました。皆様のお知恵をお借りして前進して参りたいと存じております。
どのような内容ですかとのご質問もありました。前々回、大まかには記しているのですが、私なりのプログラムがあります。何と申しましても30余年に亘って研修・ワークをしてきましたからね。まずは「自分自身を知る」からスタートです。
殆どの人は本当の自分自身を知りません。知っているつもりなだけなんです。長年、数多くの方々にこのセッションを体験して頂きましたが、皆様方に沢山のお気づき(気づかされ)がありました。
暁烏敏師の書にも「汝自身を知れ」を引用されています。この言葉は暁烏敏師の師であった清沢満之先生が大切にされていました。これはギリシャの古言ですが、ソクラテスは「己の無知の自覚」と捉えな直しています。まことに不思議な符合と存じております。それでは今宵これにて。つづきはまたね。