
花もわたしを知らない
誰もわたしを知らない
わたしは死ななければならない
誰もわたしを知らない
花も知らないと思いながら
北近江メタセコイアの並木道三度(みたび)訪ひきて過ぎし日想ふ 筆者拙詠
つひに5月も下旬。矢の如く時は・ときは・過ぎて行く。
保育園保護者向け講演、仏教講話、読書会での助言者としてゲスト参加、そして相談員研修講義等を無事終えた。もう往年のパワーはないが、カウンセリング研修は気合が入る。雀百まで何とやら・・・。
自分へのご褒美などと言えないが老馬の休日。もう何年ぶりだろうか。愛車を駆って奥琵琶湖・北近江路を束の間の旅をしてきた。以前、常任講師を務める「実践カウンセリング研究会萌え木」のワークショップ「しなやかに女の時間 IN OKUBIWAKO (クリックOKです)をした。その折の宿泊会場であった奥琵琶湖の公共の宿は数年前に閉業したので、メタセコイア並木にほど近い琵琶湖畔のリゾートに宿を取った。我ながら久々の非日常を満喫した。
窓をあければ琵琶湖が見える・・・♪
と言う訳で今宵これにて。
ウェイブダッシュが運営する、みんなでつくる地域応援サイト「生活ガイド.com」では、全国各地の街の「街並みや雰囲気」「安全」「店の充実」などの指標について集計・発表したり、各地の人口や歳入などの統計データを紹介したりしています。引っ越し先などを探すうえで、役立てている人も多いのではないでしょうか。 【画像:ランキング9位~1位を見る】 今回は「生活ガイド.com」の協力のもと、「福井県の地域注目度ランキング」を紹介します。福井県でいま最も注目を集めている街は、どこでしょうか? なおこのランキングは、同サイト内の全国各市区(町村は除く)のページへのアクセス数の合計から作成されています。参照したランキングは、2024年2月1日~2024年2月29日の福井県のものです。 (出典:生活ガイド.com「2024年2月 【福井県】地域注目度ランキング」)
第2位は「越前市」でした。集計期間時点での「生活ガイド.com」の住民意識チャートによれば、「街並みや雰囲気」が良いと回答した人が89%と多く、そのほかは「地域交流」が83%、「店の充実」が80%、「愛着」が74%となりました。回答者からは、お寺が多い点などを評価する声が聞かれました。
第1位は「坂井市」でした。集計期間時点での「生活ガイド.com」の住民意識チャートによれば、「街並みや雰囲気」「店の充実」が良いと回答した人が100%と多く、そのほかは「安全」「交通の便利さ」「愛着」「地域交流」が80%となりました。回答者からは、水や食材がおいしい点などを評価する声が聞かれました。(以上転載終わり)
春は名のみの風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず
時にあらずと 声も立てず ・・・♪
早春賦の歌詞そのもののこの頃、
こちら北陸路の春は もう少し
先のようです。
あのの ニュースレターを発送
致しました。
遅ればせながら、まずは震災お見舞いのメッセージやお手紙を頂戴致しまして誠にどうも有難うございました。心より厚く御礼を申し上げます。久々の大揺れには驚きましたが、私宅は棚から牡丹餅じゃなくて、物が落ちた程度で無事過ごしております。
しかしながら、能登各地には知人友人もあり心痛むこの頃です。私も嘗ての福井大震災を経験しておりますので、その過酷な状況は筆舌に尽くし難いものがあります。1日も早い復旧を念じることしきりのこの頃です。
さて、身辺あれこれとあって本通信も書きかけては中断する有様でした。昨年は殊の外残暑が厳しく、秋らしい季節感がないままに冬を迎えてしまいました。少しばかり近況・心境を。
季(とき)は徐に移りて。
銀杏並木の枯れ葉が散ると、北陸路は間もなく雪に見舞われる。
今冬は暖冬の予報だったが、地域的には警報級の降雪とのことである。
近年、概ね天気予報が当たる。師走も半ば頃、夜半の冷え込みに目覚めて窓の障子を開けると粉雪が舞っていた。翌朝は案の定、降り積もっていた。
雪は道路を一変させる。
日々の生活は何かと不自由になる。公共交通が便利ではないので、一軒当たりの自家用車の所有台数は全国一の土地柄。道路の除雪、或いは渋滞は通勤、買い物、医療受診等に支障を来す。
されど人々は誰も小言を言うこともなく、譲り合い、助け合いながら暮らしている。只管春の訪れを待ちながら。
If Winter comes, can Spring be far behind ? その翻訳の妙に感じ入る。
年明けて2、3度の雪かきはしたが、降雪は続かず道路の雪は消えて、白山に連なる山々は美しく輝き、時折の日差しが心を和ませる。でも、昔から2月の降雪は多い。耳を澄ましても春の女神の足音は聞こえてこない。如月は衣更着(きさらぎ)の異名も。寒いから更に着る。つまり重ね着の月。
お陰様にて体調不良も克服?無事前線復帰しました。勝負服は紺のセミダブルのブレザーです。3着目になりますが、もうこれでラストには違いありません。(恥ずかしながらyoーサンの近影です。病み上がりかしら?)
取り敢えずの更新でした。それでは今宵これにて。ごきげんよう。
ブログタイトルを少し変更しました。マイナーチェンジ、それともイメチェンかしら。先日「どうして?」のご質問メッセージを頂きましたので補筆訂正して再掲させて頂きます。
2004年に開設以来18年間のタイトル「コミュニケルーム通信」に「あののFU」がつきました。元々、あののは「あののは窓 吸って吐いての風が流れます しなやかな時があります」が合言葉のようなフレーズでした。それで今回のFUは「風」、「ふう」から来ています。
今後は私の半生をかけてきた、温かな人間関係をつくるための「カウンセリング・マインド」を更に広げて行きたいと思っております。
拙ブログをフォローして下さっている
「わたしの心」のMrs.modestさん(一番最初にフォローして下さいました方)から先日「お役に立てることがありましたら」とのメッセージを頂きました。とてもうれしく存じます。以前から考えておりました通信会員(Web or Net)として多くの皆様のご参加を頂けましたら、とてもうれしいです。
「カウンセリング研究会あのの」は昭和63年(1988)2月に誕生しました。今年で35年になります。当初は任意の集まりでしたが、その後NPO法人になりました。発足以来20年間はフル活動でした。社会の中でそれなりの役割を果たしてきたとの自負があります。その後は文学(啄木や短歌・俳句等)や仏教(歎異抄)の講座を福井県生活学習館とタイアップして提供させて頂きました。
しかしながら、会員数の減少(教職や幼児保育等の方々が定年を機に退かれる等)や、長引くコロナ禍の中で、なかなか先が見えにくく時間ばかりが過ぎて行き、活動は停滞期に入りました。
私は創立以来、常任講師としてお迎え頂きました。その後、先代理事長が退かれて、次の世代にバトンタッチするまでの間の繋ぎでお引き受け致しました。でも、NPOは少し煩雑な事務もあり、私自身、理事長は元よりNPO法人はこの辺りで終焉を迎えてもよいかと思い始めました。
そのような折り、これまで私の講演や講座等ご一緒に学んで頂きました各地のお仲間より「もう一度お話をお聞きしたい」、「啄木や文学にふれたい」、「あののは私の心のふるさとです」・・・等々のeメールや本欄メッセージ、或いはお手紙を頂戴致しました。
とても嬉しいことですが、私には以前のような活動にはパワー不足を感じています。仮にコロナが終息しましても、講座、研修はちょっとしんどいかなと思うこの頃です。それで、このブログやネット等による全国のお仲間の皆様との交流が実現したらいいな、と思いブログ名もこのようにし、ご縁を頂ける方々への広報・伝言板的な要素もと思った次第です。
学びの母体は「カウンセリング研究会あのの」として私・米沢豊穂がカウンセリングマインドを基本に文学や仏教等、あらゆる意味での私の集大成にしたいと思っています。
学びの基本は今もこの1冊(下掲)と思っています。会のテキスト的役割も果たしてきました。教育、福祉、或いは学校・PTA等各方面でご愛読頂いてきました。
上梓以来20年にもなりますが、今も図書館や、教育関係者より「在庫はありませんか?」とお問い合わせを頂きます。もう書店にも出版社にも在庫はなく、事務局の残部も僅少になりました。
若泉征三氏は旧今立町(現越前市)の町長、その後衆議院議員をされました。当時は日本で一番若い町長さんでした。現在は地方自治や都市問題のコンサルテイングや講演等をされておられます。「行政に関わる者にとって受容や共感性(カウンセリングマインド)が大切」と仰って本会の顧問をして下さいました。
元小学校の先生でいらした方は「郷土作家と私」という読書感想文集にこの本を選んで下さいました。ほんの一部をご紹介します。
★温かな人間関係を築くための心と方法を学ぶ
★短歌、俳句や文学作品を通して感性の醸成
★ワークショップ・グループエンカウンター(心のふれあいの体験)
★仏教の教えとは
★歎異抄とは
★教育相談 人生相談 不登校・引きこもり、その他
★生きる日々の悩みにお応えして
★人間関係・家族関係
★フォーカシング
★悲嘆カウンセリング(grief counseling)
身近な方を喪った方への心の支えにならせて頂きます
会員の方々には、長年カウンセラーとして新聞等の人生・教育相談の回答者、或いはラジオでのゲストスピーカーとしての経験をフルに生かしてお役に立てることが出来ますればサイコーかなって思っています。
私へのメッセージは欄外プロフ写真上の📧「メッセージを送る」よりお願い致します。
名残雪ふるさとの城凛とせり (筆者拙詠) 画像は我が町のシンボル丸岡城
ふるさと自慢ではなけれども、丸岡城は春夏秋冬いつ仰いでもいい。国宝であったが昭和23年の福井震災で倒壊し、その後再建された。小さいながら古武士の風格がある。この冬の大雪もほぼ消えた数日後、夜の間にほんの少し降った。画像はスマホで撮った1枚だが我ながら一幅の墨絵を見る如くであった。
ふるさとの山並みも神々しいばかりに美しい。春は光から秋は風からともいう。春は徐に近づいてくる。四季折々にふるさとの風景に癒されている。画像中央の二つの峰は「丈競山(たけくらやま)」で、私たち地元では「たけくらべ」と呼ぶ。北峰は960m、南峰は1,000mほどだったかな。二つの山が背比べしているように見えるでしょっ。
柱に凭(もた)れりゃ すぐ見える 遠いお山も背くらべ・・・♪
なつかしい童謡ですね。
閑話休題
以前講演にお招き頂いた石川県のある茶道の先生から「ささやかな茶会ですがどうぞお出ましを」とのお誘いであった。これまでにも幾度かのご案内を頂きながら、なかなか日程が合わなかった。というか機が熟さなかった。
ところが今回は私の日程に合わせて決めて頂いた。近年はお茶には縁のない暮らしなので不安はあったが「コロナ禍で久々の茶会です。社中の皆がぜひお話をお聞きしたいと申しますので」の言葉に絆されて、いそいそと出かけてきた。
マスク姿の茶会だが、言葉は少なくても一同和気藹々の雰囲気はさすがである。先生のお人柄がお社中の皆さんに薫陶感化されるものである。
勿論お薄のみであったが、お正客ということで(イヤな予感が的中して(@_@))講演よりも緊張した。しかしながら久々のお抹茶と銘菓は格別であった。
この日、とても心に残ったことがあった。それはお薄を頂いた茶碗についてである。形通りの拝見の作法に入ったが一目瞭然、私の好みの萩焼だった。茶碗の側面の腰の辺りが薄い茶系で、胴から上部にかけて乳白色に近い淡い灰色で、絵柄は無く萩独特の素朴で柔らかな感じであった。全く私のためのお茶碗!なんて思うほど、心憎いばかりの演出、いやお心遣いであった。
前回の講演はもう随分と前のことなのに、その時、たしか抹茶碗や焼物の話もし、萩焼が好きなことも話した。先生は私の好みを覚えていて下さったのだ。そして、お茶碗に先生ご自身が「名残雪」と名付けておられるという。これまた私の心の奥までお見通しかと胸にジーンとくるひと時であった。
下の画像は以前の講演について触れた拙文。当時、色々なテーマでシリーズ連載して頂いた。この時は茶道の組織の総会か研修会での記念講演であったと思う。
その後、少しばかりお話をさせて頂いた。冒頭に、
心にもあらぬわかれの名残かは 消えてもをしき春の雪かな
と、定家卿の和歌を引いた。本来の意味はさておいて、侘び寂びの境地である。啄木を講じる時とはやや趣の異なるyo-サンの一面かしら・・・。
つづけて雪にまつわる話などをしばし。
定家卿の歌を最も重んじたのは茶道中興の祖とも呼ばれる武野紹鴎である。新聞随想の中にも触れた「見渡せば花も紅葉もなかりけり・・・」を茶道の心とし、自らの家の壁に貼っていた。それは次代の千利休にも大きな影響を与えている。以下その紹鴎に纏わるエピソードである。
ある雪の日の茶会である。庭の木々に降り積もった雪を花に見立て、花入れには花を入れずに水のみを入れ、脇の香炉に香を薫いた。それは、
雪降れば冬籠りなる草も木も 春に知られぬ花ぞ咲きける
と詠んだ紀貫之(古今和歌集の撰者の一人)の歌の意に通じるのである。また、ある夜咄の席に鶴首の花入れに水仙を入れたところ、壁に映ったその影があたかも鶴が空に向かって一声する姿のようであった。その頃の茶人たちは夜咄には花を入れなくなったとさえ言われている。現代の茶人に求められるものに気づかれれば幸いである。
端折ったが私の拙い講話は、まあこんな感じだったかな。茶道は茶禅一味といわれて仏道にも通じる。道とは利休居士も、
「茶の湯は第一仏法をもって修行得道することなり」と残している。
茶会風景をお見せ出来ないのは残念だが、仏道修行の場でパチパチ写真は写さない。茶道も仏道も「道」である。仏の道、人の道である。お点前やお道具を写すことは論外。スマホやデジカメは元より、時計、貴金属等も全て外すのである。私は控えの間(寄り付き・待合ともいう)に持ち物全てを置いてきた。先生のお宅での親しく気軽な茶会と言えども私なりの矜持でもある。
今宵これにて。
ある会の文芸誌が本年で終刊となる。私は会員ではないが乞われて創刊以来20年書いてきた。いよいよ最後の原稿を脱稿した。バックナンバーを繙いてみると、故人となられた方が何人もある。皆それぞれ生きてきたことの一つの証でもある。
創刊号の巻頭には、もう故人となられたが福井の詩壇をリードされた広部英一氏(詩誌・木立同人)より詩「夏空」が寄せられた。なぜか私のエッセイが次に。
その次の福田強氏は会の創立者であり、中野重治記念丸岡町立図書館(現・坂井市立)館長をされた。亡くなられてやがて7年になるが、私は長年氏の薫陶を受け恩人でもある。
この誌のネーミングは丸岡町(現・坂井市)出身の内田忠(大正、昭和前期頃の詩人、昭和19年39歳で没)の同人詩集「山桐」からとった。福田氏の本心は山桐本来の詩集にとの思いであったが、詩は簡単そうに見えても、とても才能のいる文芸なので書き手があまりいなかったようだ。私自身、詩は好きだがその才なく書けない。
私は生来、文を書くことは好きであった。小学生の頃の綴り方に始まり、読書感想文、青春時代は当時流行っていた若者向け月刊誌や抒情文芸誌に投稿。長じては新聞の随想等の連載、著書出版等。書くことは私の自己表現であり、常にアイデンティティの確認でもあった。
この頃は殆どの原稿は編集者の方からの要望で、パソコン打ちした原稿をEメールに添付送信する。以前は原稿用紙に書いていた。愛用の万年筆で升目を埋めて行くのがとても快い作業でもあった。勿論今でも筆記用具は万年筆である。漢字などを忘れると即辞書を引き、まずはメモ紙に書く。何よりのボケ防止でもある。ネットで一発で分かるが又すぐに忘れる。と言うか正確に書けなくなる。所謂、漢字ゲシュタルトが崩壊してしまうのである。読めても書けない人は多い。
近年は遅筆も著しくなった。今回も締め切りはギリギリ延ばして頂きながら推敲も十分出来ず終いであった。しかしながら書き終えた後の安堵感の中で飲む久々のビールの味は格別であった。ふだんはあまりアルコールはやらない。
<閑話休題>
長年、多くの方々の文章を読んできたが、読むほどに書き手の人柄、性格、或いは価値観等が解って面白い。文章とは必ずしも纏った作品に限らない。手紙やハガキ、或いはEメール、ブログもまたしかりである。取り分け私の専門のカウンセリング心理学からも裏付けられる。当に文は人そのものである。
締め切りまでに何日間もの時間をかけて書き上げた作品などは、書き手にある程度の文学的素養や文章作法も備わっている。また推敲も重ねているのでピタリと当たると言う訳ではないが、当たらずとも遠からずである。
日々更新されるブログの類は、前者のような背景はあまりなく、思いのままに書き連ねていることが多いので、その人の行動傾向がよく見えてくる。勿論、文章の巧拙を論じている訳ではない。多くのブログなるものを読んできたが、その書き方や内容を分析・考察して「ブログ人間模様」なんて書いても面白いかなと思っているこの頃である。今宵これにて。
近況&心境
あのの風 の皆様。
お心遣いのメッセージ等痛み入ります。体調万全ではありませぬが、お陰様で生かされております。まっこと有難きことと存じつつ暮らしております。
若狭路は海辺の町の麗しき人より届く紅白の桃
ゆうパック届きて嬉し蓋とれば桃の香りの部屋に満ちたり
昨年も、(クリックOK)その前にも書いたのだが、今年も極上の桃が届いた。何よりも亡き母の好物、早速お仏壇に。ひと時を在りし日の母を想ひて過ごした。
いつもながら贈り主のお心に感謝しつつとても美味しく戴いた。毎日、あれこれと為すべきことが多く、時間と駆けっこの暮らしで、体調も低下気味だったので、旬のフルーツは格別であった。
その後に頂いたお手紙も、これまたお心のこもったものであった。ケータイやメール全盛時代だが自筆の便りに勝るものはない。これもお人柄である。私流にはカウンセリング・マインドの豊かな方である。
<閑話休題>
昨年11月24日付けの「友・朋へのメッセージ」(クリックOK)にも記していますが、先日「小さな小さな仏教講座」の3回目をしました。いつもながら私の講義などよりも、その後の皆さんでのお話合い・分かち合いが盛り上がります。
話題のひとつに、先般の事件のことがありました。このことについて私に「どう思うか」とのことでしたので、今後「歎異抄」について学びあう予定ですので、歎異抄の中から引いてお話をさせて頂きました。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
歎異抄の中で唯円坊(歎異抄の著者)が記している親鸞聖人の言葉です。
「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定(いちじょう)すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量(きりょう)にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と
チョー端折って意訳してみます。
親鸞「唯円よ。私の言うことを信じるか」
唯円「はい。もちろんでございます」
親鸞「では、ひとを千人ころしてみろ。そうすれば極楽往生出来る」
唯円「めっそうもありません。私はひと一人も殺せません」
親鸞「それは自分の心がよくて殺せないのではない。殺さねばならないと思う条件・そのような縁にふれれば殺してしまうこともあるのだ」・・・
いつもこの辺りを読むと唯円の顔を想像します。親鸞の問いかけに、きっと鳩が豆鉄砲をくらったようではなかったかと。
親鸞の発したこの言葉は本当に人間の心の奥底を突いていると思います。私はあの事件の加害者を責め罵る気持ちは起こりません。彼の母がカルト的な教団に入らなければ、そして殺された人がその教団に賛辞等を贈らなければ、殺さず、殺されずであったでしょう。
お一人の方がいみじくも仰いました。「人はその人が生きてきたように死ぬ」と。言い得て妙ですね。死を悼むことは人間の美しい心情ではありましょう。しかしそれは静かになすべきことであり、大騒ぎすることでは決してありません。
お話し合いは続きましたが、それは次回に譲りましょう。
最後に皆様と「讃嘆の歌」を歌っておひらきとなりました。皆様のお顔が光り輝いていましたよ。「讃嘆の歌」とはお経「仏説無量寿経」の中にある「偈」(うた)なんです。経典では難しい漢字ばかりですが、それを易しく意訳して曲がついています。私はお歌のお経なんて呼んでいます。
光かがやくかおばせよ みいずかしこくきわもなし
炎ともえてあきらけく ひとしきもののなかりける ・・・♪
今宵これにて。 三帰依 yo-サンこと 釈豊照でした。