コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

金沢だより② 振り向かないで金沢の人♪ 再編集版

2019-04-25 | life
 

今日のお勉強のレジュメです。個人の様々な問題(行動)を、その人のみではなく、その家族の精神力動にも焦点を当てます。家族療法、家族カウンセリング、或いはシステムズアプローチなどと呼んでいます。



お勉強会も無事に終えて、快い疲労感。エレベーターの扉に書かれた絵に思わずニコっ。


近江町市場をぶらりです。




yo-サンは甘党なのでつい立ち止まって。(左党じゃないかって?ハイハイ砂糖で。)


  近江町その賑わいの人波に和服姿の麗人眩し



お着物の良さは勿論のこと、後姿にも品格があります。麗人と言いますか、佳人とも申しましょうか。さすが金沢、加賀様百万石のおひざ元ですねぇ。



 白山紬か 加賀染めかしら 和服姿の素敵なあなた 
 ついて行きたい あなたの後を 振り向かないで金沢の人
 !?
yo-サン作詞の「振り向かないで」の金沢バージョンです。エメロンの曲で歌ってね♫

恥ずかしながらyo-サン家は呉服屋さん。着物に関しての知識は勿論、見る目も半端ないって。マジです。(w)
金沢だよりはこの辺で。その後は?って。この歌でもいかが・・・。yo-サンの十八番です。ぜひ一度金沢へお越しを。yo-サン心よりお待ち申しております。

翌日はお世話になったスタッフの方々にお礼を一筆。yo-サンのyoーサン的心です。30年間書いたお礼の葉書は千枚は遥かに。

それでは今宵はこれにて。
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金沢だより。

2019-04-24 | life
今年からセミリタイアの筈なんですが、日々あれこれと用事があって、更新も間遠くなっています。旅日記のつづきはまだ書く予定ですが、チョイ金沢だよりです。 
  
20日(土)は金沢講演でした。いつもはJR芦原温泉駅から特急サンダバードなどを利用しますが、今回は午後からの講演なので、ふつう電車にしました。束の間の青春18感覚で、沿線風景を楽しみながら。

駅にはポスターが。もう蓮如さんの季節ですねぇ。むかし・昔、この辺りは細呂木村と呼ばれました。(今は、あわら市細呂木です)蓮如さん所縁の吉崎の最寄駅です。ポスターの透明版に反射して、駅の向こう側とカメラを構えているyo-サンが写りこんでいます。






芦原温泉駅から一つ金沢寄りの細呂木駅から乗車しました。典型的ローカル駅。乗車は私と他に2人のみでした。こちらは無人駅で、券売機もなく、切符は車内で車掌さんから。


白山に連なる山並み、沿線の田園風景が美しい。




乗車時はがら空きだった車内も、加賀、小松辺りを過ぎると混み合ってきました。でも、立っていても、坐っていてもスマホに夢中の人達。


途中、「お席いいでしょうか」と、妙齢のご婦人が。金沢までご一緒でした。別に何かお喋りする訳ではなかったですが、何だかデート気分。彼女は金沢へお買い物かしら・・・。


1時間10分ほど。束の間の18気分。いつ来ても金沢はいいな。



金沢から東京、大阪、仙台、名古屋などへ高速バスも。



私は、まちバスで近江町へ。バスはゆっくり走って10分ほどです。


女性のドライバーさんです。ワンマンバスなのでアナウンスしながら。笑顔の素敵な方でした。


着きました。正面左が名鉄エムザ、右側が近江町市場。今日は講演の前にお昼をご馳走になります。


寿司割烹・居酒屋「近江屋伝兵衛」さんへ。


気の利いたいいお店です。金沢港で上がったとれとれの美味しい海鮮をご馳走になりました。





これから講演会場へ移動です。途中ですがまた。



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束の間の旅人 Ⅳ 長崎の街を往く

2019-04-14 | life






長崎港を一望に。大きな客船が停泊中だ。あの船は何処から来て、何処に向かうのだろう。南山手の丘のグラ―バー園に来た。
生憎、旧グラバー邸は耐震工事中で入れない。しばし園内を散策。
     あさ明けて船より鳴れる太笛のこだまは長し並みよろふ山
茂吉の代表的な歌の一首。私は茂吉のような歌にはどうも敷居が高い。いやいや全く力が及ばない。しかし、茂吉は好きだ。どことなく暁烏敏師にも似たようなところが・・・。私の亡き母の歌は茂吉のアララギの流れだった。





旧グラバー邸の周囲を囲むように、臨時に設けられた金属の足場のような通路から見学できる。下の石を敷き詰めた小径を眺めると、おや1カ所、何かが見える・・・?わかるかしら。(恋してる人にはすぐに見えますよ。)yo-サンなぞ、一発で。(w)今どき流行りのパワースポットだって。


やはらかな春の陽光を浴びて、坂道を街へ下りる。
瀟洒なお家が。おや、気持ち良さそうにネコちゃんがお昼寝。私にもこんなひと時がほしい・・・。



街に出て、長崎港へ。海からの風は少し冷たい。温かな珈琲でも。
おや、帆船かしら?この船は何をする船だろうか。


とても美味しいと有名な珈琲店のテラスで、海を見ながら戴く一杯は格別。カップには龍馬さんのお顔が浮かぶ。

半分ぐらい飲んでも、お顔はまだ崩れずに。楽しくて美味しいひと時。



ゆっくりと街を歩く。
街中を流れる小川のせせらぎ。思わず

  わくら葉を今日も浮かべて 街の谷 川は流れる
  ささやかな望み破れて 悲しみに染まる瞳に 黄昏の水の眩しさ・・・♪
を口遊む。(古いねぇ。yo-サン、美樹さんの隠れファンでした。)



シスターになると言ひ来て去りし君五十年(いそとせ)を経て今は何処(いずこ)に

今は昔、恩師に頼まれて束の間の、夜学の高校の代用教員(啄木流に)をした。文芸部の顧問をもさせられた。部員の一人に、信州から集団就職で来て、昼は紡績で働いている女生徒がいた。彼女は就職の翌年の入学なので、大方の同級生より1年の年長であった。
いつも物静かで、何処か寂しげであったが、部の「ともしび」という文集の編集委員もしていた。自らもツルゲーネフの「初恋を読んで」という感想文を書いたことがあった。

夜学なので4年制であったが、4年の後半には、部へもあまり顔を出さなくなった。私は基本的には週3、4日ほど、現代国語を担当する講師なので、担任もなく、生徒の詳しいことなどはあまり知らなかった。彼女も実家のことや、仕事のこと、卒業後の進路など色々とあるのだろうと思っていた。
卒業が近づいた2月の中頃のある日、珍しく彼女が部にやってきた。そして徐に「先生、文芸部で先生から啄木のことを教えて頂いたことが心に残っています。私は、卒業したらシスターになります。長い間お世話になりました。」と言い残して去った。「えっ、シスターに!?」と私は言ったが、彼女は微笑んで頷いただけであった。
部員と言っても小人数だし、部としての卒業生を送る何かをしなかったと思う。卒業式が終り、生徒たちが教室に戻る時、彼女は私の所に来て、「夜学に来て先生と会えたことが、とてもよかったです。」と一言残して、後はもう振り向かずに仲間の所に小走りに駆けて行った。
私も、その年で講師を退任した。新年度に恩師は校長になられた。私も身辺色々とあって、彼女のことは忘れていた。一度、彼女の後輩の生徒が訪ねて来て、彼女の話題に及んだが、「長崎の修道院に行ったとか・・・」程度しか知らなかった。
まあ、一人の教え子のことなので、その後は詮索することもなく、やがて半世紀にもなる。僅かに、彼女の出身地は北佐久とだけは記憶に。たぶん、藤村の「歌哀し佐久の草笛」の印象からだろう。
もし、彼女が健在なら、今は、このシスターぐらいではないだろうか。なんて、ふと・・・。旅は色々なことを蘇らせる。yo-サンの長崎の旅はもう少しつづくようだ。



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束の間の旅人 Ⅲ 長崎に想う

2019-04-13 | life
大浦天主堂は1865年に造られた。日本に現存するもっとも古いキリスト教の建物である。長崎市にとっては観光の目玉の一つだろう。 たしかに美しい。
折りからの世界遺産登録の地域に含まれ、観光の人々が引きも切らずに訪れる。なかなかシャッターチャンスにも恵まれない。観光客のback view では始まらない。下掲の2枚の画像はWikipediaから借用。





観光客の一団が昇りきり、しばし石段の人の波が途絶えた時の1枚。浦上からは徒歩では時間不足なので電車を利用したが、yo-サン、チョイお疲れモードかしら。大体が人が大勢いる、或いは群れているところが好きではないのでねぇ。
下1枚目は大原天主堂正面の「日本の聖母像」を前面から。次は裏側から撮影。

1865年、天主堂が建立されると、浦上の貧しい信者たちが「天主様とマリア様に奉げます」と大金をフランスから来られたプティヤン神父に。神父はマリア様像をフランスに発注された。その1年後フランス公使が長崎に来られた際に「日本之聖母」と名付けられたそうだ。



いつも思う。十字架のイエス様は哀しくて胸が痛む。マリア様の美しく優しい表情には無条件の受容を感じる。


今回の長崎行きで、今まで曖昧だった、隠れキリシタンと潜伏キリシタンの違いについて理解出来た。しかしながら、権力者がやってのけた「切支丹」への迫害・弾圧に対して、言いようのない悲しみと憤りが露わになる私。秀吉にはじまり、徳川幕府、そしてなお明治までもつづいた。キリスト教に限らず、古今東西、権力者は敬虔なる信仰者を排除、迫害する。そのような中で、受け継がれてきた信仰に感涙する。信仰とは本来そのようなものである。それでなければ利己主義の神頼みに過ぎない。

今ふと、傾倒している故・清沢満之先生のことを思い出した。先生は西洋哲学、特にヘーゲルに影響を受けた。そしてあらゆる意味で歎異抄を再発見した。(親鸞の近代的再発見でもある。)先生は「予の三部経は阿含経とエピクテタス(古代ギリシアのストア派の哲学者)の語録と歎異抄である」と言われた。三部経とは浄土真宗では「無量寿経」、「観無量寿経」、そして「阿弥陀経」の三部を言う。

実は私が今、清沢先生を想ったのは、先生が感銘されたエピクテタスは「権力者が私の何を束縛出来るか。鎖で私の足を繋ぐ程度のことでないか。私から何を奪うことが出来るか。私の首を取ることは出来ても、私の意志や信念を奪うことは出来ない」と残している。それは、あの切支丹の人々にも通じると思う。殉教の26聖人の記念碑を見て、しみじみと感じるのであった。

翻って、宗教的に身近なところでは、法然、親鸞しかり、日蓮もまたしかりである。権力を持つと人間は何をやらかすかを、心して見つめなければならない。彼らにこそ、本当の信仰、宗教を持って欲しいと願わずにはいられない。また、権力に媚び迎合する、或いは拝金主義の宗教者も同様である。なんて思うている。今日は〆がちょっと小難しかったかしら。まあ、yo-サンのyo-サン的心ということで。
つづきはまた。




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束の間の旅人Ⅱ 長崎は今日も晴れだった・・・。

2019-04-08 | life
記憶の確かなうちに、束の間の旅のつづきを少し。
JR福岡駅ホームにて。


JR長崎駅ホームに降り立つ。快晴。
11:55JR博多発 特急かもめ 13:50長崎着13:50
 所要時間およそ2時間。小松AP~福岡APは90分足らずだが。

 

九州へは北陸からはそう近くではない。なので目的地へは最短を選ぶ。反対に青春18の旅などは徹底して、道中を楽しむ移動方法を選ぶ。
何よりも今回は長崎へ。それも平和公園・記念像・碑(いしぶみ)など、あの忌まわしい原爆投下による幾万の殉難の人々に思いを致し、自分なりの鎮魂の旅でもあった。
広島へは、島根県(特に浜田方面へは)講演の途中、何度も行っているので、今、少しでも元気なうちに、「その思いをこめて」の長崎行きだった。


かつて、広島でもそうであったが、遣る瀬無い無力感に襲われる。ただただ、祈るばかりであった。

何度もお水を捧げた。涙が頬に伝ってきた。


次いで、ぜひ訪ねたいと思っていた浦上天主堂。私の永遠のマドンナ九条武子の歌
  「青葉がくり天主教堂の文字白うひるを鐘鳴る長崎の町」  を
思い出しながら歩く。



当然のことながら天守堂内は撮影は出来ない。入り口を入ると、ここは信仰の場であるとの表示がある。観光の客らしき人は少なく、静かなひとときを、マリアさま、イエスさまに祈りを奉げてきた。(実はyo-サン、子どもの頃は教会に行っていました。戦後の物資の乏しい時代、教会に行きますとお菓子などを貰えました。この辺りがホンネかも。デンマークから来られた優しい宣教師さんでした。なので、讃美歌もよく覚えています。)


丘の上に発つ 浦上天主堂を見上げる。 ( 筆者撮影)
原爆で原形を留めないほどに破壊され、堂内の神父や信徒、浦上地区にいた12000人の信徒のうち8000人以上が爆死した。
昭和34年に再建され、55年に、外装をこのような美しいレンガ造りに改装された。

1914年に浦上天主堂が完成したとき、イタリアから送られてきた高さ2mの木製のマリア像があった。両眼には青いガラス、水色の衣を着け、頭部には12の星が取り巻かれた美しい像であった。しかし原爆で天主堂は破壊した。戦後、瓦礫の中から発見されたのが、その頭部であった。右の頬は焼けて黒くなり、目は空洞、そして髪は黒く汚れている。マリアさまは何を語りかけられるのだろうか。

↓下掲画像、これは、天主堂正面左側にある「悲しみのマリア像」。(筆者撮影)原爆によりマリアさまの手の指が欠けてしまっています。このマリアさまの前でも手を合わせて祈りを奉げてきた。




 怖ろしい勢いであの戦争が風化され、当時の何百倍、何千倍もの破壊力を持つ核兵器が作られている。この国の政治を見ても、沖縄基地の問題、軍備予算の歯止めなき増大、そして、ネットなどに溢れる偏狭なナショナリズム・・・。
不意に、啄木の論考「時代閉塞の現状」が脳裏を過った。啄木の生きた時代は、明治末期から大正に至る時であるが、それはある意味現代と酷似している。彼は元号が大正に変わる直前1912年(明治45年/大正元年)に亡くなった。いみじくも今、正に平成から令和へと変わろうとしている。閉塞感いや増す気がするこの頃である。
yo-サンの長崎の旅はつづく。

あれあれ、またまた小難しくなってしまいました。やっぱりyo-サンはマジメなのかしら。それでは今宵はこれにて。また、ぼつぼつと。






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 演題は 「家族が蘇るとき・・・ 子どもの行動は救助信号です」 不登校 引きこもり 等の改善のために

2019-04-04 | life
ようこそ、ようこそ。通称yoーサンこと 仏教者にして Counseling Supervisor の米沢豊穂です

旅の話題もさることながら、今は新年度の仕事の構想にワクワクしています。
例年、「春はあけぼの」ならぬ、「春はあすなろ」さんです。お呼び頂いてもう30年にもなります。 本会は不登校や引きこもりなどのお子さんや、生徒さんの改善、立ち直りのための会です。
昨日、会員さん向けの案内状を送って下さいました。講師としては、皆様のご期待に添えるようにと思いますので、とても有難いことです。
そして、名刺が1枚添えられていました。いつもご馳走になるのですが、今度は、寿司割烹「近江屋伝兵衛」さん。勿論、金沢と言えば、近江町市場。その中にあります。美味しい物を戴けるのは、やっぱり仕合せですネ。



ところで、今度の演題は先般、事務局さんと打ち合わせをさせて頂き、
「家族が蘇るとき」 サブタイトルに「子どもの行動は救助信号です」とさせて頂くことになりました。
私の専門のカウンセリングの中の一分野で、問題の改善のために個人のみに関わるのではなくて、その人が所属する家族、つまりシステムを見直すということです。一般的に「家族療法」或いは「家族カウンセリング」、または「システムズアプローチ」などと呼んでいます。
下掲のものは拙著「子育て自分学」PART1、PART2です。これは先年、福井カルチャーセンターなどで開講していた時のテキストに使用していました。(もう残部はありません)
そのプログラムの中でも、家族機能についてのセッションに2時間をとっています。










例えばお子さんが不登校などになるとします。すると、親や教師はよってたかって「なぜ」、「どうして」と子どもを責め、原因探し(悪者探し)をします。子どもだって、原因が分からないことだってあります。
実は、その子どものみに原因があるのではなくて、彼(彼女)が所属する家族(家庭)、或いは学校(クラス)に、組織・システムとして問題があることもあります。
お家をお訪ねし、家族の皆様にお会いしたり、学校へ行き担任の先生とお話ししますと、見えて来るものが沢山あります。子どもの行動は、まさに家族に対する救助信号なのです。周囲が変化すれば、子どもも変化せざるを得なくなります。

何もこの理論は「子ども」だけが対象ではありません。夫婦、嫁姑など、家族の成員も同様のことが言えます。
以前にも記しましたが、もう私は終活の日々。講演に出るのは控えめに、しかし、ひとつ一つに全身全霊を込めて務めさせて頂いております。私の周囲の人たちは、私のカウンセリングは「アート」だと言います。そうかも知れません。理屈で人は変われないものです。

今宵はyo-サンの専門領域の話題でした。御免あそばせ。