コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

終活の旅路 6 因幡路へ

2019-08-25 | Weblog

   躊躇わずさっと為したることこそが やむごとなしぞ一隅を照らす

乗換えばかりしているので、記憶が曖昧だが、浜坂駅だったろうか。跨線橋の階段を下りてホームへ出ると、少し前方に一人の女性がキャリーケースを引いて、ゆっくり歩いている。ケースはやや小さ目だが、持ち手が長いのか、ケースはやたら後方に見える。何だか足もわるそうだ。後続の人の流れも悪くなる。乗換えの始発駅なので、電車は既にホームに入っている。すると、一人の年輩の女性が駆け寄って「持ちましょう」と声をかけて、そのケースをひょっと手に下げた。
電車のドアの前で「これに乗るのですか」と言って、そのケースを電車にポンと載せて、自分は出札口へ向かって行った。何とも瞬く間の鮮やかな出来事だった。当に私の座右の名 「一隅を照らす」ではないか。私は傍観者でしかなかった。

敦賀から小浜線で西舞鶴へ。丹後鉄道に乗り換えで宮津泊。
そしてまた普通電車を乗り継いで、豊岡、浜坂(いずれも兵庫県)と途中下車しながら2日がかりで鳥取に。
鳥取へは以前に1度来ている。その時は京都から特急「スーパーはくと」に乗り、智頭急・智頭線を経由して鳥取に着いた。「はくと」のネーミングは「白兎」、そう、「因幡のしろうさぎ」が由来だ。たしか、車内のテレビで進行方向の景色が映る。運転席にいる感じがして退屈しなかった。京都~鳥取3時間ほどだったと思う。車両も素敵で、機会を得てもう一度乗ってみたいと思っている。


この日はまだ梅雨明け前で、鳥取は小雨に煙っていた。鳥取泊にしたのは理由(わけ)があった。
JR山陰線・鳥取と倉吉の中間辺りに青谷(あおや)がある。その青谷へ行ってみたいと思ったからだ。
青谷は昔は青谷村、大正時代に青谷町、その後、平成の中頃に鳥取市となった。
なぜ青谷なのかは次回に記したい。
小雨そぼ降る中を早足で数分のホテルへ。大手の全国チェーンだし、会員にもなっているので便利だからである。
今宵、しろうさぎさんの夢でも見ましょうか。


コメント (4)

終活の旅路 5 

2019-08-18 | life
説経節「さんせう太夫」を読む
記憶を辿りながら、思い出しつつ書いているので、必ずしも時系列でもなく、今回も些か前後するのだが。
丹鉄宮舞線(西舞鶴から宮津間)の宮津の二つ手前に「丹後由良」駅がある。車窓から、ホームに立つ看板を見ると「安寿姫と厨子王丸の里」と書いてある。
僅かな停車時間、それも私の席の窓の真横に見える。今は昔、もう随分と小さい頃に母から語り聞かせられた物語である。その頃の母の声までも一気に蘇ってきた。
幼心にも、哀しく、またコワイ印象の「おはなし」であった。


                                         
  
  この作品は鴎外の「山椒大夫」であるが、遡れば古く、説
  経節「さんせう太夫」が基になっている。中学生の頃の国
  語の教科書にもあった。  
  旅から帰って、母の本箱に「説教節」のあったことを思
  い出し、取り出してみた。他にも5編が収録されていた。
  最初に「かるかや」があり、「しんとく丸」などが載っている。
  古典はじっくり読むと味わい深いのだが、現代語訳付では
  ないので時間がかかる。しかしながら、母はよく読んでい
  たものだと今更ながら感心する。 


近年、断捨離と思い、処分しては来たが、未だに「捨て切れぬ」蔵書は母の分も合わせて千冊ぐらいはある。せめてもう一度全てを読んでからと思ってはいるのだが、もう遅いかもしれない。
  ・・・・・
  未だ覚めず池塘春草の夢
  階前の梧葉已に秋声
などと吟じながら、飲み干す酒はほろ苦い。
来し方を振り返り、行く末を想うのも大事な精神的終活。


  yo-サンの旅はつづく。今宵の宿はいずこ・・・。 
コメント (6)

終活の旅路 4

2019-08-12 | life
   「・・・でも、何と平和な日々ですこと」
冒頭の言葉は、ある方の、ある日のブログ記事の一節である。
私は、この言葉に万感の重みを感じる。もう過去記事になってしまったが、何度かお訪ねしては読み返している。
この記事に限らず、いずれの記事も、やさしく語りかけるような文体、自己主張ではなく、謙虚な自己表現でGraceful & Modestのお一人である。(大勢さんが訪問される事にも、控えめな彼女にはご迷惑と存じ、ブログ名などは敢えて記さない。)
彼女は広島のお生まれで、父上は過る戦いで戦死されている。御遺骨が還られたのは、まだ戦時下、空襲のつづく中であった。身近な方々のみで還骨のご法事をされた翌日、原爆の投下であったという。

「でも、何と平和な日々ですこと」 。私も本当にそう思う。
この言葉は、戦争の悲惨さ、遣る瀬無き哀しみを身を持って体験した者だからこそ言えるのである。
彼女のブログは声高に反戦平和を訴えるものではない。その記事は淡々と記されているが、この「平和」は如何に大きな犠牲の上にあるのか、ということが心に伝わって来る。彼女は私と同世代だと拝察するが、例え、僅かであっても、あの戦争を知る世代として、心より平和を願わずにはいられない。お互い、これも大事な終活なのである。

日々あれこれと、しておきたいことが多くあり、ブログの更新はおろか、皆様のそれをも見れない日も多い私。デスクワークの合間のお茶タイムに、新着ブログなど拝見すると、正に「何と平和な日々ですこと」としみじみと思う。
勿論、それはとてもよいことには違いない。だからこそ、今、私たちがせねばならないことがある。再び若者を、子どもたちを、戦場に送ることがないように。私たちの世代の大事な終活の一つである。

徒に不安を煽り戦争が出来る国にしようとする人々。昨年は小学生にまで「ミサイルが発射されるから」と避難訓練までさせたかと思うと、今年は連続してミサイルの発射があってもゴルフに興じているこの国のトップ。アメリカの顔色次第である。その他言い尽くせないほど沢山のことども。私の知る限り、これほどまでに国民を愚弄した政府は知らない。

   今度の旅先で読み返した啄木の論考「時代閉塞の現状」である。
「束の間の旅人Ⅱ」(長崎・・・)でも触れたが、啄木の生きた時代は、明治末期から大正に至る時であるが、それはある意味現代と酷似している。
啄木がこれを書いたのは、大逆事件(明治天皇の暗殺企図のかどで、幸徳秋水らが無実の罪で秘密裡に処刑された)の直後であった。時代背景は違うが、政府と司法による社会主義者への弾圧であったことは今日において明らかである。永井荷風は「花火」の中で、「わたしは自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。」と書いている。


閑話休題  
もう800年も昔。親鸞はどう生きたか。
歎異抄をお読みの方はご存じのことではあるが(末尾に付記されているので)、親鸞聖人35歳の時に起こった承元の法難(弾圧)は念仏者4人の死刑と、師・法然上人、親鸞聖人ら8人の流罪、時に法然上人は75歳であった。よって法然上人は四国へ、親鸞聖人は越後へと向かわれ、師弟は再び相見えることはなかった。 日本仏教史上最大との弾圧と言われている。
親鸞聖人はその主著「教行信証」の後書きに、「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師(法然上人)ならびに門徒数輩、罪科を考へず、みだりがはしく死罪に坐す。あるいは僧の儀を改め姓名を賜て遠流に処す。予はその一つなり。しかれば、すでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。」と記している。
親鸞聖人が教行信証を著したのは、一応50代の頃と言われているが、終生補筆訂正していた。若き日に受けたあの弾圧を、いつも、つい昨日の出来事のよう思われていたのだろう。この激しい文体から深い悲しみと憤りが伝わってくる。
権力者は自分たちに不都合な思想を弾圧する。親鸞聖人は権力に迎合したことは決して無かった。当時、天皇に対してこれほどまでに言われたことは特筆に値する。

上に引用した「主上臣下、法に背き義に違し・・・」等は、 東西両本願寺は忖度したのか、或いは命令だったのか、敗戦まで「伏せ字」として読むことを禁じた。そしてまた、多くの僧侶や同行を「国家のため」にと戦地に送った。いわゆる、教団として戦争協力をしたのである。勿論、戦後に至って謝罪や懺悔、反省はあったにしろ、宗祖と仰ぐ親鸞聖人の教えや生き方との乖離は甚だしい。
歴史は繰り返すと言う。憲法を改悪し再び戦争の出来る国にしようという動きがある。傍観者でいるうちに取り返しがつかなくなってしまう。弱き私たちが出来ることは、必ず選挙という権利を遂行すること。それによって政治を変えることが出来る。

啄木と親鸞との同行(どうぎょう)3人の旅はまだ途中である。広島、長崎の原爆忌、そして件のブログの拝見。今度の終活の旅はまだ続く。明日はいずこの町か・・・♪は小林旭だったが、yo-サンは何処(いずこ)へ。
もう日付が変わってしまった。今宵はこれにて。

コメント (4)

終活の旅路 3

2019-08-07 | life
半世紀求めし図書は多けれど座右の二冊は親鸞啄木

旅は非日常そのもの。特にひとり旅は思い切り自分に返る時間。元々、物見遊山、名所旧跡巡りなどは二の次だ。
電車などは沿線の景色の良い路線を選ぶ。山や海などは何よりだが、特別の風景でなくても、その地に暮らす人々に思いを馳せる。なので、つい途中下車してしまうこともある。
荷物はいつも最低限。夜はバックに入れてきた愛読書を繙く。半世紀近く読み続けているのがこの2冊。表紙も擦れ切れてきた。読書百篇ぐらいではきかない。読むたびにいつも新鮮!ワクワクする。今度の旅も親鸞と啄木の同行三人の旅。 
丹後は宮津駅から再び京丹鉄道に乗る。まずは宮津線終着の豊岡に向かう。今度も普通電車でゆっくり車窓を眺めながら。
yo-サン、今日は何処の旅かしら・・・。電車に聞いてみてくださいな。



  車内に行き先が!どうも鳥取方面のようですね。
  人生の旅路だって、常に変わりゆくものなんです。
  来し方の確認、残された命に向かう。
  死は待つものではない、見つめて行くものだ。
  一刻一刻を愛おしみながら・・・。
コメント (2)

終活の旅路 2

2019-08-04 | life
久々に乗りしローカル小浜線車窓の景色みな懐かしき


小浜駅ホーム。車窓から撮影。
芦原温泉から敦賀まで特急「しらさぎ」に。敦賀から小浜線に。




梅雨空に見る若狭富士。今日は若狭路は素通りして・・・。



普通電車で青春18切符気分。yo-サン、いったい何処へ行く?
足の向くまま、気の向くままと言うところかしら・・・。








小浜線は東舞鶴が終着。山陰線に乗り換え1駅の西舞鶴でまた乗換え。





今度は京都丹後鉄道に乗るようですね。そっか、丹後方面かしら?

また、普通電車です。とても古い車両のワンマンカーでした。
運転士さん、一人で忙しそう。(カメラは失礼しました)












今宵のお宿はこちらです。最寄駅までお迎えに来て頂きました。
今日はもう夕暮れに。



ローカルを乗り継ぎて行くひとり旅今宵は海を眺むる宿に

端折り旅日記でした。ほな。




コメント (2)