コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

大雪に難儀しております。

2018-01-25 | Weblog
 
私も3度目の雪かきで疲労困憊です。身一つの人力ですからね。これ以上降られると、もう限界です。






束の間の晴れ間に、皆さん用事やお出かけも重なり幹線道路も渋滞です。急いでも、どうにもなりません。みんなカメさんの心境で。


私もお出かけです。渋滞中に車の運転席から写しました。ダッシュボードの軍手が写ってしまいました。ゴム長、スコップ、軍手、そして車の雪かき用ワイパーは冬場の車載必需品です。


大型車がすれ違いが出来なくて、しばらく動きそうもありません。

除雪作業を終えてラッセルがご帰還のようです。低速なので後続車もカメさんでしょうね。


私は途中から幹線道路を横切り、隣町へ向かいます。まるで雪原ですね。





前方の大型車の後輪が路肩でトラブルのようです。


直ったようです。よかったね。


・・・・途中ですが、今宵はもうパワーがありません。ダウンです。
雪国は、小説の中だけで十分です。今年は、ひたすら春を待ち侘びているyoーサンでした。
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大雪にて候

2018-01-14 | Weblog


3日間降り続き、今日はやっと止んで太陽が顔を出しました。連日の除雪作業は老骨には堪えました。





雪はご町内何処のお家にも公平に。事務所お隣のパソコン教室さんも一緒です。


本宅お店も何とか除雪。我が家の前はバス路線で、消雪の地下水が流れるので助かります。でも他の道路は除雪車は入りますが、踏み固まった雪がででこぼこになり、車は右往左往の渋滞になります。

手前の駐車場も地下水が流れていますが、道路のようには行かないようです。


スーパーマーケットさんの大きな駐車場です。さすが綺麗に除雪されていました。雪の山が出来ています。


住めば都とは言いながら、雪の降るところはいやになりました。何処か気候温暖な地に終の棲家をと思うことしきりのyoーサンでした。(見知らぬ地で一人住まいは寂しかないかって?これまた、むべなるかな。)
お・わ・り。

去年今年 (こぞことし)

2018-01-08 | Weblog


去年今年貫く棒の如きもの      

ご存じ、虚子の句である。私は、この句は俳句としてはさほど好きではないが、言葉としてはなかなか言い得て妙である。
yo-サンなら差し詰め、  一夜にて変われぬものよ去年今年      というところだろうか。 
閑話休題
何度も書いて来たので、今年は止そうと思ったのだが、私の人生は昭和のある年1月6日、その誕生から始まった。私の1年も誕生日から始まる。
ご辞退を申して数年になるが、今年も素敵なお花が届いた。忝くてお礼の申しようもない。
画像は、福井市内の素敵なお花屋さんMissフラワーさんが届けて下さったばかりの1枚。何よりも長年、他人(ひと)の誕生日を覚えていて下さる贈り主のお心に熱いものが込み上げてきたyo-サンだった。鬼の目にも涙、いやいや、仏の目に感涙。

話題が変わるが、
12月24日「聖夜にて」でも、故・鳥海昭子さんの歌を記したが、彼女の、ラジオ深夜便「誕生日に因んだ花の短歌」1月6日は、   「いま少し語り足りない思いあり 土に埋もれるカンアオイかな 」  であった。       
カンアオイは華やかではないが、落葉せずに、冬でも青々とした葉が美しいので「寒葵」のネーミングだろうか。その花言葉は「秘められた恋」である。土に埋もれるようにして、秋の終わる頃に、ひっそりと花を咲かせる。それが花言葉の由来かも知れない。「秘められた恋」って本当に素敵だとしみじみ思う。私も秘められた恋ばかり。いずれも、語り足りない、いや、語ることなき恋であった。(涙)

この日は色々と用事があって、夜遅くなってしまった。頂いたお花の形を少し直し、贈り主に想いを馳せながら愛でていた。



明日7日は七草、昔は母が必ず七草粥を作っていた。七草は畑や川べりで調達できていた。今年はお店で買って来た七草粥である。少しお高い目であるが、なかなかいけそうな予感。

母と2人分なのだが、母はどういうだろうか・・・なんて。

今宵はこれにて。三日おくれの便り・・・ ではないが、二日遅れのup でござんした。
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年賀の申さるるも如来の御はからひなり

2018-01-07 | Weblog

遅れ馳せながら、一夜漬けならぬ一夜書きの年賀状にて失礼仕り候。
輝いていた頃には500枚購入した。10年前頃から徐々に減らして、近年は100枚も買えば事足りる。そのうち全てやめようと思っている。
頂いた賀状の多くがパソコンソフトによるものである。いちいち墨をすることもなく、美しいものを作ってくれるから便利である。
私も嘗てはそうであったが、100枚程度になってからは表裏手書きにした。一応、画像のように書き、その後、万年筆で添え書きをしている。
どちらが良いと言うことでもないが、頂いた者は、表裏ともに手書きの賀状にメッセージがあれば、やはり温もりが感じられて親しみも一入である。たとえば、この画像

それぞれの方のお顔が瞼に浮かんでくる。住所が少し違うのは旧事務所と本宅の地番の違いだが、郵便番号が書いてあれば届く。
パソコン派はこれだ。字体は微妙に違っているが整然と印字されている。住所はやはり、それぞれ微妙だ。(w)


ちょっと楽しかったのは下の賀状(表)。同じ方から2枚揃って元旦に届いた。書いたかしら?書かなかったかしら?なんて・・・。ご多忙な方なのに申し訳ないことだ。郵便番号、住所も、これまた微妙に違っている2枚。


裏面は、

文面も全く同じではなく、とても楽しく読ませて頂いた。そのうち、お礼の電話をかけようと思っている。

そして、毎年一番楽しみにして待っているのはこの1枚、私のガールフレンドからのもの。


 

初めて彼女に会ったのは、長年、職員研修にお伺いしている社会福祉法人さんの障害児施設だった。まだ小さな女の子だった。毎月の研修には必ず待っていてくれた。何故か私に懐いてくれた。お父さんを亡くしていたこともあったのだろう。ある日、私の写真を欲しいというので、昔、ヨーロッパの街角で写したものと、観音様の写真をあげた。いつもそれを大事にして見ていたという。

歳月が流れ、彼女がこの施設を出る時、職員さんが、彼女が私と「二人の写真を撮って欲しいと言うので」とデジカメを持って待っていてくれた。小さかった彼女は、もう私と変わらぬほどに背が高くなっていた。
現在は別の施設で生活しながら働いているが、毎年忘れずに年賀状が届く。勿論、私も出している。昨年も一昨年も、「一度遊びに来て下さい」と書かれていた。私は「今年はぜひ遊びに行くからね」と記した。彼女から貰ったお手紙や絵や折り紙などは、今も大事に持っている。

彼女に限らず、年賀状を見ながら、その人との想い出を懐かしみ、正月のしばしの「時」を過ごしたyoーサンだった。
これも「如来のおはからい」なのである。<称名>