<1よりのつづき>
啄木の教え子であった秋濱三郎という方が、「啄木がある時夢枕に立って、姫神山の歌がないので作ってほしい」と頼まれて詠んだ歌がある。それは、
さわやかな小春日和の
姫神山
薄霞していともやさしく
である。啄木の歌とはやや趣を異にするが、創作の所以がユーモア的であり、またペーソスも漂ってくる。氏について調べてみると、明治四十二年一月五日の啄木の日記の末尾に「今日渋民の駒井善吉、秋濱三郎の二人から賀状が来た。うれしかつた。」とある。また、私の持っている「文芸」別冊「啄木読本」(昭和三十年三月発行)に秋濱氏の「啄木の思い出」と題した短文があり、その中に「啄木は渋民小学校尋常科2年の受け持・・・」とある。
啄木記念館近くの旧渋民尋常小学校(左後方)の前にある、啄木と子供達の像。右側は代用教員時代に 間借りしていた斉藤家
「ふるさとの川」
やはらかに柳あをめる
北上の 岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
渋民公園 歌碑「やはらかに・・・」の前にて 後方には岩手山を仰ぐ
望郷の念やるかたなき一首であるが、啄木にとっての「ふるさとの川」は紛れもなく北上川である。この歌の碑は渋民公園にあり、碑の裏側からなだらかな坂を下ると、北上川にかかる鶴飼橋に出る。啄木は汽車に乗る時にはこの橋を渡って、最寄りの好摩駅まで歩いたとのことである。当時は今の渋民駅はなかったそうで、好摩駅は一つ北寄りで、私は車でも七、八分ほど走ったので数キロはあったと思う。彼は四季折々にこの北上川の流れを眺め心に焼き付いていたのだろう。
鶴飼橋の袂に佇むとき、少年の頃の啄木と、またあまりにも若きその晩年に感情移入し、目頭が熱くなった。
鶴飼橋の袂にて
「初めに返って」
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
啄木短歌に見る「ふるさとへ」の思いは、「故郷忘じ難し」ではあるが、それはいつも(ふるさと)の山と川である。その変わらぬ姿、或いは包容力とでも言おうか。それはまた、父なるものであり、母なるものでもある。
しかし、啄木は再び「ふるさと」渋民へ帰ることはなかった。それはやはり「石をもて追わるるごとく」ふるさとを離れたからである。その理由については啄木の父一禎は渋民村の宝徳寺の住職であったが、宗費滞納などにより罷免されたのである。それは先先々代住職の頃に焼失した本堂の再建のために、財政的にも苦しい状況であった上に、一部の村人との対立もあったようである。いつの時代も宗教はこの世のものであるようだ。このことはまた別の機会に話したいと思う。
啄木は渋民の山や川・自然こそが「ありがたき ふるさとで」あった。そこに住む人々ではなかった。いみじくも明治三十九年歳末の日記に、「故郷の自然は常に我が親友である。しかし故郷の人間は予の敵である。豫言者郷に容れられざるものであろう。」と記していることで明白であると思う。
<ふと、犀星の詩「ふるさとは遠きにありて思ふもの」を思い出した。>
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
この詩も、啄木の短歌同様に「ふるさと」を思う詩として人口に膾炙されている。犀星が失意で故郷・金沢へ帰ったものの、周囲の冷ややかな態度に「帰るところにあるまじや」と「うたふ」のであった。犀星についてはまた別の機会にしたいと思う。
「というわけで」
故郷が「ふるさと」であるためには、そこ・故郷から出なければならないものである。
そして、それがぬくぬくとした人との思い出だけでは、このような作品は生まれないのではなかろうか。今度の啄木講座でこのようなことを話したいと思っている。
ふるさとの寺の畔の
ひばの木の
いただきに来て啼きし閑古鳥
今頃は彼が幼少期を過ごした宝徳寺の境内は蝉しぐれに包まれていることだろう。
機会を得て今一度渋民を訪ねたいと思うことしきりである。
啄木の歌碑を巡りて
渋民を行けば会う人
皆やさしくて (筆者拙詠)
渋民駅切符売り場
渋民駅待合室 ストーブは年中設置なのかな
* 今回の渋民行きに当たり、事前に盛岡商工会議所玉山支所さんより、啄木歌碑等の資料をお送り頂いた。
心より感謝している。
啄木の教え子であった秋濱三郎という方が、「啄木がある時夢枕に立って、姫神山の歌がないので作ってほしい」と頼まれて詠んだ歌がある。それは、
さわやかな小春日和の
姫神山
薄霞していともやさしく
である。啄木の歌とはやや趣を異にするが、創作の所以がユーモア的であり、またペーソスも漂ってくる。氏について調べてみると、明治四十二年一月五日の啄木の日記の末尾に「今日渋民の駒井善吉、秋濱三郎の二人から賀状が来た。うれしかつた。」とある。また、私の持っている「文芸」別冊「啄木読本」(昭和三十年三月発行)に秋濱氏の「啄木の思い出」と題した短文があり、その中に「啄木は渋民小学校尋常科2年の受け持・・・」とある。
啄木記念館近くの旧渋民尋常小学校(左後方)の前にある、啄木と子供達の像。右側は代用教員時代に 間借りしていた斉藤家
「ふるさとの川」
やはらかに柳あをめる
北上の 岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに
渋民公園 歌碑「やはらかに・・・」の前にて 後方には岩手山を仰ぐ
望郷の念やるかたなき一首であるが、啄木にとっての「ふるさとの川」は紛れもなく北上川である。この歌の碑は渋民公園にあり、碑の裏側からなだらかな坂を下ると、北上川にかかる鶴飼橋に出る。啄木は汽車に乗る時にはこの橋を渡って、最寄りの好摩駅まで歩いたとのことである。当時は今の渋民駅はなかったそうで、好摩駅は一つ北寄りで、私は車でも七、八分ほど走ったので数キロはあったと思う。彼は四季折々にこの北上川の流れを眺め心に焼き付いていたのだろう。
鶴飼橋の袂に佇むとき、少年の頃の啄木と、またあまりにも若きその晩年に感情移入し、目頭が熱くなった。
鶴飼橋の袂にて
「初めに返って」
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし
啄木短歌に見る「ふるさとへ」の思いは、「故郷忘じ難し」ではあるが、それはいつも(ふるさと)の山と川である。その変わらぬ姿、或いは包容力とでも言おうか。それはまた、父なるものであり、母なるものでもある。
しかし、啄木は再び「ふるさと」渋民へ帰ることはなかった。それはやはり「石をもて追わるるごとく」ふるさとを離れたからである。その理由については啄木の父一禎は渋民村の宝徳寺の住職であったが、宗費滞納などにより罷免されたのである。それは先先々代住職の頃に焼失した本堂の再建のために、財政的にも苦しい状況であった上に、一部の村人との対立もあったようである。いつの時代も宗教はこの世のものであるようだ。このことはまた別の機会に話したいと思う。
啄木は渋民の山や川・自然こそが「ありがたき ふるさとで」あった。そこに住む人々ではなかった。いみじくも明治三十九年歳末の日記に、「故郷の自然は常に我が親友である。しかし故郷の人間は予の敵である。豫言者郷に容れられざるものであろう。」と記していることで明白であると思う。
<ふと、犀星の詩「ふるさとは遠きにありて思ふもの」を思い出した。>
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
この詩も、啄木の短歌同様に「ふるさと」を思う詩として人口に膾炙されている。犀星が失意で故郷・金沢へ帰ったものの、周囲の冷ややかな態度に「帰るところにあるまじや」と「うたふ」のであった。犀星についてはまた別の機会にしたいと思う。
「というわけで」
故郷が「ふるさと」であるためには、そこ・故郷から出なければならないものである。
そして、それがぬくぬくとした人との思い出だけでは、このような作品は生まれないのではなかろうか。今度の啄木講座でこのようなことを話したいと思っている。
ふるさとの寺の畔の
ひばの木の
いただきに来て啼きし閑古鳥
今頃は彼が幼少期を過ごした宝徳寺の境内は蝉しぐれに包まれていることだろう。
機会を得て今一度渋民を訪ねたいと思うことしきりである。
啄木の歌碑を巡りて
渋民を行けば会う人
皆やさしくて (筆者拙詠)
渋民駅切符売り場
渋民駅待合室 ストーブは年中設置なのかな
* 今回の渋民行きに当たり、事前に盛岡商工会議所玉山支所さんより、啄木歌碑等の資料をお送り頂いた。
心より感謝している。