コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

ミヤコワスレの花

2018-04-11 | Weblog

(画像はミヤコワスレの原種・ミヤマヨメナ:Wikipediaより拝借)

いつもながら、ふと想い出した。故・鳥海昭子さんのお歌。 

   忘れいし人の顕ちきて歩をとどむ 都忘れの花のむらさき 

遠い昔に別れた人を、ふと思い出すことがあります。それは「忘れ得ぬ人」の花言葉を持つミヤコワスレの花を見つけたときかも知れません。(ラジオ深夜便「誕生日の花と短歌」)

4月11日の誕生花、花言葉は他にも「別れ」、「暫しのなぐさめ」など。和名の「都忘れ」(ミヤコワスレ)」は、鎌倉時代の承久の乱で佐渡に流された順徳天皇が庭に咲くこのこの花を見て、「今日からはこの花に慰められ、都のことを忘れることが出来る」と言われたことが由来だとか。しかし、ミヤコワスレは園芸品種なので、天皇がご覧になられたのはミヤマヨメナではないかと思うのだが。 

閑話休題
ヒトリシズカと同様に、ミヤコワスレの花を見たのもふとしたことからであった。
今よりも、もう少し輝いていた頃、石川県の保育士さんの大会だったろうか。金沢の女性会館、或いは寺井町(現能美市)の教育会館だったのか。(ホントにもう色々な記憶が遠ざかっていくばかりで・・・。)
演壇脇にそっと置かれた花入れ、講演中に何度か目をやっていた。演壇を降りて控室に下がる時に「このお花は?」とお尋ねした。すると会長さん(この方は当時、寺井町の保育園の園長先生)は「ミヤコワスレでございます」と徐に答えて頂いた。お花は元より、彼女も楚々とした方であった。(この記憶はたしかなような・w)

鳥海さんのお歌もさることながら、私が好きなミヤコワスレを詠んだ一首に、

  都忘れ紫にほふ花かげに 恋ふる人さへ淡くなりつる

がある。ご存知の方は少ないと思うが、昭和の初期の女流歌人・岩波香代子さんのお歌である。鳥海さんのお歌とある意味対照的だが。
    ・・・恋ふるひとさへ淡くなりつる
何度も音読し、感情移入している。今の私には恋ふる人はなけれども・・・。

いよいよ待ち侘びた春の到来、花咲く野に出かけたいとおもうことしきり。
どなたかご一緒してくれる人が現れないかと秘かに思っているyoーサン。

             
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ヒトリシズカの未だ咲かぬ間に  

2018-04-05 | Weblog
本文は文芸誌に出稿のため補筆・修整しました

長らくご無沙汰を致しました。
大雪の後遺症や、決算・確定申告、そして身辺色々なことが一挙に押し寄せ、その対処に疲労困憊、見事にダウンでした。
その節にはお見舞いや、陰に陽にのお心遣いを賜りました皆様に衷心より厚く御礼申し上げます。まだ万全ではありませぬが、久々にパソコンに向かいました。

 
(画像は【ブログ「自然を撮る」の植物編】さんから拝借)


その花を我に示しし人逝きぬヒトリシズカの未だ咲かぬ間に 
      
その昔、初めて私にヒトリシズカの花を教えてくれた人が他界した。この冬の大雪が消え始めた頃であった。久しく疎遠になっていたが、今年は珍しく賀状が届いたので返信を書いた。添え書きに「吉崎御坊へ向かう山道で、ヒトリシズカを教えて頂いたことが、ついこの間のことのように思えます。」等々。
遅れ馳せながらお家にお悔みにお伺いした。お嬢さんの話によると、この数年ガンとの闘病生活だったようだ。そして、昨年の暮れには病床ながらも例年より多くの賀状を認めたという。
「先生のことは時々話してくれました。また、頂いたお手紙やご著書などを繰り返し読んでいました。」との言葉に目頭が熱くなった。
「知らなかったとは申せ、お見舞いにも出向きませずに・・・」と言うと、「母は衰え行く姿を誰の目にも曝したくなかったのです。」と。

 彼女はお父さんを太平洋戦争で亡くした。生後間もない頃だったので、父親の顔は写真でしか知らないと言っていた。兼業農家のお母さんと苦労を共にしながら生きてきた。その母親も先年亡くしている。働きながら夜間高校に学び公立病院の看護婦になった。通信教育で大学も卒業している努力家であった。
彼女は一度は結婚したが事情があり離縁して実家に帰り1人の女の子を育てた。そのお嬢さんも端麗で、母親を彷彿とさせる面立ちであった。仏間に通して頂きお仏壇にお線香を上げて阿弥陀経を読誦した。さほどの長文でもなく、読み慣れた経典なので概ね諳んじることも出来るのだが、この日は何度もつかえて仕方がなかった。
経典の初めの方に、釈尊がお弟子である長老の舎利弗尊者に、阿弥陀仏の浄土の様子を説かれる場面がある。その一節に「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」とある。その浄土に咲く蓮の花は「青い色には青い光、黄の色には黄の光、赤い色には赤い光、白い色には白い光」という意味である。ここに差し掛かった時、思わず涙が込み上げてきた。

巡りくる春を待たずに逝きし君 浄土の苑に笑みておはすや  

解説は割愛するが、彼女はこの「青色青光・・・」のところがとても好きであった。私の勉強会にも何度か参加したが、もの静かな人で仏教の話にはとても関心が深かった。阿弥陀経のこの一節を紹介したとき、彼女は「金子みすゞさんの詩『わたしと小鳥と鈴と』のようですね。」と言ったことが、ふいに脳裏を過った。その詩の中には「みんなちがって みんないい」という言葉があり、そのことを言ったのである。彼女は他人(ひと・自分以外の人のこと)を見る眼差しが肯定的で、物事を善意に解釈する人でもあった。今にして思えば、彼女は妙好人であり、私にとって善知識でもあった。
遺影はカジュアルな服装で野に遊ぶ在りし日の姿であった。そのお顔は頬笑んでいたが、目は何処か遠くを見つめているようにも思えた。お互い、恋だの愛だのというものではなかったが、互いに何か惹かれあうところがあったのかもしれない。
故・高田好胤師が「真実の対話は亡くしてから始まる」と言われましたが、本当に身に沁みる言葉である。 愛別離苦、会者定離とは百も承知しながら、無常とは、人の世の無情でもあるとしみじみと思う。
    
今宵はこれにて。
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