ゆく夏を惜しむかのように蜩(ひぐらし)がカナカナと澄んだ音色で鳴いています。残る暑さもようやく薄らいできて、草むらに集(すだ)く虫の声は秋の序曲のようです。
しばらくのご無沙汰でしたが、皆さまにはお変わりございませんか。
春は光から、秋は風からと言われますが、朝夕の風はもう秋の装いですね。
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白川の関
と能因法師は詠んでいます。エピソードのある歌でもありますが、しみじみと季節の移ろいを感じさせて、私の好きな一首です。
古くより人々は、四季折々の自然の中に同化し、或いは調和して暮らしてきました。わけても秋の季節は、もの思う頃ともいわれて人々の心を深くとらえてきたようです。
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮れ
定家卿は写実的に詠っていますが、それは、もののあわれや、侘び寂びの境地と理解されます。
そしてそれは茶の湯や俳諧など日本独特の美学ともいうべき精神文化を醸成してきたのですね。
閑話休題
先日金沢のある茶道のお集まりに招かれました。
主催者でありお社中の先生である妙齢の女性に出迎えられ、やや緊張して会場に入りました。その方は薄ねず色の絽無地の着物に、萩の模様の帯を合わせてとても印象的でした。
萩といえば、桔梗(ききょう)、薄(すすき)、女郎花(おみなえし)などと同じ秋の七草のひとつです。これら秋草の模様は秋の着物ではなく、夏の着物の柄に使われています。
暑さの中に秋を待つ心、それを秋草に託して着物や帯の柄におく。そして巡り来る秋涼を思うのです。
例え、絽織や麻の素材であっても着る人にはそう涼しいものではありません。おしゃれ心もさることながら、周囲の人々に涼感を楽しませてくれます。
「心づくしの秋」という言葉がありますが、何かしら日本女性の優しさにも感じられます。
清少納言は枕草子に「すさまじきもの」として「三四月の紅梅の衣(きぬ)」をあげています。「紅梅の衣」とは紅梅色の襲(かさね)の着物のことで、新春の一二月に着るものです。
「すさまじき」とは現代語の「すさまじい」とは違って、場違いとか、見苦しいという意味です。
衣食住みな季節感の失われつつある今日を、彼女ならどう語るでしょうか。さしずめ現代語の「すさまじい」になりそうな気がします。
加賀の実性院さんの萩の花はもう咲きはじめるころでしょうか。
それではひとまずこれで。また近々に。ごきげんよう。