コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

コミュニケルーム通信 ~2004年 冬号~

2004-12-01 | Weblog
ふと書棚の隅に「文芸」(臨時増刊・石川啄木読本)を見つけた。昭和三十三年三月一日発行とある。その頃はと逆算してみると私は十三歳である。
佐々木信綱、土岐善麿、若山牧水、与謝野鉄幹等々、錚々たる顔ぶれが連なっている。
いずれも短文ではあるが鉄幹は「啄木との交友の中でこのように記している。

 盛岡に帰った啄木君はますます私達に歌稿を見せてくれることが多くなった。私達はしばしば郵税(切手のこと)不足の書信と歌稿とを受け取った。・・・・妻が子どもに飲ます牛乳に入れる砂糖を五銭以上は買い得なかった程、私達は極貧の貧乏をしてゐた頃なので、その不足税を度々払うことに妻の困ってゐるのが気の毒であったが、啄木君も貧乏で郵税に差し支えるであろうと想像して、此方から遣る手紙のついでにも郵税は一度も注意して遣らなかった。

妻とは晶子である。彼女らは自らも窮乏の中にありつつも、更に赤貧洗うが如くの啄木に弟を思うような眼差しで見ていたのであった。

ロジャ-ズのカウンセリングでいう三条件の一つに「受容」がある。これは「無条件の絶対的肯定」ともいわれるが、相手をありのままに受け入れることである。二つ目には「共感的理解」がある。これは相手を「あたかも自分のことのように理解」することである。通俗的にいえば「人の痛みを感じとれる」ことといえる。鐵幹は更に、

併し其の頃の啄木君の歌は大して面白いものでは無かった。それでも私は他の友人にも云うような思ひ切った忠告を書いた。「君の歌は何の創新もない。失禮ながら歌を止めて、外の詩體を撰ばれたらよかろう、さうしたら、君自身の新しい世界が開けるかもしれない。自分は此のことをお勧めする」という意味の手紙を盛岡へ送った。
この手紙を受け取った啄木の心境は察するに余りある。鐵幹も心配していたが、二、三ヶ月の後、啄木から厚い封書で詩稿が届いた。私は妻を近く呼んでニたび、三たび聲に出して朗読した。兄らしく姉らしき心を踊らせながら喜んだ。鐵幹はその詩の中にある「啄木鳥」の一編からとって啄木と雅号を附けて「明星」に載せた。それは啄木がまだ十七才の秋のことだという。ロジャ-ズのカウンセリングの三つ目に「自己一致」がある。これは「純粋」ともいわれるが、自らを偽らないことである。お世辞や、おべんちゃらでは人は成長しない。受容、共感と自己一致は一見矛盾するように見えるがそうではない。表裏一体なのである。鐵幹夫妻の受容・共感的土壌の中での自己一致なのである。世の文学作品の中には、恰好のカウンセリング的な表現は数多くあると思う。しかしそれは虚構の世界である。事実を素材にしていても脚本なしではあり得ない。しかし、鉄幹の回想は若干の記憶違いはあったとしても、ロジャ-ズの有機体としての人間の経験そのものである。夫妻の温かな心、そこに今、私達が提唱するカウンセリングマインドを発見するのである。  



血に染めし歌を我が世のなごりにて さすらひここに野に叫ぶ秋
   

明治三十五年、啄木十七歳、中学五年の秋、明星に初めて載せられた一首である。年譜を繰ってみれば、今年は琢木逝って九十四年になる。二十七年を一期としたそれは余りにも短く悲壮ではあるが、それはまさにカウンセリングでいう「今ここで」を生きたのではないかと思っている。その啄木に憧れ、やはり早熟であった少年は今や彼の生きた歳月の倍をもはるかに超えて馬齢を重ねている。恥ずべし、痛むべし。  
向寒の砌お身体おいとい下さい。                                          頓首