前号よりのつづきです。
明恵上人追慕
明恵上人は治承4年(1180)数え9歳の時、母を亡くし、その年11月に父・平重国(たいらのしげくに)を戦で喪いました。
身寄りのない上人は、京都洛西は高雄にある神護寺におられたた叔父、上覚師を頼り、その師であられた文覚師のもとで得度されました。その後前述のように紀州でご修行され、再び京都に戻られました。後鳥羽上皇より栂尾の地を賜って、華厳の道場・高山寺(こうさんじ)を建立されたのです。
</center>
「きょうと栂尾高山寺・・・♪」、久しく訪ねていませんが。
あるとき、明恵上人は山辺の路に居眠りする子犬を跨いだ後に、両親の生まれ変わりではないかと思い直し、振り返って拝んだと「伝記」にもあります。上人は子犬を可愛がり、その子犬を模した運慶作(快慶作とも)の「木彫りの子犬」も高山寺にあります。志賀直哉は「時々撫で擦りたいような気持のする彫刻」と言われたそうです。
上人は、早くに両親を亡くされたのですが、特にお母さまへの想いは篤いものがありました。高山寺に「仏眼仏母像」(国宝です)という絵像があります。上人の持仏でした。白く何段にも重なった沢山の連弁の上に、白く美しい女性をイメージする仏さまの絵像です。上人にとっては幼くして別れたお母さまであったのでしょう。その仏像の絵の右側には
モロトモニ アハレトヲホセ ミ仏ヨ キミヨリホカニシルヒトモナシ と書かれ、更にその横に「无耳法師之(みみなしほうしの)母御前也(ははごぜんなり)、哀愍我(われをあいびんしたまえ)、生々世々(しょうじょうぜぜ)不暫離(しばらくもはなれず)、南無母御前、々々」そして、左側には「南無母御前、々々、釈迦如来滅後遺法御愛子成弁、紀州山中乞者敬白」と記されています。
上人は、「何度生まれ変わっても私はあなたから離れることはありません。お母さま、お母さま」とお呼びかけになられたのです。学徳兼備にして眉目秀麗の明恵上人、お心の中には、いつも、お釈迦様と、お母様がおられたのですね。
序でに「モロトモニ」歌は、「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」、そうです。百人一首の前大僧正行尊の歌の本歌取りになっています。
明恵上人の母の遺品と言われている櫛が高山寺にあります。金泥で南無阿弥陀仏と書いてあります。お母様の形見として大事になさっていたのでしょう。
閑話休題
実はこの話の途中、私自身が感情移入してしまい、不覚にも涙ぐんでしまいました。会場はと言いますと、水を打ったような静寂の後、すすり泣きが聞こえて来ました。講話が終わった後、一人の妙齢のご婦人が私の控の間においでになり、「私も昨年、母を亡くしました。お話しをお聞きしているうちに、泣けてきてしまったのです。」と話されました。
故・高田好胤師が、よく「亡くなってから本当の対話が始まる」と仰っていました。そのようなことをお伝えしながら、しばらくの時間を過ごさせて頂きました。
講話はまだ、私が「お念仏に行きついた」ところへと続くのですが、それはまたの機会に致しましょう。お粗末でした。
今年辺り、どなたか高山寺に参りましょうか。旅は道連れとか。長年一人旅派のyo-サンでしたが、加齢の所為か気の弱りかしら。今宵はこれにて。
明恵上人追慕
明恵上人は治承4年(1180)数え9歳の時、母を亡くし、その年11月に父・平重国(たいらのしげくに)を戦で喪いました。
身寄りのない上人は、京都洛西は高雄にある神護寺におられたた叔父、上覚師を頼り、その師であられた文覚師のもとで得度されました。その後前述のように紀州でご修行され、再び京都に戻られました。後鳥羽上皇より栂尾の地を賜って、華厳の道場・高山寺(こうさんじ)を建立されたのです。
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「きょうと栂尾高山寺・・・♪」、久しく訪ねていませんが。
あるとき、明恵上人は山辺の路に居眠りする子犬を跨いだ後に、両親の生まれ変わりではないかと思い直し、振り返って拝んだと「伝記」にもあります。上人は子犬を可愛がり、その子犬を模した運慶作(快慶作とも)の「木彫りの子犬」も高山寺にあります。志賀直哉は「時々撫で擦りたいような気持のする彫刻」と言われたそうです。
上人は、早くに両親を亡くされたのですが、特にお母さまへの想いは篤いものがありました。高山寺に「仏眼仏母像」(国宝です)という絵像があります。上人の持仏でした。白く何段にも重なった沢山の連弁の上に、白く美しい女性をイメージする仏さまの絵像です。上人にとっては幼くして別れたお母さまであったのでしょう。その仏像の絵の右側には
モロトモニ アハレトヲホセ ミ仏ヨ キミヨリホカニシルヒトモナシ と書かれ、更にその横に「无耳法師之(みみなしほうしの)母御前也(ははごぜんなり)、哀愍我(われをあいびんしたまえ)、生々世々(しょうじょうぜぜ)不暫離(しばらくもはなれず)、南無母御前、々々」そして、左側には「南無母御前、々々、釈迦如来滅後遺法御愛子成弁、紀州山中乞者敬白」と記されています。
上人は、「何度生まれ変わっても私はあなたから離れることはありません。お母さま、お母さま」とお呼びかけになられたのです。学徳兼備にして眉目秀麗の明恵上人、お心の中には、いつも、お釈迦様と、お母様がおられたのですね。
序でに「モロトモニ」歌は、「もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」、そうです。百人一首の前大僧正行尊の歌の本歌取りになっています。
明恵上人の母の遺品と言われている櫛が高山寺にあります。金泥で南無阿弥陀仏と書いてあります。お母様の形見として大事になさっていたのでしょう。
閑話休題
実はこの話の途中、私自身が感情移入してしまい、不覚にも涙ぐんでしまいました。会場はと言いますと、水を打ったような静寂の後、すすり泣きが聞こえて来ました。講話が終わった後、一人の妙齢のご婦人が私の控の間においでになり、「私も昨年、母を亡くしました。お話しをお聞きしているうちに、泣けてきてしまったのです。」と話されました。
故・高田好胤師が、よく「亡くなってから本当の対話が始まる」と仰っていました。そのようなことをお伝えしながら、しばらくの時間を過ごさせて頂きました。
講話はまだ、私が「お念仏に行きついた」ところへと続くのですが、それはまたの機会に致しましょう。お粗末でした。
今年辺り、どなたか高山寺に参りましょうか。旅は道連れとか。長年一人旅派のyo-サンでしたが、加齢の所為か気の弱りかしら。今宵はこれにて。