コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

歎異抄とクリスチャン八木重吉の詩

2022-07-24 | life

前号で歎異抄より親鸞の言葉「ひとを千人殺してみよ」を引いたところ、何人かの読者の方よりメッセージを頂いた。

その中で、ある方が「歎異抄についてもっと知りたい・学びたい」とのことであった。お言葉はとても嬉しく有難いが、私はブログでそれを講じる器量はなく、他に多くの人たちが書物に著わしたりネットでも書いているのでそちらをご覧頂くようにとお返事をさせて頂いた。

歎異抄第二章に、はるばる関東から京都の親鸞の元へ「往生の要」を聞くために訪ね来た人たちに「・・・南都北嶺(奈良や比叡山)にも、ゆゆしき学生(がくしょう・先生)のおわします。どうぞそちらで聞いて下され」(筆者意訳)なんて言ってのける親鸞。趣旨はやや異なるが、私も何となくそんな感じであった。

これまでに何度も記してきたが歎異抄は短編である。まずは自ら繰り返し読んでいるうちに必ずや心に響く。その後、お尋(訪)ね下されば、私が感得し得たところをお話出来ると思っている。

<閑話休題>

先日の「小さな小さな仏教講座」の続きをとのご要望もあったので、以下少しばかり記しましょう。

クリスチャンの詩人の八木重吉の詩「秋の瞳」の中に「人を殺さば」と題して、

 ぐさり! と
 やつて みたし

 人を ころさば
 こころよからん

たったこの4行である。八木重吉のような敬虔なクリスチャンであっても、このように思うことがあるのである。人間誰しもこのように思うことがあっても、やらないだけのことである。

まさにそれは親鸞の言う「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」なのである。

八木重吉の詩は短いものが多いが幾つか紹介しながら、ご参加の皆さんと分かち合った。また何かの機会にup出来れば幸いである。

例の事件の加害者の行為は哀しいが、私は彼を責めることは出来ない。仏教は「殺すなかれ」と説く。されど、そのような因縁に繋がれば殺し、殺されてしまうのである。親鸞の言葉が殷々と私の耳を打つ。

命の尊さは誰であっても何も変わらないのである。この被害者のために文書を改竄させられた近畿財務局の職員さんの命もまた同様に尊く重い。

ロシアとウクライナの戦争はなおも続いている。幾千、幾万の兵士や無垢の人々が命を失っている。殺し合いは即刻やめるべきである。両国の指導者の責任は重い。 今宵これにて。

⭐八木重吉 詩人。東京都生れ。東京高師卒。敬虔(けいけん)なキリスト教信者で、キーツの詩を愛した。詩集《秋の瞳》は純粋な美しい心境を歌っている。没後《貧しき信徒》《神を呼ばう》《定本八木重吉詩集》等が出た。日本近代のキリスト者の詩として最も高い地点にあるものとされる。(百科事典マイペデイアより転載)

 


人を千人・・・歎異抄の言葉

2022-07-17 | Weblog

 近況&心境

あのの風 の皆様。

お心遣いのメッセージ等痛み入ります。体調万全ではありませぬが、お陰様で生かされております。まっこと有難きことと存じつつ暮らしております。

若狭路は海辺の町の麗しき人より届く紅白の桃

ゆうパック届きて嬉し蓋とれば桃の香りの部屋に満ちたり

昨年も、(クリックOK)その前にも書いたのだが、今年も極上の桃が届いた。何よりも亡き母の好物、早速お仏壇に。ひと時を在りし日の母を想ひて過ごした。

いつもながら贈り主のお心に感謝しつつとても美味しく戴いた。毎日、あれこれと為すべきことが多く、時間と駆けっこの暮らしで、体調も低下気味だったので、旬のフルーツは格別であった。

その後に頂いたお手紙も、これまたお心のこもったものであった。ケータイやメール全盛時代だが自筆の便りに勝るものはない。これもお人柄である。私流にはカウンセリング・マインドの豊かな方である。

<閑話休題>

昨年11月24日付けの「友・朋へのメッセージ」(クリックOK)にも記していますが、先日「小さな小さな仏教講座」の3回目をしました。いつもながら私の講義などよりも、その後の皆さんでのお話合い・分かち合いが盛り上がります。

話題のひとつに、先般の事件のことがありました。このことについて私に「どう思うか」とのことでしたので、今後「歎異抄」について学びあう予定ですので、歎異抄の中から引いてお話をさせて頂きました。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

歎異抄の中で唯円坊(歎異抄の著者)が記している親鸞聖人の言葉です。

「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定(いちじょう)すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量(きりょう)にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と

チョー端折って意訳してみます。

親鸞「唯円よ。私の言うことを信じるか」

唯円「はい。もちろんでございます」

親鸞「では、ひとを千人ころしてみろ。そうすれば極楽往生出来る」

唯円「めっそうもありません。私はひと一人も殺せません」

親鸞「それは自分の心がよくて殺せないのではない。殺さねばならないと思う条件・そのような縁にふれれば殺してしまうこともあるのだ」・・・

いつもこの辺りを読むと唯円の顔を想像します。親鸞の問いかけに、きっと鳩が豆鉄砲をくらったようではなかったかと。

親鸞の発したこの言葉は本当に人間の心の奥底を突いていると思います。私はあの事件の加害者を責め罵る気持ちは起こりません。彼の母がカルト的な教団に入らなければ、そして殺された人がその教団に賛辞等を贈らなければ、殺さず、殺されずであったでしょう。

お一人の方がいみじくも仰いました。「人はその人が生きてきたように死ぬ」と。言い得て妙ですね。死を悼むことは人間の美しい心情ではありましょう。しかしそれは静かになすべきことであり、大騒ぎすることでは決してありません。

お話し合いは続きましたが、それは次回に譲りましょう。

最後に皆様と「讃嘆の歌」を歌っておひらきとなりました。皆様のお顔が光り輝いていましたよ。「讃嘆の歌」とはお経「仏説無量寿経」の中にある「偈」(うた)なんです。経典では難しい漢字ばかりですが、それを易しく意訳して曲がついています。私はお歌のお経なんて呼んでいます。

  光かがやくかおばせよ みいずかしこくきわもなし
  炎ともえてあきらけく ひとしきもののなかりける ・・・♪

                今宵これにて。 三帰依 yo-サンこと 釈豊照でした。