コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

短冊の一句 旅だよりと素敵な友 (補筆・修整)

2019-05-26 | Weblog
筑紫路は花ぐもりかな旅の空



旅先から絵葉書などを書くようになって、かれこれ半世紀になる。
今度の長崎、福岡の旅からも何人かの友に一筆認めた。
博多のホテルで、長らくご無沙汰している関東の畏友にも、拙い俳句を添えて投函した。私は俳句は、ほんのお遊びに詠む程度である。自称・俳人たちや、テレビで騒がしい先生などには、まるで関心もないのがホンネ。

旅から帰って数日後、1通の長方形の郵便が届いた。私が書き送った拙い句を短冊に、流麗な仮名で認めて下さった。短冊掛けまで添えて下さり感激であった。
彼女とは古いお付き合いであるが、お会いしたことはないがお写真は拝見している。手紙の遣り取りは何度もしている。彼女はある名刹のお裏様で、深窓の麗人とでも言おうか。私の仕事にも関心を持って下さる。書をよくなさり、とても素敵な方である。

ネットのようなバーチャルというか、謂わば「匿名性の交流」が盛んなこの頃であるが、お互い、肉筆での便りを出し合えるところに、人間としての温かさをしみじみと感じる。そのような友が多いことは有難いことである。
本ブログは、そのルーツにも記しているが、不特定多数の人々が読んで頂くことは当然ながら、主たる目的は私の講演や研修の受講者、主宰する文学やカウンセリングなどの研究会の方々に対する、私の「心境・近況」のメッセージである。読者の方々と出先でお会いしても「ブログ拝見しています」と言われるとラポールが深まる。


今宵は、相次いでいた講演や講義を無事熟して、ほっと一息。
独り盃を傾けながら、歌など歌い、初夏の夜を楽しんでいるyo-サン。


  酔うほどに歌う我が愛唱歌♪(クリックして一緒に歌ってネ)

   あゝわれダンテの奇才なく バイロンハイネの熱なきも
   石を抱(いだ)きて野にうたう 芭蕉の寂(さ)びをよろこばず・・・

 これぞyoーサンのyo-サン的こころ。(昨夜半に記す)
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束の間の旅人(完) 振り向かないで大宰府の人♫ 再編

2019-05-19 | life

長崎から大宰府へときた。
緩慢な更新で間延びしてしまったが、いい加減、これで本シリーズ「束の間の旅人」のピリオドを打ちたい。まだ改元前で「令和」など知る由もなかったし、仮に改元の後であったら、尚更来なかっただろう。「梅花の宴」所縁の「坂本八幡神社」はスルーした。

私は天満宮に参詣のために来た。元々神社へ詣でることはあまりない。菅原道真公は学問に秀でた方であったそうだ。なので敬意を表しに来た。今更もう賢くもなれませぬが。

「令和」という元号は何だか好きになれない。改元フイバーもいやだ。改元や天皇までも政治利用する、あのドヤ顔や、悪代官や越後屋さながらの人相を見るのもいやだ。彼らのいう「令和」の意味は私が受ける印象とは違う。考案したという学者も人間的に好きになれない。



福井は天神様崇拝が凄い。男の子が誕生すると天神様のお姿を描いた掛け軸を購入する。(孫渡し道具の大事な一つ。)1月25日の天神講には、この掛け軸を床の間に飾り、道真公の好まれた焼カレイを供える。お魚屋さんやスーパーの店頭は焼カレイ一色になる。半夏生の焼鯖と同じ感じ。それは、天神様は学問の神様だからである。そのせいか、子どもの学力日本一はいつも福井県。それもご利益かしら。(w)


薄水色の素無地の上に 琥珀の帯の素敵なあなた                  
  天満宮の境内を行く 振り向かないで大宰府の人
      (いつもの、振り向かないで・・・♫大宰府バージョンでした。)

(丹後縮緬の素無地のお着物の背に、染め抜きの一つ紋が見えます。帯は西陣の、織九寸と拝見。準礼装ですので、何かお祝い事でもお有りだったのでしょう。)
     

天神様にお別れして、参道をぶらり。

造りのよい、いいお店。弊店も次のリニューアルの参考に。その頃はもう私はいないかしら。さもありなん。

少しお疲れモード。今宵は博多泊、早めにホテルへ入り休養して博多の夜などを・・・。

それで、大宰府にさよならであった。

実は今度の旅は、二つの目的があった。まずは既述のように長崎へ。もう一つは、筑紫は柳川に住む、いわゆるネット友達とも以前から「一度会えたらいいね」などと言っていたので
訪ねたいと思っていた。しかしながら、彼も丁度車中泊での長期の旅に出てしまったというメールが来て、柳川行きは中止して博多に。いつも、ふと思い立って旅に出るので仕方なきことである。

まだ、あれこれと尽きないが、何だかしんどくなってきた。又何かの機会に記すかもしれない。と言う訳で、些か端折って・・・。

福岡は今日も晴れだった。小松便は満席。


機上の人となったyo-サン。福岡市を眼下に。


お土産に博多美人を二人も連れてきたよ。(w)


これまで、ネットで知り合った方達とは本当に佳き出逢いであり、思い出であった。信州安曇野のMさんは、私の信濃路を旅した時に1日お付き合いして頂いた。彼は「遠くの親戚がきてくれたようだ」と歓待して頂いた。

又、別の機会に娘と孫たちとで信州へ出かけた時には、今度はやはり信州塩尻のNさんに宿の紹介など、とてもお世話になった。当日は信州産フルーツをどっさり差し入れして頂き感激した。とても洗練された美しい方だった。

残念ながら、お会いする約束をしながら、先立たれれてしまった方も二人あった。私も既に晩年である。会いたい人には会い、行きたい所には行っておきたい、と、しみじみと思う日々である。
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束の間の旅人Ⅴ  長崎の鐘

2019-05-01 | life
    如己堂(Nyokodo)へ


  こよなく晴れた青空を、悲しと思う切なさよ・・・

あの日、昭和20年8月9日は、朝からの快晴であったという。
  そう。長崎に原爆が投下された日のことである。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本稿(長崎の鐘)を書き始めたのは、もう2週間前のことであった。でも、どうしても書き続けることが出来なかった。涙が溢れ出てしようがなかった。如己堂は浦上天主堂とともに、束の間の旅人・長崎編のスタートだったのだが。
もう止そうかと何度も思ったのだが、今度の旅は原爆殉難の人々への鎮魂の旅でもあったので、やはり自分のために記さねばならない。

想えば、私がまだ小学生の頃に見た映画「長崎の鐘」(クリックしてみてね)は、ずっと脳裏深く刻まれていた。
もう、人生も晩年の私にとっては、少しでも元気なうちに永井先生の住まわれた「如己堂」を訪ねたいと切に念っていた。(念う:念って。『おも』と読む)

長崎医科大学の永井先生は、ご自身も重傷を負いながら、搬送されてくる人々の治療に没頭していた。2、3日後、ふと我に返って急ぎ帰宅した。
瓦礫と化した我が家を必死で探したところ、元の台所付近に黒い塊が・・・。それは奥様の緑さんの骨盤と腰椎の一部であったという。傍らには奥様が身に付けていたサンゴのロザリオだけが焼けただれて残っていた。遺骨を拾うと、リン酸石灰のカサコソという音が「ごめんね、ごめんね」と言っているように聞こえたという。

なぜ妻のことを忘れてしまったのか、なぜ直ぐに帰らなかったのかと、先生は自責の念にかられた。それは運び込まれる負傷者の治療に全身全霊を込められていたからではあるのだが。
その後、如己堂で、ご自身も白血病の身で、いかに原爆は悲惨なのかを、「長崎の鐘」、「この子を残して」、「ロザリオの鎖」などを書かれた。最愛の緑奥様を亡くして5年9ヶ月の後、昭和26年5月1日、先生も天国へと旅立たれた。

召されて妻は 天国へ別れてひとり 旅立ちぬ かたみに残る ロザリオの鎖に白き わが涙


「如己堂」とは、敬虔なるクリスチャンであった永井先生が「聖書」の一節「己れの如く汝の隣を愛すべし」からの命名であると言う。当時、永井先生は文語訳の聖書をお持ちだったのだろう。
手持ちのバイブルを繙いてみた。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」(新約聖書マルコによる福音書12章31節) とあった。

(yo-サンは仏教者ですが、聖書を読むのは好きです。何冊も持っています。なんたって永遠のベストセラーですから。お経は漢字ばかりですが、聖書は日本語で読みやすいですね。)


(左から5行目にあるでしょう。「自分を愛するように あなたの隣人を愛せよ」と。)

「己の如く人を愛す、という意味を名にとったこの家は、家も妻も財産も職業も健康も失って、ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。」(パンフより)


   玉の緒の命の限り吾はゆく寂かなる真理探求の道   永井隆

終戦直後、浦上の人々の救済活動をされていた永井先生は、爆心地の浦上天主堂の瓦礫の中に、二つの鐘「アンジェラスの鐘」を発見した。小さな方の鐘は大破していたが、大きい鐘は無事であった。先生は、この鐘を再び鳴らそうと丸太を組み、チェーンで鐘をつり下げた。終戦のその年のクリスマスの日に、その鐘は鳴り渡った。
永井先生は、
「新しき朝の光のさしそむる 荒野に響け長崎の鐘」と詠み、「長崎の鐘」を出版した。
あの、藤山一郎さんが歌った「長崎の鐘」(サトウ・ハチロー:詩、古関裕而:作曲)は、それをモチーフにしている。今もなお私の心に迫る歌である。

           (浦上天主堂付近で。)

冒頭にも記したが、実はこの原稿についてUPが遅れた理由は他にもあった。自ら、腑に落ちないと言うか、疑問に思うことがあったからだ。 
長崎原爆はプルトニウムを使った原子爆弾であった。これは広島のウランの原爆の1、5倍もの強力なものである。長崎は周囲が山で囲まれていたので、熱線や爆風が遮断され、広島よりも被害は少なかったとのことであった。もし、地形が平野であったならその被害は、広島を遥かに超えたものであったと言われる。

今回、長崎で知ったことなのだが、
広島に次いで原爆投下予定地は小倉であったという。しかし、前日の爆撃の影響で空は雲や煙で目視不可能で、長崎へ目標を変更したという。
長崎には軍需工場もあったが、それよりもずっと離れた郊外というか、謂わば山あいの集落・浦上に原爆を落とした。浦上天主堂のほぼ真上に。
キリスト教の聖地であった長崎に、しかも浦上天主堂の真上に原爆を落した。私は子どもの頃から、アメリカはキリスト教の国だと思っていた。大統領もホーリーバイブルの上に手を置いて宣誓をする。なのに、どうして浦上に原爆を・・・。
その後、自分なりに色々と調べてはみたが、今一つスッキリしない。

永井先生は「神の摂理」と言われた。それは多くの批判にさらされたが(浦上燔祭説)、私は、あの敗戦の状況の中で、せめて、そのように言わねばならなかった永井先生のお気持ちは十分に解る。(このことについては、また別の機会に。)

そのような何かしら割り切れぬ気持ちと言うか、わだかまりが残っている。そして、今もなお、核攻撃を煽り、膨大な軍事予算を組み、その支払先の国の大統領のご機嫌伺いに行くこの国のトップ。もう涙も枯れ果てる心境である。その国の国民以上の政府は持てないと言われるが、それがこの国のレベルなのだろうか・・・。

   (心なしかyo-サンの目が潤んでいます。)


  
スマホ見る長きスカート穿きし人女(ひと)ここは長崎 坂の街角 


そろそろ、長崎の旅を終える。もしも明日が晴れならば・・・筑紫に行こう。
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