今年も清楚な花をつけた。昨年頂いた鉢植えの顎紫陽花である。公園等に植えられている豪華な花の紫陽花はこの額紫陽花を改良したものだそうだ。 色々な花が雑然と生えている感じの庭先に、この花はつつましやかに自らを表現する。朝夕水遣りをしながら花と語らうこの頃である。またしても起きた佐世保市の小学同級生殺害事件、関連の報道がつづく中で今度は東京の女子中学生が幼児を団地の階段の踊り場から突き落としたという。
またしても起きた佐世保市の小学同級生殺害事件、関連の報道がつづく中で今度は東京の女子中学生が幼児を団地の階段の踊り場から突き落としたという。
マスコミで知る範囲でしかないが、佐世保の事件の加害者は概ね「ふつうの子」がといわれ、東京のそれは「難しい子」と報じられている。この両者の線引きというか、分岐点は一体どこなのだろうか。
一般的には過去に特に問題がなかった子が「ふつうの子」、そうでない子が「ふつうでない子」ということになるのだろうと思う。
人間は色々な感情を持つ。それは子どもも大人も同様である。「ふつうの子」の心の中にも「ふつうでない子」と共通のものは多い。
事件や問題行動として表面に現わさない子どもであっても、憎いとか、時には殺してやりたいという感情は起こると思う。「殺してやりたいなんて・・・」と言われる人があるかもしれない。しかし、もしそのような状況になれば、「自分はやらない」と果たして断言できるであろうか。まさに歎異抄の世界である。
「ある日突然」というが・・・。
ある日突然、ということは自殺にしろ殺人にしろまず無いだろう。日々の暮らしの中で様々な思いが心の中に宿っていくものである。その萌芽が徐々に成長していく。
そのことについて自分さえ気付かないことだってあるのである。
長年、不登校や非行臨床に数多く関わってきたが同様のことが言える。子ども達は程度の差こそあれ、それなりのサインと言おうか SOS信号を出していたのである。
それを周囲が早めにキャッチしてやれるアンテナがなかったように思う。それは家庭や学校の責めというよりも、現代社会における他人への無関心さとも同根の様に思えるのだが。
この種の事件でよく言われるのは
「生命の大切さを教える教育」である。それなりの、もっともさで人々を納得させる。「生命の尊さを実感」等と新聞やテレビで報道される。生命といえば、若くて健康で輝くばかりの生命を連想させるものばかりである。
そこに大きな誤謬がある。私は生命の大切さは死をみつめることにより始まると思っている。
現代は死を日常から隔離してしまった。
特に子ども達の目からは。施設や病院で祖父母が亡くなり、ある日突然お葬式になるのである。死に対するリアリティがない。
「いくら息をしょうと思ってもできなくなってしまう。どうしたらいいでしょう。ほら、いくらしょうと思っても・・・」・・・・妹の瞳孔は拡大してなにも見えないらしかったがその目もとうとうつぶってしまった。・・・・皆はまわりによって泣いた。
これは「銀の匙」などで知られる中勘助の随筆「妹の死」の一節である。それでは、今回はこれで。
またしても起きた佐世保市の小学同級生殺害事件、関連の報道がつづく中で今度は東京の女子中学生が幼児を団地の階段の踊り場から突き落としたという。
マスコミで知る範囲でしかないが、佐世保の事件の加害者は概ね「ふつうの子」がといわれ、東京のそれは「難しい子」と報じられている。この両者の線引きというか、分岐点は一体どこなのだろうか。
一般的には過去に特に問題がなかった子が「ふつうの子」、そうでない子が「ふつうでない子」ということになるのだろうと思う。
人間は色々な感情を持つ。それは子どもも大人も同様である。「ふつうの子」の心の中にも「ふつうでない子」と共通のものは多い。
事件や問題行動として表面に現わさない子どもであっても、憎いとか、時には殺してやりたいという感情は起こると思う。「殺してやりたいなんて・・・」と言われる人があるかもしれない。しかし、もしそのような状況になれば、「自分はやらない」と果たして断言できるであろうか。まさに歎異抄の世界である。
「ある日突然」というが・・・。
ある日突然、ということは自殺にしろ殺人にしろまず無いだろう。日々の暮らしの中で様々な思いが心の中に宿っていくものである。その萌芽が徐々に成長していく。
そのことについて自分さえ気付かないことだってあるのである。
長年、不登校や非行臨床に数多く関わってきたが同様のことが言える。子ども達は程度の差こそあれ、それなりのサインと言おうか SOS信号を出していたのである。
それを周囲が早めにキャッチしてやれるアンテナがなかったように思う。それは家庭や学校の責めというよりも、現代社会における他人への無関心さとも同根の様に思えるのだが。
この種の事件でよく言われるのは
「生命の大切さを教える教育」である。それなりの、もっともさで人々を納得させる。「生命の尊さを実感」等と新聞やテレビで報道される。生命といえば、若くて健康で輝くばかりの生命を連想させるものばかりである。
そこに大きな誤謬がある。私は生命の大切さは死をみつめることにより始まると思っている。
現代は死を日常から隔離してしまった。
特に子ども達の目からは。施設や病院で祖父母が亡くなり、ある日突然お葬式になるのである。死に対するリアリティがない。
「いくら息をしょうと思ってもできなくなってしまう。どうしたらいいでしょう。ほら、いくらしょうと思っても・・・」・・・・妹の瞳孔は拡大してなにも見えないらしかったがその目もとうとうつぶってしまった。・・・・皆はまわりによって泣いた。
これは「銀の匙」などで知られる中勘助の随筆「妹の死」の一節である。それでは、今回はこれで。