コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

真夏の昼の夢 凌霄花の 花の咲く頃・・・。

2018-08-28 | Weblog
(Wikipediaより拝借)

 西近江 凌霄花(ノウゼンカズラ)咲く道を一人行きしはいつの日のこと(筆者近詠)

こんにちは。通称yoーサン こと、カウンセリング・スーパーバイザー(Counseling・Supervisor)の米沢豊穂です。

この頃よく夢を見る。まあ、人は毎日夢を見ているのだが覚えていないだけだが。(夢についての心理学的考察はまた別の機会にしたいと思う。)

お盆(旧盆の8月15日前後)の午後のことだった。特にすることも無くて(やれば色々とあるのだが、何もやりたくなく)久々に書斎に入り、積読の書物など「眺め」ていて、ふうっと睡魔に襲われたのだった。1時間ほどで目覚めた。

それは、西近江はマキノ町(現在は高島市マキノ町)辺りを車で走っている。マキノと言えば、四季折々に美しい風景を見せるメタセコイアの並木が好きだ。その界隈、カタクリの花咲くところへも見に行ったことがある。元気な頃はよく訪れたものだが、近年は行けずにいる。
ところが、夢に見たのはメタセコイアの木に絡みながら、橙色の凌霄花の花がが木洩れ日の下で咲き誇っているのだ。この並木道には凌霄花などは無い筈だ。夢はふつうはカラーではないのだが、私は時たま総天然色の夢を見る。この夢も、まことに美しい彩であった。

私はフロイディアンでもなければユング派でもないが、カウンセリング研修で夢分析の講義もするし、カウンセリング中に、クライエントさんが見た夢の話を聴かされることもある。夢は過去の経験に由来するものであり、又は願望の充足を求めるものである。そう言えば、ずいぶんと昔、マキノ町の旧道を走っていた時、沿道の何軒かの農家の庭先に凌霄花が咲いていたのが記憶に残っていた。潜在意識の底に今一度凌霄花の咲く頃に西近江を訪ねたいと思っていたのだろう。(夢分析については稿を改めるので、この夢判断は表面的?なものにしておく。)今もあの道に凌霄花は咲いているのだろうか。どなたかご一緒してくれないだろうか・・・。

ふと思い出したのだが、鳥海昭子さんのお歌に、        
 古里の杉にからまりあでやかなノウゼンカズラ母亡きあとも    がある。
本当にノウゼンカズラは「あでやかで」あり、インパクトが強い花である。 

閑話休題
書斎の本箱から、昔、新聞に書いていた「随想」のコピーが出てきた。当時は講演や研修の合間を縫って、随想の連載、人生相談や教育相談の回答、或いは、保育研究会の会誌「ほいく・ふくい」への出稿など、日々慌ただしく暮らしていた。振り返ってみると、遅筆の今の私にはちょっとコワい気がする。ロクに推敲もしなかったのだろう。若いってことはコワいもの知らずだったと恥ずかしい・・・。


「旅とふるさと」今読んでみると、あの頃は母も元気だった。「お盆」には、大阪の妹や京都の弟たちの「里帰り」で賑わった。今はもう、弟は逝き、妻も冥界を異にして久しい。子どもたちは巣立って、お墓参りに顔を見せる程度である。


長女がメロンと葡萄をお仏壇に供えてくれた。「美味しい間に食べてね」と。お仏壇やお墓にお供えしても仏様や故人には食べられない。子どもたちが幼かった頃から、珍しいものや頂き物は、まずお仏壇にお供えしてから戴く。必ず「お下がり頂戴します。」と言ってリンを叩いた。子どもたちはその頃から「正信偈」や「阿弥陀経」は、すらすらと読誦した。
私が子どもの頃、母方の祖母が「仏さま食べはらへん、ちょっとだけお見せするだけやから。」と言っていたことを想い出す。


今更ながらふたたび「時は過ぎてゆく」を実感しているyoーサンでした。これも「無常」。称名

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女人哀歌 吉崎御坊と蓮如の愛娘 見玉尼のことなど 補筆修整

2018-08-02 | Weblog
 本文は文芸誌出稿のため補筆・修整しました    

   思い出の道も失せたり草いきれ

こんにちは。通称yoーサン こと、カウンセリング・スーパーバイザー(Counseling・Supervisor)の米沢豊穂です。実は私め、3足ぐらいの草鞋を履いています。今日はまた別の1足で。お坊さん?知る人ぞ知るかしら。非僧非俗、いやいや俗そのもの、ゾクゾクしてきます。

 



   
先日、長年お付き合いを頂いている、ある真宗寺院の坊守さんから電話があり「今年も婦人部のお話にいらして下さいね」とのことであった。私は思わず「もう長いこと寄せて頂いていますし、何をお話ししたものやら・・・」と、婉曲にご辞退しますと、「先生のご専門のカウンセリングとお念仏、なんてのは如何でございましょっ」と。思わず苦笑した私であった。

彼女はある時期、電話相談員をしていたので、私のカウンセリング研修を何回か受講している。私の話の中で「黙っていてもお念仏が聞こえてくるような人こそ、カウンセリング・マインドのある人です」と言ったことがある。
彼女は「いつも、その言葉を噛み締めていた」と仰る。言った本人は忘れても、聴いた人は心に刻む言葉もあるのである。私もまんざらでたらめを言っている訳ではない。私自身、人と接する機会が多いが、人と対面すると、いつも「この人からお念仏が聴こえるかしら」と、心の耳をそばだてている。真宗の門徒、いや宗門人であっても一向にお念仏が聞こえてこない人もあれば、クリスチャンや新宗教の人からお念仏が聞こえてくることもある。

この坊守さんとのご縁は、私が今よりはもう少し輝いていた頃、地元紙の人生相談の回答者をしていた時に始まる。彼女は電話相談員でもあるので、私の回答を読みながら、自分だったらどのように回答するだろうか、と考えていたそうだ。そのうちに、ぜひ一度私に会いたくなったと言われる。
そのような経緯はともかくとして、彼女は頗るお人柄のよい方である。由緒あるお寺さんであるが、彼女の暮らしぶりは質素である。お着物を召されていることが多いが、それはいつも彼女のお母さん譲りのものであり、お値段ばかりが高い今出来の物とは違う。(私は着物についての知識もプロなんです。)
彼女には物欲というものがまるでない。私などに言われるまでもなく、その後姿からにもお念仏が聞こえてくる。そして、常にご門徒さんのことを第一にしておられる。ご門徒さんの悩みを受けて、ご自分が迷われた時は私に電話が掛かる。その頃は私も今よりはパワーがあり、彼女のお寺に出向いて夜の更けるまでお話をお聴きした。不思議と殆どの問題がクリアーされた。(聴くと聞くを敢えて使い分けています。)

という訳で、彼女と話し合った末、「生きる力を育むお念仏」というテーマになった。吉崎ご滞在時の蓮如上人や、その「御文」(「おふみ」:宗派により、御文章、御勧章ともいう)、或いは当時のご門徒・同行衆、女人往生、そして、今日の女性とお念仏などについて「先生の思われるままにお話し下さいませ」なんてことになった。内心、えらいことになってしまったと心配しても、もう遅い。頼まれると、なかなかNOと言えない因果な性格の私である。昔、母が良く言った。「お前は日の暮れの葬式でも引き受ける人や・・・」と。まさか、寺でもない私が葬式なんて、と思ったものであった。



 それで、嘆いていても始まらないので久々に吉崎御坊を訪ねることにした。車を駆って自宅から、JRあわら温泉駅のある旧金津町、北潟湖、そして吉崎御坊へと走ってきた。途中、芦原の丘陵地帯を抜けて北潟湖が見え始めたとき、ふと例のヒトリシズカ(過去記事2018.4.5)のことを思い出した。どうもこの辺りから山道へ入ったような気がして車を湖の脇に止めて、探してみたがそれらしい道はなかった。
当時は彼女(件のヒトリシズカの君)の軽自動車に乗せてもらっていた。同乗者は概して道を覚えられないものだが、私は方向音痴の傾向もあるので尚更である。今日はもう縁がなかったのだろう。ヒトリシズカの花の時期も終わっている筈だ。と自分なりに合理化して吉崎へと向かった。



  蓮如忌も過ぎて御坊はひっそりと

蓮如の里(クリックしてみてね)は静まり返っていた。市営の駐車場に車を止めて東西両別院に参って御山に上った。御山とは、もう五百五十年も昔、蓮如がこの地にはじめて道場というか、坊舎を建てた小高い山である。両別院が競い合うように立つ境の、細くて、なだらかな石段を上るとすぐである。言わば吉崎御坊の発祥の地で、今は跡地としての碑がある。ほどよく木々が有り、木洩れ日の下(もと)、緑の葉にそよぐ風は気持ちがいい。 



左 東御坊、 右 西御坊






   
ここから眺める北潟湖、そこには鹿島の森が浮かぶ。まことに見飽きない美しさである。彼の吉崎滞在は四年ほどであったが、朝な夕なこの風景を見ていたのだろう。蓮如の大きな銅像が湖に向かって立ち、今も眺めつづけている。
蓮如が舟で吉崎を離れ京に戻る時に「夜もすがらたたく船ばた吉崎の鹿島つづきの山ぞ恋しき」と詠んでいる。この歌は、あわら温泉駅が新しくなる前までは正面北側の階段側面の大きな看板に書かれていた。私は、特急停車の最寄駅なので県外出張などの折々に目にしていた。あの看板は何故外したのだろうかと今でも思っている。



 実は御山に上ったのは、ここに蓮如の娘、見玉尼のお墓があったことを思い出したからである。件のヒトリシズカの君は、蓮如の書いた「御文」(おふみ)を有難く思っていた。それは多分に彼女の母親の影響からであったと思う。




御文は数多いのだが、五帖に編集されたものを「五帖御文(ごじょう おふみ)」と呼び、その編集に入らないものを「帖外御文」と呼ぶ。その帖外御文の中に早逝した見玉尼を悼むものがある。美しくも切々たるその文面は涙を誘う。本願寺の門徒であれば、「御文」を見聞する機会は少なくないが、この帖外御文となると、その機会はあまりない。私の講義中、見玉尼やその御文についての話題に及んだ時、彼女はハンカチで目頭を拭っていた。



  参詣の人もあらずや蝉しぐれ

 たしかこの辺りに、と見渡すと、御山の北側のやや高くなった所にそのお墓はあった。近づいて手を合わせた。いつ頃の建立かは分からないが、相当の歳月が感じられた。花立てには、すっかり干からびた野の花のようなものが残っていた。背後にある大きな木に日の光を受けた若葉が青々と茂っていたが、晩秋に訪れたら寂しさはこの上ないような気がした。
お墓の案内板にも御文の一節が書かれているが、傷みもあり判読しにくくなっていたが「八月十五日の荼毘の暁方の夢に白骨の中から金仏が現れ蝶になって涅槃の都へ飛んでゆくのが見えた」と記されている。


今度来るときにはお花を携えて来ようと思うことしきり・・・。

 見玉尼は、最初の妻如了との間にできた子で二女である。蓮如はまだ部屋住みの頃で、赤貧と言っても過言ではない暮らしであった。見玉尼七歳の時に母・如了が亡くなり、長男の順如を除いてほとんどが禅寺や尼寺に奉公に出された。
見玉尼はその後、姉や伯母をも続けて亡くして、遠く吉崎に行った父蓮如が恋しくて、京都より長旅の末、吉崎にやってきた。文明三年(一四七一)五月、二四歳であった。彼女は気立ての優しい美しい女性であったと伝えられている。だが病を得て父と一緒にいられたのは一年余、薄幸な女性は父の信じて止まない浄土へと旅立った。



今、蓮如について多くを記す紙幅はないが、彼は生涯で五人もの妻を持つた。勿論、同時に五人の妻帯ではない。次々に亡くなったからである。それで、二十七人もの子女がいた。そのいずれもが良い子ばかりだったという。蓮如は第八代法主、本願寺再(中)興の祖と言われているが、多くのよき子女に恵まれたことも、本願寺を日本最大の教団にしたことと無縁ではないだろう。


私は親鸞の教えに傾倒し生きる中で、よくもわるくも、いつも何か気になる存在が蓮如である。いつか機会を得て蓮如について書いてみたいと思っているが、かなりのエネルギーが要る作業になるだろう。そんなことを思いながら婦人部での講話の構想を練っているこの頃である。



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