水仙の咲き初めて母逝きき
垂乳根の母の守りし大暖簾 我には重し除夜の鐘聞く
弔問の客も途絶えし正月は 寂しさ募る朝な夕なに
生前に自ら記す法名に我の実母と裏書のあり
推敲の半ばなりしか母の歌遺品の文箱にそっと戻せり
亡き母の七日七日の過ぎ行きて早や四十九日も近づきぬ
開山もお大師さんも尊びし母は同行三人なりかし
<亡き母を想ひて 筆者拙詠>
振り返れば昨年は身辺種々なことが起こって、ブログの更新どころではなかった。そして年の瀬には母が身罷った。
通俗的に言えば、「まさか」と言うのかも知れないが、私の辞書には「まさか」はない。いずれも、いずれも、起こるべく
して起こる、つまり必然である。釈尊はその入滅に際し「諸行無常」と説き示されている。
私は清沢満之先生がよく仰ったと言われる「如来の大命」だと思っている。それも先生のお弟子暁烏敏師のお声で、
「如来の大命じゃ」と聞こえてくる。暁烏師の肉声など全く知らない私だが、何故かそのような気がしてならない。
まことに不思議のことである。
しかしながら、会者定離、愛別離苦とは百も承知ながら、幾つになっても親を亡くすることは寂しいものである。
喪中年賀欠礼の葉書を出した翌日、私のケータイが鳴った。長年お付合い頂いているある真宗寺院の坊守様からであった。
彼女は開口一番「せんせい・・・・・」と。後は言葉にならない。共に暫しの沈黙と嗚咽であった。そして「長い間よく看ておあげでした」と震えるお声で言って下さった。私のために涙して下さる、それだけで勿体ない思いであった。
その翌日、一通の手紙が届いた。これまた長年、講演などにお呼び頂きお世話になっている方からである。いつもながら達筆で認(したた)めて下さっている。有難いことである。暮れも押し迫った頃にも関わらず連日有縁の方々が次々と弔問においで頂き、母の遺影の前でそれぞれの思い出話のひと時を過ごした。これも母の人徳の然らしむるところだろう。
カウンセリング研究会にご一緒して下さった方々もおいで下さった。例会や研修などはいつも会場だが、この日は私の家でしみじみとお話し出来たことも心に残った。
年が変わり何人かの方から寒中見舞いを頂いた。そのお心がとてもうれしい。他人(ひと)の心に寄り添うとはこのようなことを言うのである。多年に亘り私が提唱してきたカウンセリング・マインドを多くの皆様から感じさせて頂く思いであった。そのお心がとてもうれしい。長々記したが、私の亡き母への哀惜の情だと思し召し下さりどうぞご寛容に願いたい。
閑話休題
例年1月は私(個人)の仕事はさほどないのだが、今年の最初(平成30年度最後の回でもある)のお仕事は、社会福祉法人さんの職員研修だった。お呼び頂くようになってもう30年になる。ご参加は新採用の職員の方々でもあり、拙著を謹呈させて頂いた。前日に、せっせと皆様のお名前と私の署名をした。右手の指の変形で字がうまく書けない。整形外科受診で、「手の使い過ぎ、働き過ぎ」とのことであった。生来字を書くのが好きだったが、最近では手紙や葉書もあまり書けなくなってしまったのが残念である。
今年も幾つかのカレンダーを頂いた。これは比叡山・天台宗のもので毎月よき言葉が書かれている。
表紙はご存じ「一隅を照らす」であった。
「ありがとう」「ありがとう」、「ありがとう」・・・、何度か口にしてみる。
自分の声を自分で聞く。「ありがとう」、本当によき言葉だ。今年は昨年よりも多くの「ありがとう」を、と思っている。
皆様、どうもありがとう。
今年は今のところ積雪はないが、北陸の冬、明日のことは分からない。この大暖簾は極厚地の綿布の染め抜きで出来ていて、ずっしりと重たい。物理的にも精神的にも重い暖簾である。まだまだやらねばならないことが山積しているが、一区切りしたら旅にでも出ようと思っているこのごろである。
思いつくままに。今宵はこれにて。