近況&心境
あのの風 の皆様。
お心遣いのメッセージ等痛み入ります。体調万全ではありませぬが、お陰様で生かされております。まっこと有難きことと存じつつ暮らしております。
若狭路は海辺の町の麗しき人より届く紅白の桃
ゆうパック届きて嬉し蓋とれば桃の香りの部屋に満ちたり
昨年も、(クリックOK)その前にも書いたのだが、今年も極上の桃が届いた。何よりも亡き母の好物、早速お仏壇に。ひと時を在りし日の母を想ひて過ごした。
いつもながら贈り主のお心に感謝しつつとても美味しく戴いた。毎日、あれこれと為すべきことが多く、時間と駆けっこの暮らしで、体調も低下気味だったので、旬のフルーツは格別であった。
その後に頂いたお手紙も、これまたお心のこもったものであった。ケータイやメール全盛時代だが自筆の便りに勝るものはない。これもお人柄である。私流にはカウンセリング・マインドの豊かな方である。
<閑話休題>
昨年11月24日付けの「友・朋へのメッセージ」(クリックOK)にも記していますが、先日「小さな小さな仏教講座」の3回目をしました。いつもながら私の講義などよりも、その後の皆さんでのお話合い・分かち合いが盛り上がります。
話題のひとつに、先般の事件のことがありました。このことについて私に「どう思うか」とのことでしたので、今後「歎異抄」について学びあう予定ですので、歎異抄の中から引いてお話をさせて頂きました。
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
歎異抄の中で唯円坊(歎異抄の著者)が記している親鸞聖人の言葉です。
「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定(いちじょう)すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量(きりょう)にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と
チョー端折って意訳してみます。
親鸞「唯円よ。私の言うことを信じるか」
唯円「はい。もちろんでございます」
親鸞「では、ひとを千人ころしてみろ。そうすれば極楽往生出来る」
唯円「めっそうもありません。私はひと一人も殺せません」
親鸞「それは自分の心がよくて殺せないのではない。殺さねばならないと思う条件・そのような縁にふれれば殺してしまうこともあるのだ」・・・
いつもこの辺りを読むと唯円の顔を想像します。親鸞の問いかけに、きっと鳩が豆鉄砲をくらったようではなかったかと。
親鸞の発したこの言葉は本当に人間の心の奥底を突いていると思います。私はあの事件の加害者を責め罵る気持ちは起こりません。彼の母がカルト的な教団に入らなければ、そして殺された人がその教団に賛辞等を贈らなければ、殺さず、殺されずであったでしょう。
お一人の方がいみじくも仰いました。「人はその人が生きてきたように死ぬ」と。言い得て妙ですね。死を悼むことは人間の美しい心情ではありましょう。しかしそれは静かになすべきことであり、大騒ぎすることでは決してありません。
お話し合いは続きましたが、それは次回に譲りましょう。
最後に皆様と「讃嘆の歌」を歌っておひらきとなりました。皆様のお顔が光り輝いていましたよ。「讃嘆の歌」とはお経「仏説無量寿経」の中にある「偈」(うた)なんです。経典では難しい漢字ばかりですが、それを易しく意訳して曲がついています。私はお歌のお経なんて呼んでいます。
光かがやくかおばせよ みいずかしこくきわもなし
炎ともえてあきらけく ひとしきもののなかりける ・・・♪
今宵これにて。 三帰依 yo-サンこと 釈豊照でした。