コミュニケルーム通信 あののFU

講演・執筆活動中のカウンセラー&仏教者・米沢豊穂が送る四季報のIN版です。

歎異抄と平家物語

2022-08-19 | life

以前、拙著「カウンセリングに学ぶ人間関係」を課題図書にされた読書会にゲスト参加させて頂いた。そのときに「今度は歎異抄を読むことになっていますので是非に」とのことだったが、折悪しくコロナの感染が広がり、一堂に会しての読書会は出来なくなった。その後、係の方から何度かメールやお手紙を頂いた。いつも「コロナが終息しましたら是非とも」とのメッセージを添えて下さる。

先日も近況を知らせて下さるメールがあり、会員の皆さんが歎異抄の文庫版を購入して読まれたそうだ。その感想として「現代語訳との対比の記述なので言葉の意味は分かるのですが、今ひとつ胸にストンと落ちないので」とのことであった。

たしかにそうだと思う。仮に私が行って単に高校の古典の授業のように講じても同様である。歎異抄には生き生きと響く親鸞の生の言葉が鏤められている。なので、親鸞の思想を理解し、その信仰に生きる者が自らの言葉で語ることによって理解を深めて頂けるのだと思う。しかしながら、コロナは終息どころか収束の兆しもなく更に感染拡大しているこの頃である。

近ごろ流行りのzoomやyoutubeなどの利用もあるが、皆さんはやはり一堂に会して、リアルに聞きたいとのことであった。私も本当にそう思う。長年お呼び頂いている研修先ではオンライン・リモートでの講義をさせて頂いている。しかしそれは会場、設備機器等が整っており、スタッフの方々の万全のフォローがあるから出来る。またそれは、あくまで研修であり講義だからでもある。

私は読書会やカウンセリング等の学びや集いは、参加者がお互いの表情や声がリアルに伝わり・感じられることを何よりも大事にしたいと思っている。同じ場で同じ空気を吸いながらやりたいと思っている。

ところで、読書会の次なる課題は平家物語にされたそうである。「こちらの時もぜひ出席を」とのこと。コロナの先行きは一向に見渡せないが、その日を心待ちにしている私。

<閑話休題>

歎異抄も平家物語も日本の中世的世界を支える国民的古典である。平家物語の冒頭の、

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。風の前の塵におなじ。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ風の前の塵におなじ。

けだし名文である。これほど人口に膾炙された文はないであろう。全編を通してその低流にあるものは「無常観」である。一介の武士であった平清盛が太政大臣に上り詰め、「平氏にあらずんば人にあらず」とまで豪語したが、その極めた栄華も「盛者必衰の理」、高々20年ほどで滅びを迎えたのである。

もう800年も昔の物語ではあるが「無常」は今も変わらぬことである。それは釈尊のお悟りの根本「諸行無常」である。永遠不滅なんてものはないのである。清盛は、天皇により武士階級からは初めて「太政大臣」に任じられた。太政大臣とは、今で言うならば総理大臣のような地位であった。平家物語について長々記す余裕はないが、ふと先般のあの事件を思った。物語冒頭の「奢れる人も久からず」である。

「無常観」と言えば「もののあはれ」等と同様に日本独特の、ものの見方(観想)と捉えられるが、それは仏教思想の基本である。釈尊が辿り着かれた道は「諸行無常」であったと思う。「全てのものは移り変わる」ということである。それに気づけば自ずから如何に生きるかが分かるというものである。30年前の自分の写真を見てみよう。今の自分と比べてどうだろう。この先10年後は。いや1年後でもいい。自分の存在さえ不確か極まりない。

事件以来今なおネットやメデイアの情報穏やかならざるこの頃である。被害者と言い、加害者と呼ぶも、いずれも因果であり業である。「宿業」なのである。前回記した歎異抄の「人を千人殺してみよ」の数行先に、

よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。と唯円は書いている。意訳はせずにおこう。このまま味わって頂きたい。更には後序に親鸞の言葉が、

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。とある。

「火宅無常の世界」とは、火に包まれた燃え落ちる家のような世界、つまり無常の世のこと。今の世も当にそうである。「そらごと たはごと」とは「空言(虚言)」、「戯言」と書く。事件の後、背景が露になってくる。関わり深い権力の側の発言は皆「そらごと たはごと」に聞こえてならない。

我が国中世に著された2冊の古典を繙きながら、しばしお盆のひと時を過ごしたyo-サンでした。お盆明け、相変わらず為すべきことがあれこれとあり、更新もお訪ねもなかなかままならぬ暮らしをしております。どうぞご寛容に。

それではまた。今宵これにて。