(画像はこの夏に撮影した我が畑の一部です)
今年の夏野菜は概ね良い収穫だったが、一人や二人の家族には過ぎる程であった。農村地帯ではないが、畑や家庭菜園を持つ家も比較的多くあり、近隣から頂けるような環境なので、他にあげることも出来ず、勢い余剰なものは再び畑に返す有様であった。
そのような夏も逝き、台風や大雨も重なって、我が畑は今、草に覆われている。少し遅く植え付けたサツマイモだけが秋草を草マルチにして、葉を一面に延ばしている。毎年思うことなのだが、「来年からは畑は止めよう」などと考えながら縁の石に腰かけて眺めていた。
すると、ふいに後ろから「おあんさん」と呼ばれた。振り向くと、母がまだ元気で畑仕事に精出していた頃、母の畑友達だった老婦人であった。母よりは一回りぐらい若くて八十前半だろう。彼女は昔から私のことを「おあんさん」と呼ぶ。「おあんさん」とは、この辺りでは男性に対する尊称だが、たぶん「お兄(あに)さん」から転化したのだろう。女性には「おあね(姉)さん」と呼ぶ。彼女は「どうしなさったかのう?」と心配げに尋ねてくれる。私の後ろ姿は、肩を落とし、よほど寂しげに見えたのだろうか。
「いやぁ、この草ぼうぼうをどうしたものかと・・・。」と応える。すると「こんな広い畑をいっぺんにと思いなさらんと、今日は畳一畳分だけにしなさると、ようござんすわね。」と。私はとても驚いた。「ホント、お母さんの仰る通りです。」と応えた。(私は彼女のことをお母さんと呼ぶ。)
実は、私はカウンセリング研究会や読書会などで何度も、ミヒャエル・エンデの「モモ」について講義をしているが、その一節に、道路を掃除するペッポじいさんが出てくる。
(画像は「モモを読む」学習会。「モモ」と拙著「あのの・・・カウンセリングに学ぶ人間関係」)
「なあ、モモ」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」 また一休みして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
ペッポじいさんの言葉は、まさに禅、三昧の境地である。畑で教えてくれた彼女の「畳一畳分」と軌を一にするものであった。「モモを読む」私なのだが、「論語読みの論語知らず」もいいところであった。まことに恥ずべし痛むべし。
元より畑全部などとは努々(ユメユメ)思ってもいなかったが、せめて秋野菜を植えられる場所を、なんて考えていた。それで、今日はきっぱりと「畳一畳分」を、と決めてやり始めた。「自己忘るる」境地で、あっけなく完了した。もっとやりたい気分でもあったが、体調も考慮して、この日はこれでお終いにした。
作者のエンデは禅にも通じていた人である。ぺっぽじいさんの件の言葉は、まさに「無我」である。
それは、まだ分かりもしない先を案ずるのではなく、はたまた、過ぎてしまった過去を悔やむのでもない。私たちのカウンセリングでいう「いま、ここで」に生きるだけである。エンデはシュタイナー思想の影響も大きいが、難しくなるので、ここでは割愛する。清沢満之先生は「仏教は学問ではない。実践である。」と遺されている。然りだと思うことしきりの私であった。
それでは、今宵はこれにて。
今年の夏野菜は概ね良い収穫だったが、一人や二人の家族には過ぎる程であった。農村地帯ではないが、畑や家庭菜園を持つ家も比較的多くあり、近隣から頂けるような環境なので、他にあげることも出来ず、勢い余剰なものは再び畑に返す有様であった。
そのような夏も逝き、台風や大雨も重なって、我が畑は今、草に覆われている。少し遅く植え付けたサツマイモだけが秋草を草マルチにして、葉を一面に延ばしている。毎年思うことなのだが、「来年からは畑は止めよう」などと考えながら縁の石に腰かけて眺めていた。
すると、ふいに後ろから「おあんさん」と呼ばれた。振り向くと、母がまだ元気で畑仕事に精出していた頃、母の畑友達だった老婦人であった。母よりは一回りぐらい若くて八十前半だろう。彼女は昔から私のことを「おあんさん」と呼ぶ。「おあんさん」とは、この辺りでは男性に対する尊称だが、たぶん「お兄(あに)さん」から転化したのだろう。女性には「おあね(姉)さん」と呼ぶ。彼女は「どうしなさったかのう?」と心配げに尋ねてくれる。私の後ろ姿は、肩を落とし、よほど寂しげに見えたのだろうか。
「いやぁ、この草ぼうぼうをどうしたものかと・・・。」と応える。すると「こんな広い畑をいっぺんにと思いなさらんと、今日は畳一畳分だけにしなさると、ようござんすわね。」と。私はとても驚いた。「ホント、お母さんの仰る通りです。」と応えた。(私は彼女のことをお母さんと呼ぶ。)
実は、私はカウンセリング研究会や読書会などで何度も、ミヒャエル・エンデの「モモ」について講義をしているが、その一節に、道路を掃除するペッポじいさんが出てくる。
(画像は「モモを読む」学習会。「モモ」と拙著「あのの・・・カウンセリングに学ぶ人間関係」)
「なあ、モモ」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」
しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。
「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」
ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」 また一休みして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
ペッポじいさんの言葉は、まさに禅、三昧の境地である。畑で教えてくれた彼女の「畳一畳分」と軌を一にするものであった。「モモを読む」私なのだが、「論語読みの論語知らず」もいいところであった。まことに恥ずべし痛むべし。
元より畑全部などとは努々(ユメユメ)思ってもいなかったが、せめて秋野菜を植えられる場所を、なんて考えていた。それで、今日はきっぱりと「畳一畳分」を、と決めてやり始めた。「自己忘るる」境地で、あっけなく完了した。もっとやりたい気分でもあったが、体調も考慮して、この日はこれでお終いにした。
作者のエンデは禅にも通じていた人である。ぺっぽじいさんの件の言葉は、まさに「無我」である。
それは、まだ分かりもしない先を案ずるのではなく、はたまた、過ぎてしまった過去を悔やむのでもない。私たちのカウンセリングでいう「いま、ここで」に生きるだけである。エンデはシュタイナー思想の影響も大きいが、難しくなるので、ここでは割愛する。清沢満之先生は「仏教は学問ではない。実践である。」と遺されている。然りだと思うことしきりの私であった。
それでは、今宵はこれにて。
モモはずいぶん昔に読んだので
内容は薄れてしまいましたが・・
まさにその通りで、私も家の掃除
をするのに、今日はお風呂を念入
りに、次はトイレを念入りに、と
小分けしてやっています♪
それは、一気にやってしまって腕
や腰を痛めたからです。
失敗しないと賢くなりませんネ(笑)
身近に素敵なおばあさまがいらっし
ゃるのですね(#^^#)
「おあんさん」って何ていい響きでしょう!
「お母さん」の」話し言葉が素敵です°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°
過去には感謝が湧き、未来にはいたずらに不安は感じませんが、
台風の来る前に色々して(門の補強など)
でも・・・気持ちは萎えますね。
自分のところだけではなく日本中風雨が吹き荒れるんですもの(>_<)
でも出来る限り心を平らにして過ごします。
「モモ」はかなり分厚い重い本でしたが、今も我が家に残っています。
この装丁の写真を見て、今の時代こそもう一度読みなおしたいと思い書棚から出してきました。
ありがとうございました。
「モモ」は一応は児童文学と言いながら、多くの大人たちにこそ読んで欲しい
と思っています。かつて、カウンセリング研究会の会員の研修にも「モモ」を
課題図書にして、感想を書いて頂いたり、デスカッションも致しました。
さこさんが、お家のお仕事の中にも「ぺっぽじいさん」的発想で熟されること
は素晴らしいですね。お掃除も、お料理も「無我」の禅修行なんですねぇ。
それでは、何かとご多用な日々、どうぞご自愛なさって下さいますよう。
有難うございます。「おあんさん」呼称は誰彼と無くは付けませんし、また、
近年はそれを使う人も少なくなりました。ゆりさんの仰るように、特に彼女の
言葉になりますと(アクセントや響き)とても柔和なのに尊敬の念も感じられて、
失われて行くよい言葉の一つのように思います。件の過去、未来についてですが、
主として、人生、生き方などに際してのことです。「感謝」或いは「予防」や
「対策」などは仰せの通りです。少し専門的になるのでこの辺りで。それでは、
また、貴ブログを楽しみにお邪魔させて頂きます。
おられましたね。お子様方はきっと情操豊かに大きくなられたことと存じます。
わざわざ書棚から出されたとは、とても嬉しく存じました。長編なのでなかなか
一気に読了とは参りませぬが、私は研修では、毎回章ごとに読んで来て頂いて
おりました。受講者の方々の読後感想文など読みなおしてみますと、それぞれ
によい気づき(気づかされ)があり感心致します。どうも有難うございました。
モモを読んだことは無かったのですが、私もペッポじいさんのお話を
聞いてみたくなりました。
「つぎの一歩のことだけ」今の私にとても必要な言葉です。
有難うございました。
柔らかくて温かみのある土地の言葉っていいですね。
残って欲しいと思います。
私の研修で「モモ」を課題図書にしてもう30年になります。カウンセリングの
学びでは、「主人公『モモ』が、どうしてあのように人の話が聴けたのか?」と
いうところに視点を置いていました。なので。ともすれば「ペッポじいさん」の
件の言葉はあまり重要視していませんでした。勿論、他にも大事なところが幾つ
もあります。一人で読むのも良いのですが、単なる読書に終わらせないようにと
いう私の思いです。
最近はもうパワー不足で長丁場の勉強会はスルーさせて頂くようになりました。
歳には勝てませぬねぇ。ではまた「折々のスケッチ」を楽しみにしております。
ごきげんよう。