昭和12年、船岡村に海軍火薬廠が進出するにあたり、65戸の移転、電信、電話
並びに送電線の移設、道路、排水路の付け替え、墓地の移葬等が行われた。
当時は何月何日まで移転しなければ、火を放って焼いてしまうという軍の命令が
あったらしく、移転者は慌ただしく移転した。
こういうことは現代ではとても考えられないことである。
当時、農業で生計を立てていた人達は小作人が多く、家屋の構造は萱葺きが多かった
ようで、時間の無いまま強制移転させられたということである。
(柴田町史 通史編2)
明治時代になって船岡の飯淵家の墓地公園となり、大正時代から昭和初期にはいろいろな
樹木が植えられ、回遊して楽しめる散策路として紹介されている。
当時は中腹に墓守の家があったと伝えられている。
火薬廠本部(現・仙台大学)近くの山崎山公園の敷地は廠長・高等官の宿舎用として
火薬廠用地に接収されました。
墓地の移転先は角田市神次郎の日蓮宗・法光山妙立寺です。飯淵七三郎の大きな墓石他
多くの飯淵家の墓石が移転されました。慌ただしく移葬したせいか、数基の墓石が
山崎山公園に残りました。