蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

精神分析現象学ゲシュタルト 4

2022年05月23日 | 小説
(2022年5月23日)Merleau-Pontyの知覚の現象学(Phénoménologie de perception)、その主唱する中身が出揃った。彼は現象(phénomène、自然)と知覚(perception、人側)を峻別している。現象側の構造を見ると;
場(espace)にはモノ(chose)が充満し、モノは特性(qualité)を具有する。特性は方向性(sens現れ)を発信する。方向性はモノそれぞれの発信の仕方を見せるも、全体としてまとまりがある。場は目の前の空間と理解すればよろしい、空域時域に限定を受ける瞬時性の空間であり、これらの一連が « apparences » 表出であり場に宿り構造性を形成する。これを して« phénomène » 現象という。
現象を見据える側、人の « perception » 知覚は何をしているのか。
人はモノを吟味する(視覚、嗅覚などの五感)、モノから表出する方向性(sens)を感じ取って自己の内に取り込む(imaginaire)。Merleau-Pontyによると受け止め(favorable)と拒絶(défavorable)に分かれたりする。家宅の絨毯を選ぶときに人は暗い色合いを選ばない、その色が感情を落ち込ませてしまうからとの例をあげる。これが知覚であり、モノを吟味するとはそのモノの存在を、現れを通して自己に再現することである。自己再現にいたるまでの精神作用を導引、conduiteとする。
<Une qualité comme le mielleux ― et c’est ce qui la rend capable de symboliser toute une conduite humaine ― ne se comprend que par le débat qu’elle établit entre moi comme sujet incarné et objet extérieur qui est le porteur ; il n’y a de cette qualité qu’une définition humaine>
訳:(前文で蜂蜜を例に挙げ、手で掴むとヌルとした感触を得るとして)この蜂蜜の特性がそれ(la、前文にある人の手)に(蜂蜜であるとの意識)をシンボル化させしめるのである。生身の主体である自己(知覚)と外部の方向性を持つ対象(現象)との間のやり取りはかくあると疑いようはない、特性とは人が(方向性を通じて)規定するものなのだ。
以上がMerleau-Ponty がCauserieで解説した知覚の現象学となる。
知覚とは;
五感を用いて対象物を吟味して、特質から発せられる方向性を理性で統合する。するとconduite導引の作用で精神に対象のimaginaireが宿る。かくして現象と知覚の結合が成就する。
ここでラカンの批判に戻ると(以下3箇条は18日の再掲なので後半省略);
1 現象学はゲシュタルト…
2 形態(=自然)を知覚するperceptionなる機能は単なる思いこみ…
3 人が世界を自身に構築する作業は積み重ね…
ラカンによると現象側、場はモノを含みそれらは「bonne forme正しい形」を常に形成する。なぜならあるがままの形は必ず場に形成されるのであって、その必然形態が人に覚知される(場の瞬時性をこのように理解した)。
モノには特質が付属し刺激を放出する。これらの現象作用はゲシュタルトが言うところの自然構造である。ゲシュタルト思考では場の構造性は「主体」である。ヒトがその存在を知らなくても場には形体の構造、規則性、恒常性が存在する。無意識の判断、錯誤を標榜するゲシュタルト心理学では特に顕著。
Merleau-Pontyによると現象を覚知する作業は « synthèse intellectuelle » 知的統合であり、人が知覚しない限りその場espaceのモノに特質(qualité)は発現しないから存在しない 。すると場をl’unitéとして一体化するphénomèneも発生しない―と教える。場は物理的には存在する主体であっても、それが包有するphénomène現象はヒトが「既見したimaginaire(画像=Hyppoliteの規定)の客体としてのみ存在する」のである。
(Gestaltがだんだん近づくと前述(20日投稿の最終文節)したが、« synthèse intellectuelle »で大逆転した。Gestalt現象学は別モノを宣言するこの語の意味づけ、その精緻さに部族民は感動を覚えた。知覚は人の思考の覚知作用に他ならない、知覚の現象学は分析的、形而上です)
場の「正しい形bonne forme=ラカンの用語」は人精神にのみ存在する。イヌの主体が人の頭にあると、ソシュールの意味論構造をひっくり返したレヴィストロースの論説と通じる。
現象と知覚の交流をMerleau-Pontyは « débats » 論争とする。特質の方向性を吟味し « imaginaire »を汲み出そうとするヒトの思弁活動を言い換えた換喩と読め、名句であると熱烈評価したい(哲学者は時たまこのように破格の表現を試みるものだ)。


Octave Mannoni 精神分析医 1923Lamotte-Beuvron~98年Paris。写真は壮年期、セミナー参加時で31歳。ネットから


ラカンはperceptionには、ヒトが外界を統合する能力は無いとする。« Débats » に対するラカンの言葉は « contemplation, échange » 。精神内に経時に流れる経験を貯め込み共時に統合する。これが深層心理を形成する。直感的 « débats » に対して沈潜して複層化を目指す語感との対比は明確である。ラカンの思弁性が批判3の「瞬時の直感」では現象は「知覚」できない(批判の2)―につながる。
ラカンとMerleau-Pontyの違いは外界を認識する作業の異なりに絞れる。それを経験の空想的 « imagination » 累層(ラカン)と言うか、空間構造性の知的統合(Merleau-Ponty)とするか。認識とは個人体験の経時累層(精神分析)なのか、瞬時直感の単層導引(現象学)であるのか。はたまた記憶の積み上げか瞬時認識か、この差異にまとまる。
精神分析はゲシュタルトと世界観、認識で大いに離反している。それを非分析的と非難するラカン思いこみが勢い余って、やはり精神分析とは異なる認識論を主張する現象学をその派生と判断して、論が走ってしまったのではないか。たしかにその文脈にはモノを主体とするかに受け止められる論考がうかがえる。部族民は « synthèse intellectuelle »知的統合を理解する鍵の語と採り、ラカンには « la pensée en eux de structures solides » 「強固な構造がそれら(自然)に内蔵される思想」が引っかかった。のではないかと思う次第です。
しかしここでセミナーは暗転する。Mannoniが切り口も鋭い一閃の指摘をラカンに投げかける、
精神分析現象学ゲシュタルト 4の了(2022年5月23日)
コメント
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