(2022年6月22日)ラカン先生が自ら持ち込んだ論議の種は; « Il y a, sur le plan de l’intuition, quelque discordance entre le principe du plaisir ainsi défini et ce que ça évoque le plaisir » かように解釈する快楽原理と、快楽が導くところの何かとの、不整合が認められる、直感ではあるが。
直感と訳したが直観(認識性がある)はより近い。欲望とは快楽を求めるためにあって、それを実行するよう行動を律する機能を持つ。快楽を閉じるために人を動かしてはいない―との人の直観と循環弁証法説は相容れない仕組みをラカンが自問している。
フロイトの曖昧な説明が混乱を招いた。<Chacun court après chacune> それぞれが自身の解釈(interprétation、女性形)を追い求める状況になった。緊張の最低位に立ち戻る自説の循環弁証法を否定するかに受ける。こんな文が飛び出した。<Freud n’a-t-il pas introduit après tout la fonction de la libido dans le comportement humain ?> フロイトは何よりも先んじてリビドーの機能を人行動に当てたのではなかったか。
否定疑問文なので「人行動に当てた」肯定として解釈するのが正しい。すると行動 « comportement » の意味が理解の鍵となる。この語は個々の単一の行動を意味するのではなく反応の総体 « ensemble des réactions » (Robert) を言う(行動主義心理学派の解釈、らしい)。すると「リビドーは(性行動のみならず)人の反応総体」を支配する内的起動因となる。<Ne serait-elle pas, cette libido, quelque chose d’assez libidineux ?> ここでのリビドーはよりリビドー的な何かであって然るべきだろう(106頁)。
フロイトはリビドーを性衝動とした。それを拡大し人の衝動反応の総体とするラカンのこの説明はJungを彷彿させる。このラカンの「フロイト拡大解釈」は注目です。続いて、
写真はセミナーXVII 表紙写真は1968年5月の学生騒乱の指導者Daniel Cohn-Bendit が警備のgendarme(軍警察)を嘲笑している姿。この切り取り状況がなぜ採用されたかは不明。編集者Milerは当時24歳(1944年生)、5月騒乱に参加した思い出を残したかったのか。
<Vous voyez que le versant de la théorie va ici en sens strictement contraire de l’intuition subjective―dans le principe du plaisir , le plaisir, par définition, tend à sa fin. Le principe du plaisir, c’est que le plaisir cesse>(107頁)
訳:フロイト説が示す処がここにおいて主体的直観とは正反対に向かうを知ることとなる。快楽の原理における快楽は、その規定からして終局を目指す。快楽の原理とは快楽を終焉に向かわしめる働きをしているのじゃ。
と自らの問を自答した。
さて、
Hyppolite指摘は「原理を打ち立て、その原理が他に影響を与えるとフロイトに書かれている(ダーウインにも通じる所がある)」。その主たる原理が快楽の原理。これまでのラカン説明からそれを纏めると
1 快楽を得て神経系が活性化すると活性の最低値に戻る規則を持つ(循環弁証法と命名)
2 快楽を性衝動に限定しない、行動総体の発生と収束への起因となる
3 弁証法に支配されるが(性衝動だけではない)一般化と自発性が認められる。すると内から発露する感情 « affect » と共通する処がある(部族民解釈)
困った一点が浮かび上がる。快楽の原理に関連する« le principe de réalité » 現実の原理、こちらは欲望の即実行を阻む « Entrave, ajourner » 足かせ引き伸ばしを受け持つ、「活性の低位安定」が主たる機能である。ラカンはこの機能まで快楽原理に押し込んでいる。快楽原理が両方を統括するのであれば現実原理の立ち位置が見えなくなってしまう。
<Que devient dans cette perspective le principe de réalité> この視界の中で現実の原理はどんな位置を占めるのか(107頁)はラカンの自問。彼の説明は後回しにして、両の原理がフランス思想界、21世紀でどのように理解されているかを探ると。
<Le principe de plaisir constitue un des deux principes réagissant le fonctionnement mental : l’activité psychique, dans son ensemble, a pour but d’éviter le déplaisir et de procurer le plaisir>快楽の原理は精神を司る2の原理の1にして、苦痛を避け快楽を求める霊的活動である(Étude Psychanalytique, Larousse Encyclopédie 電子版)
ラカンが語る循環弁証法、活性と不活性を行ったり来たりの説明は一切見えない。では « réalité » については;
<Ce nouveau principe (= celui de réalitéのこと,フロイトが提唱したのは1911年 ) synthétise la capacité du sujet à prendre en compte les entraves à l’accomplissement de ses désirs qu’il rencontre dans le monde réel>この新らたな原理は個体の精神機能を統合する、現実世界で自らが湧きたてる欲望に足かせを当て引き伸ばす機能を受け持つ(ネット哲学サイト1000idcg.com.découvrir les 5 secretsから) 。
両原理の説明を2の引用源に分けた。Plaisirの説明に引用したLarousse電子版からréalitéを持ち出すと歯切れが悪い(理解出来ない)。一方1000idcgサイトはréalitéには行数が多いがplaisirに語を費やしていないが理由です。どうも2の原理を同時掲載すると一方が軟弱化してしまう怖れを避けたか、これは邪推です。2のサイトを用いて2説明を合体すると何故か筋が通る。その一本筋とは:
ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 3 了(6月22日、次回24日最終)
直感と訳したが直観(認識性がある)はより近い。欲望とは快楽を求めるためにあって、それを実行するよう行動を律する機能を持つ。快楽を閉じるために人を動かしてはいない―との人の直観と循環弁証法説は相容れない仕組みをラカンが自問している。
フロイトの曖昧な説明が混乱を招いた。<Chacun court après chacune> それぞれが自身の解釈(interprétation、女性形)を追い求める状況になった。緊張の最低位に立ち戻る自説の循環弁証法を否定するかに受ける。こんな文が飛び出した。<Freud n’a-t-il pas introduit après tout la fonction de la libido dans le comportement humain ?> フロイトは何よりも先んじてリビドーの機能を人行動に当てたのではなかったか。
否定疑問文なので「人行動に当てた」肯定として解釈するのが正しい。すると行動 « comportement » の意味が理解の鍵となる。この語は個々の単一の行動を意味するのではなく反応の総体 « ensemble des réactions » (Robert) を言う(行動主義心理学派の解釈、らしい)。すると「リビドーは(性行動のみならず)人の反応総体」を支配する内的起動因となる。<Ne serait-elle pas, cette libido, quelque chose d’assez libidineux ?> ここでのリビドーはよりリビドー的な何かであって然るべきだろう(106頁)。
フロイトはリビドーを性衝動とした。それを拡大し人の衝動反応の総体とするラカンのこの説明はJungを彷彿させる。このラカンの「フロイト拡大解釈」は注目です。続いて、
写真はセミナーXVII 表紙写真は1968年5月の学生騒乱の指導者Daniel Cohn-Bendit が警備のgendarme(軍警察)を嘲笑している姿。この切り取り状況がなぜ採用されたかは不明。編集者Milerは当時24歳(1944年生)、5月騒乱に参加した思い出を残したかったのか。
<Vous voyez que le versant de la théorie va ici en sens strictement contraire de l’intuition subjective―dans le principe du plaisir , le plaisir, par définition, tend à sa fin. Le principe du plaisir, c’est que le plaisir cesse>(107頁)
訳:フロイト説が示す処がここにおいて主体的直観とは正反対に向かうを知ることとなる。快楽の原理における快楽は、その規定からして終局を目指す。快楽の原理とは快楽を終焉に向かわしめる働きをしているのじゃ。
と自らの問を自答した。
さて、
Hyppolite指摘は「原理を打ち立て、その原理が他に影響を与えるとフロイトに書かれている(ダーウインにも通じる所がある)」。その主たる原理が快楽の原理。これまでのラカン説明からそれを纏めると
1 快楽を得て神経系が活性化すると活性の最低値に戻る規則を持つ(循環弁証法と命名)
2 快楽を性衝動に限定しない、行動総体の発生と収束への起因となる
3 弁証法に支配されるが(性衝動だけではない)一般化と自発性が認められる。すると内から発露する感情 « affect » と共通する処がある(部族民解釈)
困った一点が浮かび上がる。快楽の原理に関連する« le principe de réalité » 現実の原理、こちらは欲望の即実行を阻む « Entrave, ajourner » 足かせ引き伸ばしを受け持つ、「活性の低位安定」が主たる機能である。ラカンはこの機能まで快楽原理に押し込んでいる。快楽原理が両方を統括するのであれば現実原理の立ち位置が見えなくなってしまう。
<Que devient dans cette perspective le principe de réalité> この視界の中で現実の原理はどんな位置を占めるのか(107頁)はラカンの自問。彼の説明は後回しにして、両の原理がフランス思想界、21世紀でどのように理解されているかを探ると。
<Le principe de plaisir constitue un des deux principes réagissant le fonctionnement mental : l’activité psychique, dans son ensemble, a pour but d’éviter le déplaisir et de procurer le plaisir>快楽の原理は精神を司る2の原理の1にして、苦痛を避け快楽を求める霊的活動である(Étude Psychanalytique, Larousse Encyclopédie 電子版)
ラカンが語る循環弁証法、活性と不活性を行ったり来たりの説明は一切見えない。では « réalité » については;
<Ce nouveau principe (= celui de réalitéのこと,フロイトが提唱したのは1911年 ) synthétise la capacité du sujet à prendre en compte les entraves à l’accomplissement de ses désirs qu’il rencontre dans le monde réel>この新らたな原理は個体の精神機能を統合する、現実世界で自らが湧きたてる欲望に足かせを当て引き伸ばす機能を受け持つ(ネット哲学サイト1000idcg.com.découvrir les 5 secretsから) 。
両原理の説明を2の引用源に分けた。Plaisirの説明に引用したLarousse電子版からréalitéを持ち出すと歯切れが悪い(理解出来ない)。一方1000idcgサイトはréalitéには行数が多いがplaisirに語を費やしていないが理由です。どうも2の原理を同時掲載すると一方が軟弱化してしまう怖れを避けたか、これは邪推です。2のサイトを用いて2説明を合体すると何故か筋が通る。その一本筋とは:
ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し 3 了(6月22日、次回24日最終)