2025年初めての投稿となります(2025年1月9日)
皆様には、2024年を通して当ブログ、同期するYoutube、ホームページへのご訪問に深く感謝。本年もご訪問、コメントで部族民を叱咤激励してください(部族民通信)。
本年の初投稿、堅苦しくない話題を。精神分析ラカンとHyppolite(哲学、昨年の部族民ブログでヘーゲル著作の紹介者として採りあげています)のやり取りです。
Jaque Lacan (精神分析医、以下ラカン) 彼の紹介はWikipediaを丸ごと引用する:
ジャック=マリー=エミール・ラカン 1901年~81年フランスパリ、哲学者、精神科医、精神分析家。 初期には、フランスの構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持った精神分析家として知られていた。 中期では、フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を荷った。 後期では、フロイトの大義派を立ち上げた。
セミナーではラカン節が炸裂
付け加えるとパリ・サンタンヌ病院(神経内科の専門施設)の精神分析医長。公開セミナーを開催した(1950~70年代)。一般人も自由に傍聴できた、一時100名をこす参加傍聴もあって、大変に盛況だった。セミナー会場は当初はサンタンヌ病院会議室、後に(参加者が増えたので)高等師範学校 (Ecole normale supérieure) 階段教室に移った。このときに同校哲学教授を勤めていたのはJean Hyppolite。施設貸出を許可した当人で、かつフロイトにも関心を寄せていたのでセミナーには足繁く通った。
パリのサンタンヌ病院
ラカンは著述を残していない、公開セミナーは速記録(速タイプ)が残されていた。弟子のアラン・ミレールの編纂で1970年代から出版された(全19巻あるらしい、邦訳では5を越すほどか)。
以下の引用はラカン・セミナー第2巻 91~92頁から。
話がヘーゲルに飛んだ。
ラカン「彼の著作の「精神」=精神現象学=は傑作中の傑作と思うのだが」
イポリット「君が傑作をどのように定義するのかによる」
ラ「私はよく考えている、その定義の説明は後にして、それ(精神現象学)はどの辺りを主張するのか教えてくれないか」
イ「私を(ヘーゲルの)宣伝員と思ったら困る、ヘーゲルの代行になったことなどと思っていない。どちらかと言うとその反対だね。」
ラ「それはよく理解しているよ、それでも君は私よりヘーゲル専門家なのだから、彼の諸作品が私の主張に沿うのか、全く反対かどうかは指摘できる=中略=結局、絶対知(Savoir absolu)ですよね、ヘーゲルはそこから抜け出ていない。弁証法悟性があって、それが絶対知につながる。そう書かれている」
(ラカンはヘーゲルをちゃんと知っているのだ。単なる「減らず口」なんて評価したらラカン、間違えたアカン。哲学素養満載の口達者なのだ)
Hyppoliteは立ち上がっておもむろに、しかしラカンのセミナーなので長い時間は取れない、簡潔に、そして核心どころ、一口舌した。それが以下;
M. HYPPOLITE : — Oui, mais on peut interpréter Hegel. On peut se demander s'il y a un moment, dans la suite de l'expérience, qui apparaît comme le savoir absolu, ou bien si le savoir absolu est dans la présentation totale de l’expérience ? C'est-à-dire — est-ce que nous sommes toujours et en tout temps dans le savoir absolu ? Ou bien le savoir absolu est-il un moment ? Est-ce que, dans la Phénoménologie, il y a une série d'étapes qui sont antérieures au savoir absolu, puis une étape finale à laquelle arrive Napoléon, n'importe qui, etc.,
了解、しかしヘーゲルは多様に解釈されている。経験の流れのなかで、それが絶対知に思える一時はありうる。あるいは経験全ての表現が絶対知なのか。言い換えると我々は常に、いつも絶対知の中にいるのか?それともそれは一瞬の時なのか。現象学の中では絶対知に先立つ一連の段階を説明している。その最終段階にナポレオンが登場する、絶対精神のかのごとく。ナポレオン以外でも良いのだが。
(ナポレオンのイエナ入城に居合わせ、目撃したヘーゲルが「世界精神が馬に乗っている」と感興を語っている。絶対知を世界精神と言い換え、それはモノ世界に存在して、それに値する英雄に憑依したとヘーゲルが感動した。こう=部族民は=理解、オットまた間違い、解釈する)
イエナに凱旋するナポレオンとヘーゲル、抱えている書類は精神現象学の草稿。これを手に戦乱から逃げ回ったとも伝わる(写真はいずれもネット採取)
Hyppolite、ラカンに哲学を教える 上 の了 (1月9日)
皆様には、2024年を通して当ブログ、同期するYoutube、ホームページへのご訪問に深く感謝。本年もご訪問、コメントで部族民を叱咤激励してください(部族民通信)。
本年の初投稿、堅苦しくない話題を。精神分析ラカンとHyppolite(哲学、昨年の部族民ブログでヘーゲル著作の紹介者として採りあげています)のやり取りです。
Jaque Lacan (精神分析医、以下ラカン) 彼の紹介はWikipediaを丸ごと引用する:
ジャック=マリー=エミール・ラカン 1901年~81年フランスパリ、哲学者、精神科医、精神分析家。 初期には、フランスの構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持った精神分析家として知られていた。 中期では、フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を荷った。 後期では、フロイトの大義派を立ち上げた。
セミナーではラカン節が炸裂
付け加えるとパリ・サンタンヌ病院(神経内科の専門施設)の精神分析医長。公開セミナーを開催した(1950~70年代)。一般人も自由に傍聴できた、一時100名をこす参加傍聴もあって、大変に盛況だった。セミナー会場は当初はサンタンヌ病院会議室、後に(参加者が増えたので)高等師範学校 (Ecole normale supérieure) 階段教室に移った。このときに同校哲学教授を勤めていたのはJean Hyppolite。施設貸出を許可した当人で、かつフロイトにも関心を寄せていたのでセミナーには足繁く通った。
パリのサンタンヌ病院
ラカンは著述を残していない、公開セミナーは速記録(速タイプ)が残されていた。弟子のアラン・ミレールの編纂で1970年代から出版された(全19巻あるらしい、邦訳では5を越すほどか)。
以下の引用はラカン・セミナー第2巻 91~92頁から。
話がヘーゲルに飛んだ。
ラカン「彼の著作の「精神」=精神現象学=は傑作中の傑作と思うのだが」
イポリット「君が傑作をどのように定義するのかによる」
ラ「私はよく考えている、その定義の説明は後にして、それ(精神現象学)はどの辺りを主張するのか教えてくれないか」
イ「私を(ヘーゲルの)宣伝員と思ったら困る、ヘーゲルの代行になったことなどと思っていない。どちらかと言うとその反対だね。」
ラ「それはよく理解しているよ、それでも君は私よりヘーゲル専門家なのだから、彼の諸作品が私の主張に沿うのか、全く反対かどうかは指摘できる=中略=結局、絶対知(Savoir absolu)ですよね、ヘーゲルはそこから抜け出ていない。弁証法悟性があって、それが絶対知につながる。そう書かれている」
(ラカンはヘーゲルをちゃんと知っているのだ。単なる「減らず口」なんて評価したらラカン、間違えたアカン。哲学素養満載の口達者なのだ)
Hyppoliteは立ち上がっておもむろに、しかしラカンのセミナーなので長い時間は取れない、簡潔に、そして核心どころ、一口舌した。それが以下;
M. HYPPOLITE : — Oui, mais on peut interpréter Hegel. On peut se demander s'il y a un moment, dans la suite de l'expérience, qui apparaît comme le savoir absolu, ou bien si le savoir absolu est dans la présentation totale de l’expérience ? C'est-à-dire — est-ce que nous sommes toujours et en tout temps dans le savoir absolu ? Ou bien le savoir absolu est-il un moment ? Est-ce que, dans la Phénoménologie, il y a une série d'étapes qui sont antérieures au savoir absolu, puis une étape finale à laquelle arrive Napoléon, n'importe qui, etc.,
了解、しかしヘーゲルは多様に解釈されている。経験の流れのなかで、それが絶対知に思える一時はありうる。あるいは経験全ての表現が絶対知なのか。言い換えると我々は常に、いつも絶対知の中にいるのか?それともそれは一瞬の時なのか。現象学の中では絶対知に先立つ一連の段階を説明している。その最終段階にナポレオンが登場する、絶対精神のかのごとく。ナポレオン以外でも良いのだが。
(ナポレオンのイエナ入城に居合わせ、目撃したヘーゲルが「世界精神が馬に乗っている」と感興を語っている。絶対知を世界精神と言い換え、それはモノ世界に存在して、それに値する英雄に憑依したとヘーゲルが感動した。こう=部族民は=理解、オットまた間違い、解釈する)
イエナに凱旋するナポレオンとヘーゲル、抱えている書類は精神現象学の草稿。これを手に戦乱から逃げ回ったとも伝わる(写真はいずれもネット採取)
Hyppolite、ラカンに哲学を教える 上 の了 (1月9日)
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