「おせっかい焼き」様へは、この場をお借りいたしまして、改めまして御礼申し上げる所存です。
さる、八月に横須賀鎮守府公報が一般公開されております。
兵曹長以上の辞令が人々の目に触れる運びとなりました。
「くだまき」はその記録も大事にしたいところです。
そうした事も意識いたしております。
ここに祖父辞令を公開させていただきました。
ここで、また、お詫び並びに訂正をさせて頂きます。
以前、鶴岡八幡宮での家族写真を公開させておりますが、これが昭和18年正月の物。
酔漢は「東京通信隊所属」といたしておりますが、この辞令が昭和18年10月の物です。
ですから、昭和18年正月時点で、祖父はそのまま横須賀鎮守府にいた。これが事実。
改めて、訂正させていただきます。
この辞令で、また一つ祖父の足跡が見つかりました。先の、第二艦隊付辞令と合わせてみますと一つの事が解りました。
第二艦隊が大和座乗となり通信施設が増えております。
レイテ後、大和お修理を優先させた伊藤整一第二艦隊司令長官は、通信室の増設を海軍へ依頼しております。
その場所が右舷上甲板のどこか。
レイテ以降の詳細な大和図面が存在せず、その場所を特定することはできませんが、本来ある大和通信室、暗号室とは別にもう一つの通信室が存在しております。
「坊ノ岬沖」戦闘の最中、右舷上甲板の損傷はあまりひどくはありません。
ですが、通信に携わった方の生還者は非常に少なく、「渡辺光男」さんしか、酔漢も記憶がございません。(戦闘中、艦橋におられました。貴重な証言も残されておられます)
祖父の上司に「山形安吉少佐」(宮城県仙台市ご出身)がおられますが、あの「海軍乙事件」(古賀連合艦隊司令長官遭難、暗号書紛失事件)の際、掌通信長でおられました。
その山形大佐の指揮の元、第二艦隊通信室があったと推察しております。
艦最期「総員最上甲板」が下令されても、通信室、暗号室には施錠。艦と運命を共にすることが、最後の任となります。
機関科員、暗号員、そして、御真影移設等、やはり艦と共に運命を共にするのがその使命だったのです。
おそらく、祖父は(この部屋にいたという前提であれば)傾いた艦の中で暗号書を整理している最中に命を落としたのではないか。
こう推察しております。
(この件、何かご存知の方がもしおられましたら、是非ともご教授をいただきたい所存でございます)
この辞令にもやはり「鈴木藤二郎」兵曹長の名がございます。
第二艦隊辞令でもご一緒ですし、大和と共に亡くなられておられます。
横須賀鎮守府、東京通信隊、そして第二艦隊司令部と、祖父とワンセットの辞令となります。
岩手県のご出身でいらっしゃいます。
ご家族を知る術もございませんが、(過去、大和会名簿を紐解きましても、ご遺族のお名前は見つかりませんでした)祖父とおそらく机を並べていた間柄ではなかったか。
この辞令を拝見し、斯様に思った次第です。
重ね重ね、父存命であれば知らせる事ができた事実。
残念でなりません。
父が一番知りたがった事だったと思うのです。
幸い、祖父の辞令公報は公開されておりますが、兵曹長以下の辞令は見つけるのが困難です。
ご遺族の中には、その足取りを見つけたい。こう思われていらっしゃる方々が大勢いらっしゃると思います。
家族の足取りは、やはり確かめておきたい。
それが、出来ない先の大戦での戦没者がどれだけおられますでしょうか。
祖父墓碑に参ずるとき、必ず心の中でその思いを言葉にする酔漢でございます。
敬老の日が近い今日。
FMを聴きながら、ふとそんな事を思い出しました。
さる、八月に横須賀鎮守府公報が一般公開されております。
兵曹長以上の辞令が人々の目に触れる運びとなりました。
「くだまき」はその記録も大事にしたいところです。
そうした事も意識いたしております。
ここに祖父辞令を公開させていただきました。
ここで、また、お詫び並びに訂正をさせて頂きます。
以前、鶴岡八幡宮での家族写真を公開させておりますが、これが昭和18年正月の物。
酔漢は「東京通信隊所属」といたしておりますが、この辞令が昭和18年10月の物です。
ですから、昭和18年正月時点で、祖父はそのまま横須賀鎮守府にいた。これが事実。
改めて、訂正させていただきます。
この辞令で、また一つ祖父の足跡が見つかりました。先の、第二艦隊付辞令と合わせてみますと一つの事が解りました。
第二艦隊が大和座乗となり通信施設が増えております。
レイテ後、大和お修理を優先させた伊藤整一第二艦隊司令長官は、通信室の増設を海軍へ依頼しております。
その場所が右舷上甲板のどこか。
レイテ以降の詳細な大和図面が存在せず、その場所を特定することはできませんが、本来ある大和通信室、暗号室とは別にもう一つの通信室が存在しております。
「坊ノ岬沖」戦闘の最中、右舷上甲板の損傷はあまりひどくはありません。
ですが、通信に携わった方の生還者は非常に少なく、「渡辺光男」さんしか、酔漢も記憶がございません。(戦闘中、艦橋におられました。貴重な証言も残されておられます)
祖父の上司に「山形安吉少佐」(宮城県仙台市ご出身)がおられますが、あの「海軍乙事件」(古賀連合艦隊司令長官遭難、暗号書紛失事件)の際、掌通信長でおられました。
その山形大佐の指揮の元、第二艦隊通信室があったと推察しております。
艦最期「総員最上甲板」が下令されても、通信室、暗号室には施錠。艦と運命を共にすることが、最後の任となります。
機関科員、暗号員、そして、御真影移設等、やはり艦と共に運命を共にするのがその使命だったのです。
おそらく、祖父は(この部屋にいたという前提であれば)傾いた艦の中で暗号書を整理している最中に命を落としたのではないか。
こう推察しております。
(この件、何かご存知の方がもしおられましたら、是非ともご教授をいただきたい所存でございます)
この辞令にもやはり「鈴木藤二郎」兵曹長の名がございます。
第二艦隊辞令でもご一緒ですし、大和と共に亡くなられておられます。
横須賀鎮守府、東京通信隊、そして第二艦隊司令部と、祖父とワンセットの辞令となります。
岩手県のご出身でいらっしゃいます。
ご家族を知る術もございませんが、(過去、大和会名簿を紐解きましても、ご遺族のお名前は見つかりませんでした)祖父とおそらく机を並べていた間柄ではなかったか。
この辞令を拝見し、斯様に思った次第です。
重ね重ね、父存命であれば知らせる事ができた事実。
残念でなりません。
父が一番知りたがった事だったと思うのです。
幸い、祖父の辞令公報は公開されておりますが、兵曹長以下の辞令は見つけるのが困難です。
ご遺族の中には、その足取りを見つけたい。こう思われていらっしゃる方々が大勢いらっしゃると思います。
家族の足取りは、やはり確かめておきたい。
それが、出来ない先の大戦での戦没者がどれだけおられますでしょうか。
祖父墓碑に参ずるとき、必ず心の中でその思いを言葉にする酔漢でございます。
敬老の日が近い今日。
FMを聴きながら、ふとそんな事を思い出しました。
一つの艦内でもその配置や部署によって生死が大きく分かれるその苛酷さを思います。
酔漢さんのご祖父さま、いかなる最期を遂げられ、その時何を思われたのか。
それを考えるときなんだか言いようのない感情に襲われることが多々あります。
艦の大きさがそのまま悲劇の大きさに直結してしまうというのがなんとも・・・。
これが手元に来ましたら、新しい情報も公開するつもりでおります。
暗号の部署にいた方のご生還者は皆無。
ですが、少尉候補生で退艦された方が、祖父を憶えていて下さり「東北訛りの士官」で有名だったと話してくださいました。本当は言っている事が解らなかった?と思っております(笑)
貴重な資料ですね。
これは酔漢さんも嬉しかったのでは?
こればかりはしかたありません。
ですが、史料として整理することも必要かと思っております。