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酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

夏休みに・・塩竈雑景 

2008-08-21 10:51:45 | もっとくだまきな話
街の中から、何となく「魚臭い」感じがなくなっているような気がいたしました。
「新かし川」は道路の下ですし、あちこちにありました「お魚屋さん」も少なくなっているように思えて来るのでした。
塩竈神社表参道に通じる道が整備されておりました。(現在も工事中)電信柱が地下化になって、なんでも歩道脇を水が流れるとか。「ここまでする必要があるのだろうか」と思いました。あの道は歩道が狭く、よく自転車と自動車の接触事故が多かったのが事実です。「歩道を広くとれないものか」と、何度も意見を上げておったはずです。ですが観光地用の歩道を、大金をかけて作るというのは。(塩竈市の財政を考慮しますと)
さて、今まで、塩竈の多くのところを語りました。現在そこがどのようになっているのか、見て見ましょうか。

「しんかし川河口」です。旧ジャスコ塩竈店のあった当たりです。僕らが小学生の頃よりは、きれいになっています。この岸壁には海苔養殖用の船やらたくさんの小型船が停泊してました。
「今日、かあちゃん遅いからっしゃ。こいずは半分晩ご飯にすんのっしゃ」
(小学校の頃「学校給食の話」より)
彼は、ここに停泊していた船で生活していたのでした。電気は、自家発電共同だったと思います。

「すげぇサイレンの音だべ。何かあったのかや」
「ジャスコ工事現場の方さぁ、救急車いっぺぃいっちゃ!行ってみっぺ」
(小学校の頃→「ジャスコな話」より)
ジャスコ工事現場で足場が崩れ車が下敷きに。死者も出ました。僕らは、この階段を一気に駆け下りて現場に向いました。
「北浜保育所」の前です。

僕らは事故現場を遠めで見ておりました。
この事故があった交差点から丁度事故現場に立ってジャスコを見ます。ジャスコ塩釜店は、解体されるまで、イオン系列店舗で一番古い建物でした。

塩竈二小体育館脇に「円満堂」のトラックが給食のコペパンを運んで来ました。廊下充に焼きたてパンの香が充満するのでした。
(小学校の頃→「学校給食とパテシエ」)
現本塩釜駅前にあります。店舗とマンションのあるビルです。唯一看板が残っておりまして「円満堂」の文字が。今ではパン屋さんではないのですが。「仙台ケンゾー」のパテシエは、この「円満堂」のご子息でいらっしゃいました。
青葉通りの「ケンゾー」を見て学校給食を思い出します。

旧本塩釜駅前です。ちょうど「恐怖の歩道橋?」のあったところです。以前はこの写真の左側から「しんかし川」の河口となりまして、ドブ川の上といった感じでした。松島観光へ来た方々が、一斉に「唖然」とするのでした。

「やまだや」健在!と言いたいのですが、自転車の数をご覧下さい。僕らの頃は自転車の止めるスペースがなくて、歩道に溢れかえっておりました。よく学校の問題にもなりました。ところが、お店の中から子供の声がいたしません。店もがらんとしておりました。

ですが、品揃えは変わっておりません!ここの品揃えは「駄菓子屋の王道」
宮城県内でも、「5指に入る規模(現在)ではないのではないか」と思っております。ぼくらの頃「おねぇさん」だった売場の人が「ばっぱ」になっておりました。

塩竈一の「バラ花火の品揃え」です。夏休み期間中限定!珍しい花火が多く置いてあります。国産「線香花火」ありました。
息子と少しばかり買い求めまして「いいか入るときには『もうしぃー』って言うんだ」と指導?いたしました。
その「やまだや」の通り反対側と言えば・・・・

塩竈市内の男の子は一度は入ったことのある「伊勢模型店」です。シティラビット君の話では「東北には模型専門店が少なくてNゲージを扱っている店は少ない」と言っておりました。中をご紹介できませんでしたが、次男(ガンプラ専門)もうなっておりました。今だ「ウォーターラインシリーズ」が充実しておりました。
僕らの頃はここの歩道も自転車で溢れているのが普通の景色でしたが・・。

さて、塩竈と言えば「仲卸市場」酔漢が立ち寄りますのは「遠藤水産」です。七ヶ浜からの近海魚専門のお店です。この時は「なめた」(夏場もここでは捕れるのです)「鱸」「ほうぼう」「あいなめ」(ねうっこ)など。「鱸」と「ほうぼう」を買いました。包丁?自分で捌きます。だれ魚屋の息子だおんなや。

塩竈の写真ではないのですが、丁度お昼時、父の好きな中華屋さんがございまして
「笠神」にございます(名前)「三嶋屋」に入りました。その店の前から写真を撮りました。まぁ旨い中華料理店です。この辺りも住宅地が増えました。
(この話題「くだまき」とは違いますが。クロンシュタット氏のご実家の近くでしょうか。ご要望により掲載いたしました)

夏休みも終わりに近づいております。
夏休みと言えば「ほらーな話」です。次回いよいよ語ります。お盆は過ぎましたが

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26 コメント

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釜平派「でした」 (丹治)
2008-09-02 08:50:58
学生だった頃、三十台前半までは釜平派でした。味噌ラーメンとキムチラーメンが旨かったです。

釜平は最初は東園寺のガード近く、酔漢さんゆかりの自転車やさんの隣ぐらいじゃなかったですか。小生が行くようになったのは、トーコーの向いにあった頃からです。本塩釜駅前に移ってからはよく行きました。

お店をやめてから、もう何年になるでしょうか。あのビルには「釜平」の看板がまだあるだけに、思い出してしまいます。残念でなりません。

確かに四十台になってから、ラーメンの好みは変ったかもしれません。こってり系のやつも好きなんですが、いわゆる「ラーメン」の味が恋しくなりました。
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ラーメンは (酔漢です )
2008-09-02 07:38:18
二人で語りましたら、話題は尽きませんヨネ。
あちこち食べましたなぁ。
でも、丹治様は結構「釜平」派かと思っておりました。
「来々軒」は今でも、立ち寄ります。
「チャーシューメンと炒飯」です。しっかり腹空かせてから、気合を入れて、開店と同時に入ります!
返信する
横須賀食堂系ですか・・・ (丹治)
2008-09-01 10:20:39
酔漢さんへ

仲間内の研究会が、やっと終りました。このブログはちょこちょこ拝見してたのですが、なかなか投稿できなかったのはそういう訳です。

小生学会で上京する時は、時間を作って必ず横須賀を訪ねることにしております(口の悪い知合いに言わせると、「ハマを通り越してスカに行くのは丹治ぐらい」なんだそうですが)。あの手の食堂は、横須賀食堂系というのですか。どうりで横須賀駅前の食堂(「レストラン」でなくて「食堂」です)に入ってラーメンを食べた時、店の雰囲気といいラーメンの味といい初めて入った気がしなかったはずです)。

映画館や本屋が多いのは、確かに港町の特徴かもしれませんね。稲荷下の踏切(「開かずの踏切」でしたね。陸前山王から港駅までの貨物線、機関車はC12型だったそうです)から港橋までで、小生が覚えてるだけでも床屋が四軒、本屋が二軒(貞山書店は区画整理でなくなりましたが、嶋屋書店は健在です)、ラーメンを出す食堂が二~三軒はあったと思います。

いわゆる町の本屋さんには、古い本が残っていることがままあるので、大きくなってからもよく行きました。貞山書店の御主人は元予科練生だったそうで(そのようなことは一言も仰いませんでした)、小生が戦争関係の本を読んでいるのを見て『アーロン捕虜収容所』を教えてくれました。我が家の近くではありませんが、浦霞のとこに石山書店もありましたね。

映画館も確かに多かったですね。我が家の近くに東宝パール。三船敏郎主演の『日本海代海戦』や『風林火山』、藤田進主演の『加藤隼戦闘隊』を観たのは、この映画館です。閉館直前の無料開放では『ナバロンの要塞』をやってました。パールは飲食店が入る雑居ビルになったのですが、オープン前夜に火事で焼けてしまったことはよく覚えてます。

稲荷下には松竹がありましたね。東映は最後は西塩釜駅前にありましたが、小さかった時の記憶を辿れば本町の商店街かその近くにあったと思います(本町、西町など、あの一帯を、小島町や港町の住人はただ単に「町」と呼んでおりました)。

西塩釜駅前の東映は塩竈で最後まで残った映画館、しかも封切館でなくて二番館だったから、いろんな映画が来て面白かったですね。東映まんが祭(『にんぎょ姫』には涙しました)から『風の谷のナウシカ』まで色々観に行きました)。

東園寺のガード(高架橋でなくてガード)をくぐって稲村耳鼻科の前を浦霞の方に曲った所には、日活がありました。大学に入ったら昼日中から大手を振って見に行こうと思ってたのですが、小生の大学合格の少し前に閉館してしまったことが今でも心残りです。

クロンシュタットさんへ

港橋はよく覚えております。あの鉄道の可動橋ですが、橋の道幅拡張に伴って撤去されました(多分、御存知だとは思いますが)。技術史的にも貴重な資料だったのに、「保存する」という発想が当局にはなかったんでしょうか(鉄道の引込み線がなくなれば、確かに無用の長物なんでしょうけど)。青森駅連絡線桟橋の可動橋が八甲田丸と共に保存されているのを見るにつけ、残念でなりません。

六花さんへ

いわゆる「昔のラーメン」が食べたくなった時は、今でも来々軒に行きます。海岸通(我家の大人たちは「河岸前」って言ってました)の金富士も健在です。あと、昔トーコーがあったとこの国道をはさんで向い側、東華も知る人ぞ知る店です。

色々な御当地ラーメンや味噌ラーメン、豚骨ラーメンなどこってり系のラーメンがはやるのはいいんですが、昔風のラーメンが霞みがちなのは残念です。豚骨ラーメンの影響でしょうか、チャーシューも紙みたいに薄ーーーーーーーく切ったのをこれまた柔かーーーーーーーく煮込んだのが目立つようになりましたね。昔みたいに赤身の肉で歯ごたえのしっかりしたチャーシューが懐かしくてたまりません。今の御時世、さすがに「食紅で真っ赤に縁取りせい」とまでは言いませんが・・・

こってりしたのや辛いのも好きなことは好きですが、やはり飽きが来ないのは昔ながらのラーメンです。


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やはりお隣にいらっしゃいました? (酔漢です )
2008-08-29 23:46:43
六花様へ
来々軒は、店内撮影禁止です。マスコミの取材には一切応じていない様です。今のお店以前のお店には、あの怪しい歩道橋を渡らなければなりませんでした。(旧本塩釜駅方面から)ここは、帰る度に寄ります。沖津耳鼻科にも通いましたし、金物と言えば青木で、もう地域一番。
ご主人も、酔漢の隣にいらしたのかも・・。
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どなたとも。。。 (酔漢です )
2008-08-29 23:38:13
クロンシュタット様へ
返事、遅れまして申し訳ございませんでした。
今週、休みが取れずにおりまして、更新もままなりません。
こちらに来て、仕事柄、営業ご担当者様とはお話する機会が何度かありまして、青山にあります塩竈本社のかまぼこ屋さんとは、冬の企画を一緒にやったことがございます。他はこれといいました方々とお会いする機会はなかったように思います。
それと・・・本当に別の町になってしまったような気がいたします。塩竈の商店街は、やはり人通りが、かなり少なくなっているようで、昔の賑わいが懐かしいです。
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70年代の塩釜 (六花)
2008-08-29 10:52:32
遅ればせながら、皆さんやっぱり昔の塩釜の話は語りつくせないですね~
私も時々連れられて行ったので思い出深いです。
活気あった旧本塩釜駅界隈…私は渡辺眼科や沖津耳鼻科や小山皮膚科の帰りに
今野屋、よこたや、青木金物店、菅原大正堂、トーコーなど行くのが楽しみでした。
ジャスコ('74~'07)ができた頃はうれしくて友達とサンリオ目当てによく行きました。
ちなみにだんなは塩釜といえば、やっぱり伊勢模型と来々軒が一番の思い出だそうです。
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仙台のかまぼこはほんとは塩竃産 (クロンシュタット)
2008-08-26 06:33:22
私も以前勤めていた会社で、たまたま塩竃の水産加工会社と付き合いがありました。
その際、親父のことを話題にしたら、「やっぱり息子さんでしたかー」。
塩竃の水産加工会社は、ほぼ全て、親父をよく知っています。
もしかして、酔漢さん。親父と会っていませんか?

東宝もなくなってしまったんですよね。
仙台パルコもオープンしたようです。
三越も藤崎も変わっていくようですよ。
塩竃もそうですが、仙台も別の街のようです。
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かまぼこ屋さん (酔漢です)
2008-08-25 12:13:47
クロンシュタット様へ
仕事柄、塩竈のかまぼこ屋さんには酔漢も大変お世話になりました。
予備校の頃、やはり東宝入り口で待ち合わせをしておりました。
携帯のなかった時代ですよね。
あったらしなかった喧嘩も一杯ございます。
返信する
本屋はおいらの心の友 (クロンシュタット)
2008-08-25 06:53:19
小中学生から高校生時代は本屋が一番の居所でした。
確かに塩竃には本屋が多かったと思います。
何時間でも立ち読みできる雰囲気でした。
009全巻を8時間かけて一気に立ち読みしたことがあります。

塩竃の本屋だけではなく、仙台の宝文堂に高山もなくなってしまったのですか。
あの頃の「つたないデート」は、東宝の1階の高山が待ち合わせ場所でした。
たいていの女性は約束の時間に遅れるものですから、本屋なら安心できるのです。

私の住まい近くの個人書店も2軒ともなくなってしまいました。
本1冊買うために、電車に乗らなければなりません。

塩竃は食堂にしろ映画館にしろパチンコ屋にしろ飲み屋街にしろ、港町ゆえの営業方針でしたね。
当時の遠洋の漁師の収入、塩竃での使いっぷり、すでに伝説のかなたになってしまいました。

丹治さん
中の島にある(あった?)水産加工業の塩竃最大手(だった?)○○善は同級生の家です。
親父も仕事で付き合いがありましたよ。
ちなみに水産加工業3位でした○○○さんの社長が、私の仲人さんです。
親父とは「義兄弟(本人たちいわく)」の仲でしたが、事情があって廃業してしまいました。
とても残念なことです。


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塩竈の食堂=横須賀の食堂 (酔漢です )
2008-08-25 05:53:47
丹治様へ
塩竈は、人口や街の規模の割りには「本屋」が多かったように思うのです。
それと全盛期には、映画館も。
港町に言える特徴としてあるコラムニストはこう語っておりました。
「食堂がなんでも食堂になっている。これを横須賀食堂系と言う」と。船から降りて、「皆で食事」と相成ります。ところが、これまで全員殆ど同じおかずで飯を食っているわけですから、外食は自分の好みが優先します。ですが、慣れない街では、探しようもありません。
一つの食堂に皆して入って、こうなるわけです
「俺カレー」「俺かつどん」「俺ラーメン」
「おれ煮物」・・・etc。
ですから、全てのメニューに精通してなければならないそうです。
「いな長」「金富士」そんな感じがするのですが。
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赤石病院その2 (酔漢です )
2008-08-25 05:44:26
クロンシュタット様へ
酔漢自身は、赤石さんの現在のお顔しか解りません。(当然ですが)なんとも、そのような事があったのですね。
想像できるようなできないような・・・。
いたずら、少しの悪さは、きちんとやっておきませんと。。と、思うのです。
返信する
祓川 (丹治)
2008-08-24 13:10:57
酔漢さんへ

祓川の位置、そこまで詳しくは知りませんでした。勉強になります。

食堂の隣の路地一本の雑誌と模型の店、小生もよく行きました。あの店は、模型を割引で売ってましたよね。それと貸本もやってたと思います。雑誌は買わなかったけど、子供の小遣いではちょっと手が出ないような本をよく借りてました。

あのお店は、小母ちゃんが店番をしてる時と小父さんが店にいる時がありましたね。小父さんは店の奥で(そのもっと奥に居住スペースがあったように思います)、よくプラモデルを作ってました(小生が見たのは塗装するとこだけど)。蒸気機関車や戦車の模型の塗装が素人離れしてたことを覚えてます。

名前を忘れた食堂に向って右側が守屋釣具店。左側に塩釜資生堂と川村屋。角っぱなの本屋さんは菅原大正堂だったのではありませんか(高山書店は、居抜きだったか建替えだったかは別として釣具店の方だったかと思います)。今はどちらもなくなってしまいましたね。宝文堂は塩釜支店どころか会社自体がなくなってしまいました(去年の晩秋か初冬の頃だったはずです)。老舗の書店や所謂「町の本屋さん」が次々となくなる(高山もなくなりました、アイエも医学部内の医学書売店のみになったと思います)・・・思い出が一つ一つ奪われるような気がして、実に何ともやりきれない思いです。

あの並び、元の消防署の方に行くと福釜の醸造元がありましたね。

クロンシュタットさんへ

「」には養豚場があったのですね。だとすれば「ブ△ごろし」というのも頷ける話です(勿論のこと一塩竈人の単なる思い出で、差別的意図は全くございません。敢て一言申し上げておきます)。

そういえば塩竈の貯木場です。中の島の前だけになりましたが(何年も前にすれすらも埋立てられ、今は公園になってます)、小学校に入った頃は二又の置くの方まで続いてたような木がします。

クサイ話で恐縮ですが、小生の家も浪人中まではドボンでした。家を建替えた時に水洗になりましたが。ところが、いけません。山歩きの時など、ドボンだと用を足すのが非常に難儀に感じるようになりました。衰弱したものです・・・
返信する
塩竃第三中学校 (クロンシュタット)
2008-08-24 06:42:49
あの頃の三中の充実ぶりは、今にして思えば「どうして!」ですよ。
特に運動部は、県大会優勝は毎年のごく当たり前のことでした(兄もバレーボールで県大会優勝)。
水泳部は、東北大会男女優勝までやらかしてますからね。

赤石弟は水泳部主将兼生徒会長だったと思います。
年中日焼けで、「赤なのに黒い男」でした。
ある日、抜き打ちで教師の身体&持ち物検査がありまして、でも生徒会役員は事前に知りえたわけですね。
その日、なぜか2名だけ、サボり休みがおりました・・・そう、予想通り、赤石弟とクロンシュタットです(2人とも長髪)。
翌日「してやったり」のアイコンタクトを交わすワルどもでした。

「米作りはやめない」に関しまして。
東京、それも吉祥寺そばの農家であるカミさんの両親には心底頭が下がります。
「畑は守る」の言葉は、その裏にある膨大な負担を思うと、自分が情けなくなります。
本当は、私が継ぐべきだったのかもしれません。
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同性寺です (酔漢です )
2008-08-23 23:39:17
ばるえ様へ
先代のご住職には大変かわいがって頂きました
今でも、帰省する度に立ち寄ります。といいますか、祖父、祖母、叔父、叔母・・皆様あそこにおります故。
そうですね、駐車場になっておりました。
田んぼの持ち主は、「米作りはやめない」と申しておりますので、田んぼの風景は残ると思います。
これから、小さな記事を掲載します。
あの田んぼの写真はしっかり撮って来ました。
少し紹介いたします。
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赤石病院のご兄弟は (酔漢です )
2008-08-23 23:32:19
クロンシュタット様へ
記憶に間違いがございましたらご容赦下さい。
相当、泳ぐのが速かったと記憶しております。
当時の塩竈市小学生の大会記録を持っておりませんでしたでしょうか。
ひょんなところから思い出してしまいました。
違っておりますでしょうか?
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Unknown (ぱるえ)
2008-08-23 21:58:33
花渕浜のお寺は同性寺のことでしょうか?
子どもたちが通った幼稚園のお寺です。
私もあの辺りの田んぼの風景が大好きでした。
次女が卒園する頃に目の前の田んぼが埋め立てられ、
駐車場と畑に変わってしまいました。残念なことです
ザリガニやカエル捕りをしたり、冬には凧揚げをしたり子どもたちには思い出の場所です。
ホタルは今ではどうなんでしょう…
巨大なカメが何匹も見つかったのは知ってますが…
返信する
赤石病院は坂の途中 (クロンシュタット)
2008-08-23 06:37:52
ふふふっ。

春休みの規制の際、赤石病院は建替え中でした。
前にも触れたかもしれませんが、「赤石兄弟」VS「クロンシュタット兄弟」の戦いの歴史てーもんがあります。
三中では兄同士は同級生、弟同士は私の方が1学年下でした。

向こうは、まあ、想像通り、兄弟で生徒会長ですね。
こっちは借家で下水道も電話もなし、汲み取り便所ですわ(おっ!関西親父調)。
おまけに、私は、三中の授業中に怪我をして、敵地赤石病院に入院したりで、あまりに不利な状況ですねん。

「戦い」とは、酔漢さんや丹治さんにはご理解いただけると思いますが、ナンバースクール進学競争ですよね。
良くも悪くも、3月になれば、「狭い」地元の話題はそればっかしでしたから。
んー、勝敗の行方はですか・・・

丹治さん

方面には、実際に「豚の飼育小屋」があったという噂がありました。
それで、夏場は日本脳炎の媒体蚊が発生するので、近づくなと、三小生はささやきあっておりました。





返信する
クロンシュタット様です・・ネ (酔漢です )
2008-08-22 22:14:46
本当にこのブログに話題をありがとうございます。クロンシュタット様、酔漢とは、ニアミスな方だったんですね。

祖父の墓参りに七ヶ浜まで、今のお寿司屋さん「しらはた」の前からバスに乗ります。ボンネットバスです。横から飛び出すウインカーを覚えております。踏切です。蒸気機関車が貨物を引っ張ってヤードへ入っていきます。右手に「松竹」それ過ぎますと「塩釜警察署」道を曲がって尾島町。45号線をつっきって、下馬の交差点から「赤石病院」の前から「偵山橋」「遠山」から舗装道路は終わり。後は「がたぼこ道」で「菖蒲田」まで。やっと「花渕」でした。
時間に余裕があれば「船」を使っておりました
祖母は「船」の方が好きだったみたいです。
返信する
どさつ場ですが・・・ (丹治)
2008-08-22 14:53:09
ですが、何でああいう名前になったんでしょうね。僕ら三小生の間では、もっとロコツに「×タごろし」って言ってたこともありますよ。地形を考えれば、岬になって突き出ていた山を削って谷地を埋めた所だと思うのですが
(本当に「」だったとは思えません)・・・

あそこは化石を取りにいったこともあれば、山のように(誇張ではありません)砂を積み上げてあったのが嬉しくて、探検ごっこや戦争ごっこをしに行ったこともあります(泥だらけに鳴って帰り、母親に怒られたものです)。

小生たちの頃は、あそこは多賀城の東小と縄張りを争ってました(クロンシュタットさんの頃は、本当に「三小の庭」だったんではないでしょうか)。昔は広い空地があって、子供たちの恰好の遊び場でしたよね。応援団友だちの某君の頃、八幡小は広瀬側の河原(牛越橋の辺りでしょうか)を国見小と争ってたそうです。

今の子供たちには、ああいう遊び場がなくてかわいそうですね(ほんにんたちは同思ってるか分らないけど)。最近、西岸良平の『三丁目の夕陽』を愛読している小生です。


クロンシュタットさんへ

中央郵便局には、小生も記念切手を買いに行ったことがあります。今は市の水道局になってますね。
返信する
笠神だー (クロンシュタット)
2008-08-22 06:50:15
三嶋屋さんは数回しか入った事はありませんが、場所はよく知っています。
そう、三中をはさんで実家の反対側ですね。
私の「お庭」仁和多利神社の入り口にあたります。
あの周辺で、私の苗字を叫べば、親父の関係で99%、反応がありますよ。
だって親父は○○の○○○の○○でしたから(ん!)。
ちなみに写っている道路を昔は七ヶ浜へ向けて、ボンネットバスが走っていました。

伊勢模型の店内は「見るだけ」の小学生で、ごった返していましたよね。
私も買えるのは年に数回だけでした。狙いは田宮のティーゲルですね。

丹治さん
私の頃は、記念切手が出る度に、郵便局に並んでから、三小に登校していました。
好きだった○○ちゃんと並べるので、夢のようなひと時でした。
○○ちゃんも、中学からは仙台組みになったしまいました。

返信する
とさつ場は (酔漢です)
2008-08-21 17:13:31
三小テリトリーですよね。あの広大な空き地はなんにでも使えたでしょうね。
よく化石採集に出かけました。「葉の化石」が多く出たのを覚えております。
(丹治さんは庭だったでしょうね)
街の様子が様変わりするのは、いたしかたなにのですが、街を歩く人達を見ますと「お年寄り」が増えているように思えました。(自身の両親も同様ですが)子供達の自転車が交通のじゃまになっていた時代も懐かしく思い出されます。子供の数が少なくなっているのでしょうね。七ヶ浜ですが(ここで急にすみません)花渕に「お寺」がありますが、その正面の田んぼではよく遊びました。昔は「ほたる」が見られたんですよ。今はどうでしょう。
返信する
祓川の位置ですが・・ (酔漢です )
2008-08-21 16:57:45
丹治様へ
表参道のあたりから塩釜高校下を「祓川」と呼ばれていたと聞いておりました。
昭和の始め塩釜の市場が河口にありましたが、「新しい魚河岸ができた」ということで「新河岸川」と呼ばれていたとか。それと、(これは、今でもあるのですが)「一森寿司」裏から小松崎方面へ流れている川を「新河岸川」といい、表参道前を流れている川を「祓川」と呼ばれていたとも聞いております。
本塩釜駅前と言えばその昔・・
「パチンコ屋」(名前は忘れました)があって
「守屋釣具店」「まるやま食堂」(名前がうろ覚えです丹治さんもすですね)その隣に狭い店の「『漫画雑誌とプラモデル』を売っている店」がありました「塩釜資生堂」そして「宝文
堂」と続いておりました。
最後に伊勢模型「何万円のばっぱ」は健在でした。かなりのご高齢でしょう。お店の中で椅子に座っておりました。
返信する
不思議なものを売ってました (酔漢です )
2008-08-21 16:42:57
ひー様へ
小学校での流行は、「この店から」でした。
ちょっとした手品のグッズであるとか。かんしゃく球であるとか「銀球鉄砲」とか少し大きめの「バルサ飛行機」など・・・。
旧本塩釜駅は小学校の頃から利用してました。
正面がタクシー乗り場。そして「神田のそば」
消防署を通りすぎると、「新河岸川」を跨ぐ橋を渡り、「丹六」へ。
通学していて「臭い?駅」ではありました。
返信する
Unknown (ぱるえ)
2008-08-21 16:31:39
本当ににおいがしなくなりましたよね!
私が小学生の頃、車で塩竈の町中を通るときには急いで窓を閉めたものです。
たま~にそのことを思い出して懐かしくなります。
友だちが三小出身でよく塩竈の話を聞かされました。
と畜場だった空き地(?)を遊び場にしていたらしく「と畜場さ行くべ!」という会話が小学生の間で交わされていたとか…

塩竈の町はどんどんきれいになっていきますね。
うれしいような、寂しいような…
住んでいた方たちは複雑な気持ちなんでしょうね。
浜に暮らすようになってから身近になった塩竈。
エスプや壱番館、ガマックス(マックスバリュー塩竈)によく足を運んでますよ
返信する
新河岸川は・・・ (丹治)
2008-08-21 15:48:15
更新されたお話、拝読しました。何もかもが懐かしいです(どこかで聞いたような科白でが)。

山田屋には小生、切手を買いに行ったものです。酔漢さん、小学校の時に切手蒐集がはやったことって、ありませんでしたか。あのお店、本当は額縁屋さんなんですってね。でもやっぱり、小生の頭の中でも駄菓子屋さんでした。

伊勢模型店にも御世話になりましたよ。1/48
スケール(バンダイ)と1/35スケール(田宮)は戦車。 1/700スケール(静岡の四社合同)は軍艦。よく作ったものです。あの「・・・万円!」の小母さん、お元気でしょうか。きっと代替りして、息子さんがお店をやっているのでしょうね。

魚臭さとドブ臭さはある意味で塩竈の象徴だったような気がします。小生の家の近くでも四十五号線沿いに加工屋さんがありましたし、中の島の貯木場が健在でした。

あの笹カマのベルトコンベアー、ともすると飽きもせずに眺めておったものです(ああいう機械が面白かったですね)。見ていると小母ちゃんが、形の悪いのをくれたりして(でも焼きたてはウマかったです)。

貯木場のドブ臭さ・・・天気が悪いと鼻につきませんでしたか。「む、臭うゾ。今日は雨か」なんて、今風に言えば天気の判断材料にしてましたよ。そういえば「船の汽笛が近くに聞えれば、雨」なんてのもありましたね。

ジャスコが建つ前の前の埋立地、小生が知っている限りは(小2の頃です)原っぱでした。模型を買いに行った帰り、バッタやカマキリを取って遊んだものです。

新河岸川はコンクリートで護岸されたドブ川でしたが、それなりに風情があったものです。何本か枝垂れ柳の木が植えてあったような気がします。今でもありますが、あのガス灯。あれは仙台よりも早かったのではないですか。ドブ川の割には、橋なんか赤い欄干で擬宝珠がついてましたよね。

ところで酔漢さん、あの新河岸川がその昔「祓川(はらいがわ)」って呼ばれてたこと、知ってましたか。ある知り合いの御老体の遺影遊びに行って、「あの川の名前を知っているか」って尋ねられたことがあります。小生が知っている名前は「新河岸川」。それを答えたら、「あれは「祓川といったのだ」とのこと。びっくりしましたね(つまりは小生も、それまでは全然知らなかったのですよ)。なんでもその昔、塩竈様に参拝する人は、あの川の水で身を清めてから御参りしたのでそうです。

元の本塩釜駅は、小生が浪人二年目の冬までありました。駅の中に立ち食い蕎麦屋(伯洋軒)。出たとこにも立ち食い蕎麦屋(神田屋)。「ひーさん」のコメントにあった食堂もおぼろげながら覚えてます。国道をはさんで向いにある来々軒は今も健在です(たまに食べに行きます)。それから金富士と、一番館の向いにある食堂(名前は失念)も健在です。塩竈神社参拝にしても松島観光にしても、今よりも仙石線利用者の数が多くて、遊覧船との連絡駅ということもあって食堂の需要も大きかったんでしょうね。

そういえば本塩釜駅の「壺焼き芋」の所では、ピータンも売っていたんじゃないでしょうか。
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なつかすい話すですねぇ (ひー)
2008-08-21 14:22:28
伊勢模型屋の向かいの店はやまだやだったんですね。いまだに通るのに気にも止めませんでした。
当時、いや今でも模型屋は伊勢しかないのでは?
多賀城には加藤模型屋がありましたが、もう潰れました。
本塩釜駅前の「壺焼きいも」隣りには、食堂がありました。あのドブ川には舟がありましたね。
住んでた人もいたんですかぁ?
塩釜神社には、傷痍軍人が来てましたねぇ~
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