「社会科の自由研究」なるものがありました。社会に関する事はなんでもいいのですが、それはそれ「自由研究」ですから、やはり面倒なものです。
学校帰り仙石線車中です。
「おめぇ自由研究なんじょすんだ」とこうへい君。
「社会科は『貝塚』にすっかと思ってんのっしゃ」と酔漢。
「俺もそれにすっか」とひろし君。
「どこさぁあんのすか」
「七ヶ浜の『大木塚貝塚』は、教科書の資料集にも載ってっちゃ。自転車で行けばすぐだべ」
「んで明日行ってみっぺ」
となりました。
今、現在の標識です。このお話の頃は、プレハブの発掘研究棟とこの標識があるだけで、周りは鬱蒼とした野原のままでした。発掘のための道はありましたが、どこもかしこも、発掘中の様子で、土手の合間から貝の化石が剥き出しになっていたり、土器の破片があちこちに散らばっている状態でした。
現在は資料館があります。中の展示室は、無料で拝観できますし、学芸員の方も親切に解説してくれます。
では、中の様子を少し。
展示されております、「縄文土器」の復元です。教科書にあるような、典型的な「土器」です。そこが尖っていて、縄目の文様がきれいに浮き出ております。
貝塚ですから、貝の化石はたくさん展示されております。
この周辺には、発掘されていない個所が相当ありまして、この集落の大きさが分かります。実際には、おそらく東北地方有数の縄文遺跡という事が分かります。
では、時間を戻しましょう。
自転車で貝塚に着きました。酔漢、こうへい君、ひろし君です。
研究棟を覗きました。誰もいません。
「勝手に入っていいのかや?」
「いいんでねぇか?」
と僕ら。細い道を丘陵に沿って登って行きました。
数分ほど歩いておりましたら
「酔漢、これが貝塚かや」と先頭にいた、こうへい君が指をさしております。
見ますと、土手が剥き出しになり、黒土の間には、無数の白い貝殻が浮き出ておりましたし、その貝の間には、茶色の土器の破片がそこいらじゅうに散らばっておりました。
「なんか袋持ってきてっか?」
「ビニール袋ならある」
僕らの「遺跡荒し」が始まりました。
各々、袋一杯に、貝だの土器の破片などを詰めて、帰路に向おうとしたその時、
「なにしてんだ」と担当官の声。
「やばい。やっぱし持っていってダメだったんでねぇかや」と僕ら。
「あの場所は今、発掘中なんだ。あんまし荒さねえでけねぇすか」と注意されました。僕らはビニール袋に入っている、土器の破片などが見つからないように後ろに隠しながら、その場を退散しました。
「あぶねぇかったなや」
「だいじょうぶだべ」
「んで、資料整理すっぺ」
無事夏休みの宿題が完成しました。
二学期。宿題提出後。社会科の「いたる先生」が、「酔漢、ひろし。ここに来なさい」と。
「全く、同じ内容の自由研究じゃないか。だったら、共同にすればよかったんだよな。酔漢のは、標本がそれらしいし、ひろしのは、まとめ方が非常に上手い。2人でやればよかったのさ」
まぁ、無事に終わりました。確か二人してどこぞや市内で展示されていたとか。でもあんまし成績には関係なかったような気もしないではない。
翌年は「多賀城にすっぺ」となりまして。「政庁跡」を題材にしました。今の以前の資料館で取材。(今は本当にりっぱな建物ですね→駄菓子屋さんのところで「もーしぃ」です。ひー様取材)
最近まで父が発掘に参加しておりました。
今は「南大門」を発掘中です。
調査責任主任「後藤先生」がおられました。
この先生のお話は、面白いです。とはいうものの、現場におりますので、なかなかお会いする事もできないのですが、8月中はこの現場で発掘調査中です。
政庁方面を眺めております。未だ謎の多い多賀城です。北側の門がまだ不明で位置の推定が出来ておりません。この位置が確定しますと、もしかしたら「大宰府」をしのぐ「城」でなかったかと、推察できるようです。
再び、「ひー様」のブログに「横穴古墳」のお話が掲載されております。
これも、その一部ですが、「大木囲貝塚資料館」に展示されているものです。
保存状態が非常に悪く、地震のたびにどこか崩れてしまっているのが現状です。
大切な資料にも関わらず、社会科の授業で語られる事もありません。
もう少し「さわいでもいいのかな」と思います。
「ひーさんの散歩道」
是非、ご覧下さい。
次男の夏休みの宿題。社会科題材「神奈川県と任意の都道府県との比較」
「お前、どこと比較するんだ」
「そりゃ親父『宮城』に決まってる」
「ふーん、少しは進んだ?」
「ほんのさわりだけね」
「で、どんな比較?」
「県の形が非常に似ている!これ発見」
なるほど牡鹿半島と三浦半島、そこで仙台湾と相模湾が重なり、湘南の海岸と亘理までの海岸線。なるほど 似ている!
学校帰り仙石線車中です。
「おめぇ自由研究なんじょすんだ」とこうへい君。
「社会科は『貝塚』にすっかと思ってんのっしゃ」と酔漢。
「俺もそれにすっか」とひろし君。
「どこさぁあんのすか」
「七ヶ浜の『大木塚貝塚』は、教科書の資料集にも載ってっちゃ。自転車で行けばすぐだべ」
「んで明日行ってみっぺ」
となりました。
今、現在の標識です。このお話の頃は、プレハブの発掘研究棟とこの標識があるだけで、周りは鬱蒼とした野原のままでした。発掘のための道はありましたが、どこもかしこも、発掘中の様子で、土手の合間から貝の化石が剥き出しになっていたり、土器の破片があちこちに散らばっている状態でした。
現在は資料館があります。中の展示室は、無料で拝観できますし、学芸員の方も親切に解説してくれます。
では、中の様子を少し。
展示されております、「縄文土器」の復元です。教科書にあるような、典型的な「土器」です。そこが尖っていて、縄目の文様がきれいに浮き出ております。
貝塚ですから、貝の化石はたくさん展示されております。
この周辺には、発掘されていない個所が相当ありまして、この集落の大きさが分かります。実際には、おそらく東北地方有数の縄文遺跡という事が分かります。
では、時間を戻しましょう。
自転車で貝塚に着きました。酔漢、こうへい君、ひろし君です。
研究棟を覗きました。誰もいません。
「勝手に入っていいのかや?」
「いいんでねぇか?」
と僕ら。細い道を丘陵に沿って登って行きました。
数分ほど歩いておりましたら
「酔漢、これが貝塚かや」と先頭にいた、こうへい君が指をさしております。
見ますと、土手が剥き出しになり、黒土の間には、無数の白い貝殻が浮き出ておりましたし、その貝の間には、茶色の土器の破片がそこいらじゅうに散らばっておりました。
「なんか袋持ってきてっか?」
「ビニール袋ならある」
僕らの「遺跡荒し」が始まりました。
各々、袋一杯に、貝だの土器の破片などを詰めて、帰路に向おうとしたその時、
「なにしてんだ」と担当官の声。
「やばい。やっぱし持っていってダメだったんでねぇかや」と僕ら。
「あの場所は今、発掘中なんだ。あんまし荒さねえでけねぇすか」と注意されました。僕らはビニール袋に入っている、土器の破片などが見つからないように後ろに隠しながら、その場を退散しました。
「あぶねぇかったなや」
「だいじょうぶだべ」
「んで、資料整理すっぺ」
無事夏休みの宿題が完成しました。
二学期。宿題提出後。社会科の「いたる先生」が、「酔漢、ひろし。ここに来なさい」と。
「全く、同じ内容の自由研究じゃないか。だったら、共同にすればよかったんだよな。酔漢のは、標本がそれらしいし、ひろしのは、まとめ方が非常に上手い。2人でやればよかったのさ」
まぁ、無事に終わりました。確か二人してどこぞや市内で展示されていたとか。でもあんまし成績には関係なかったような気もしないではない。
翌年は「多賀城にすっぺ」となりまして。「政庁跡」を題材にしました。今の以前の資料館で取材。(今は本当にりっぱな建物ですね→駄菓子屋さんのところで「もーしぃ」です。ひー様取材)
最近まで父が発掘に参加しておりました。
今は「南大門」を発掘中です。
調査責任主任「後藤先生」がおられました。
この先生のお話は、面白いです。とはいうものの、現場におりますので、なかなかお会いする事もできないのですが、8月中はこの現場で発掘調査中です。
政庁方面を眺めております。未だ謎の多い多賀城です。北側の門がまだ不明で位置の推定が出来ておりません。この位置が確定しますと、もしかしたら「大宰府」をしのぐ「城」でなかったかと、推察できるようです。
再び、「ひー様」のブログに「横穴古墳」のお話が掲載されております。
これも、その一部ですが、「大木囲貝塚資料館」に展示されているものです。
保存状態が非常に悪く、地震のたびにどこか崩れてしまっているのが現状です。
大切な資料にも関わらず、社会科の授業で語られる事もありません。
もう少し「さわいでもいいのかな」と思います。
「ひーさんの散歩道」
是非、ご覧下さい。
次男の夏休みの宿題。社会科題材「神奈川県と任意の都道府県との比較」
「お前、どこと比較するんだ」
「そりゃ親父『宮城』に決まってる」
「ふーん、少しは進んだ?」
「ほんのさわりだけね」
「で、どんな比較?」
「県の形が非常に似ている!これ発見」
なるほど牡鹿半島と三浦半島、そこで仙台湾と相模湾が重なり、湘南の海岸と亘理までの海岸線。なるほど 似ている!
我が故郷も、奥深かったようで・・・
それに「だいぎがこい貝塚」からはタカラ貝でできた腕輪が発掘されたそうです。
タカラ貝は南方の産物ですので、交易の存在が推測されます。
・・・いや実は、ものすごい発見が埋もれてしまっているかも。
「遺跡荒し」が多いもんですから・・・
国府が置かれた頃、都から東にはある「都市」は、多賀城ただひとつ。
けっこう多賀城市民には誇りになってるんですよ(俺だけ?)。
七ヶ浜の歴史資料館の看板は良く見てましたが、たいしたこと無いのかなと入った事がありませんでした。
今度行って見ます。
いやいや発掘現場から持ってくるとは、たいした度胸です。
多賀城では近年お祭りに当時の様子を入れてますが、市民の認知度は低いでしょうね。
坂上田村麻呂をもっと勉強すれば面白いのにと思います。
では多賀城政庁後でもTBしておきます。
…古墳があります。
社会科にもってこいの土地柄…かもしれません、なんて。
(近隣には博物館も)
おっしゃる通りだと思います。この遺跡の価値は、きちんと後世に伝える事が大事だと思います。貴重な出土品も出ております故。
きちんと調査すれば、多くの事がわかると思うのです。
インディアナジョーンズ先生ならなんとおっしゃる事でせう・・。
父がしばらく、発掘に参加しておりましたので、このブログで紹介いたしました「後藤先生」のお話を聞く機会がございました。
今は南大門の調査中だとか。
柱の太さは大宰府とほぼ同じだそうです。土塁の距離は、大宰府より長いのは、解っております。「アテルイ」率いる蝦夷との戦いは、実際のところ史実が少ないだけに謎の部分ですが、何度も焼けた跡があるところから、「かつてない戦闘が繰り広げられていたのではないか」と思うのです。日本史の空白域。
ロマンです。
義弟の故郷が「石鳥谷」です。途中高速をおりまして、北上市を縦断する寄り道をいたします
あのあたり、ちょっとした丘が実は「古墳であった」というお話は多く耳にいたします。
岩手も結構謎だらけ。
平泉を考えても、日本史の中で「稀有な存在」だと思うのです。
社会科教師になり損ねた私には、なかなか響いてきますね。
仙台を東京に見立てて、塩竃を横浜とした場合、工業地帯の多賀城は川崎に当てはまる。これは私が小さい頃、よく聞かされた話です(規模はだいぶ違いますが)。
下馬駅の越線橋から仙台新港方面の工業地帯の明かりを眺めたときに、「帰ってきたなー」と実感することがあります。
そう、私の現在の住まい周辺に比べ、多賀城の方が「産業地帯」のイメージですからね。
逆に、森や川や畑が迎えてくれるのが、私にとっての東京です。
以前の記事でチョットだけ紹介したのですが、
少しずつ噛み砕いてUPしようかと。
あそこの資料館は、小生も見たことがあります。規模は小さいですが、充実していますね(デカけりゃいいってもんじゃない)。宮城県、特に松島湾周辺は貝塚だらけですが、あそこから出る縄文式土器は「大木囲式」といって各地から出土する土器の編年基準になっていると聞いたことがあります。
親父が中学生だった頃は、今の貞山通が未発掘の貝塚状態だったそうですよ(用地整備がされず谷地状態だったんでしょうね)。よく骨格器や土器の破片を拾いに行ったとか。あの親父には考古学を志していた時期もあったのです(親父はいつしかドイツ語に転じ、親父の従兄が社会科の教員になりました)。
考古学といえば、愚弟も一時期興味を持っていたことがあります。血筋っていうんでしょうかねぇ。その証拠に我が家には、宮城県の遺跡地図がありますよ(弟が「欲しい」と言ったのを、親父が教育委員会に頼んで分けてもらったのです)。
それにしても酔漢さん、なかなかヤルもんですね。発掘現場から土器の破片を頂いてくるとは・・・
研究室の後輩に青森県で高校の教員をやっているのがいます。彼氏の実家は三内丸山遺跡のすぐそば。子供の頃はよくカブトムシの幼虫を取りに行ってたそうです。もちろん発掘が始る何年も何年も前のお話(ひょっとして遺跡に認定される前の話だったかも)。
土器のかけらや貝殻ももちろん見つかります。ところが湯治の彼が欲しかったのは、飽くまでもカブトムシの幼虫」。「何でぇ、また土器かよ」と言っては、ことごとく捨ていていたのだとか。「今考えてみれば実に惜しいことをした」とは、後輩の弁であります。
江戸時代の菅江真澄の書いたものにも、あの辺りから土器の破片や骨で作った道具が出るって書かれているそうですね。
三内丸山は五~六年前にも一度見学しました。博物館としての展示スペースやミュージアムショップも充実しているし、何よりも湯治の建物を再現したものや出土状況を示した野外展示は見応えがあります。ボランティアの方のガイドがあるのも嬉しいですね。
酔漢さんと御令息にも一度見学することを奨める次第です。
藤沢市は郊外に野菜の促成栽培が盛んです。
ビニールハウスが連なっている風景は、田んぼが広がる宮城の風景と違った田舎の様子です。
東京近郊もそうですね。