正月が仕事となって久しい酔漢です。元旦も仕事ですが、やはり、年末の後始末が大変ではございます。ですが、案外のんびりした、仕事ぶりです。
どちらかと言えば、2日か3日の休みの方がいいのでした。
「箱根駅伝」は、住んでいるマンションの側を通過していきます。「遊行寺の坂」まで徒歩3分。藤沢橋あたりで見ております。往路で言いますと3区の中盤。シティラピッド君、年下君と3人で観戦します。観戦後「遊行寺」(時宗総本山)で初詣。これが我が家の定番です。
元旦に休みが取れますと「江ノ島神社」へ参ります。
戦前は「東郷平八郎元帥閣下」の銅像が、江ノ島橋の欄干に置かれていたとか。
その前で集合写真を撮りましたのは、横須賀から遠足に来ておりました「酔漢父」でございました。
冬の晴れ間。江ノ島から富士が見えますと・・「日本だなぁ」と感じます。
さて、今事業所は鎌倉市大船。横須賀線を使えば「鶴岡八幡宮」は案外近いのでした。シティラピッド君、年下君は七五三はこの八幡宮でした。酔漢父もそうであったとか。父に取りましては、横須賀が故郷のようなものです。3代を経まして、再び「鶴岡八幡宮」でお参りだったのです。これはやはり運命を感じます。
「初詣に鎌倉へは行かねぇのすか?」
そうなのです、これが話しの本題です。
八幡宮への初詣は、相当の覚悟が必要です。何せ、人ごみが凄い。「ファストパス」(東京ディズニーランド)でもなければとても行く気にはなりません。行列はとめどもなく続いております。
一の鳥居から二の鳥居まで約一時間。そこから本殿まで約1時間半はかかります。
塩竈神社の並びようなんてかわいいものです。
今は通行閉鎖となっております「太鼓橋」八幡宮境内にかかっております朱色の橋です。昭和18年当時はここを渡るのが通例だったとか。寒い時期です。橋が凍って滑ります。転ぶ人が大勢おったとか。当時でも相当人であふれておったそうです。
写真です。昭和18年元旦の家族写真。そのまま掲載いたします。
酔漢祖父。尋常小学校時代の叔父二人(父兄、弟)と父です。祖母に抱かれておりますのは叔母です(当然だっちゃ!)
おそらく、最後の家族写真です。
本殿へ上がる階段の下に、能舞台がありまして、その前で撮った写真。
「案外すいてんでねぇかい?」
これには、裏がございまして・・。
海軍士官の家族写真ですから、写真屋さんが気遣いまして、周りの人をどけてくれたとか。ですから、人ごみは写っておらないのでした。
でもなぁ、後ろの階段にも人がまばら。元旦にしては人が少ないような気もいたします。
ところで、昭和18年、当時の小学生が来ているコート。父はその翌年「七ヶ浜亦楽小学校」へ疎開の為、転校いたします。亦楽小では「着物に下駄」が主流だったとか。
地方と都会の差が大きかった当時を如実に語っているような証言です。
映画「少年時代」そのものを経験した酔漢父でもありました。
昭和18年正月。大和は南太平洋におります。その年1月29日には「レンネル島沖海戦」が行われております。
そして2月11日に連合艦隊旗艦を「武蔵」に移行しております。
日本海軍にとりまして、戦況の転換点を迎える年となるのでした。
そして、昭和18年。祖父はその殆どを「海軍省」にて過ごしております。
戦況不利ではあっても、まだ「水上部隊」は健在だったのでした。
日本はこれからの二年間に、世界史上、稀有な経験を致します。そして、その波に飲まれた家族は少なくありません。
この写真の未来を知りえる者の一人として、なんとも複雑な心境になります。
家族で初詣。そして家族で食事。
「来年もまたここさぁお参りにくっぺ」と酔漢祖父は言ったと思います。
ですが、来年はなかったのでした。
酔漢父の顔を見ます。「家族一緒の幸せ」が満面に溢れているように見えます。
そして酔漢祖父も。
平日、家族で「鶴岡八幡宮」へ出かけました。能舞台の正面右に立ちました酔漢です。地面を見ます。
「親父どうした?」シティラピッド君です。
「いや、なんでもない」
この場所での家族写真。
「すみません。シャッター押してくれませんか!」
家内の声がしました。
丁度、左手に表参道の階段が見えるその位置での家族写真が出来上がりました。
ふと気づきます。
「なんだや、親父(酔漢父)達とおんなし場所だっちゃ」
出来上がった写真を見て酔漢はそう声を出しました。
「何と同じなの?」と、家内が聞き返します。
「いや、何でもねぇっちゃ」
「親父、今訛ってなかった?」年下君。
「うん、こんな偶然もあったんだなや」
六十年の月日が経っておりました。
どちらかと言えば、2日か3日の休みの方がいいのでした。
「箱根駅伝」は、住んでいるマンションの側を通過していきます。「遊行寺の坂」まで徒歩3分。藤沢橋あたりで見ております。往路で言いますと3区の中盤。シティラピッド君、年下君と3人で観戦します。観戦後「遊行寺」(時宗総本山)で初詣。これが我が家の定番です。
元旦に休みが取れますと「江ノ島神社」へ参ります。
戦前は「東郷平八郎元帥閣下」の銅像が、江ノ島橋の欄干に置かれていたとか。
その前で集合写真を撮りましたのは、横須賀から遠足に来ておりました「酔漢父」でございました。
冬の晴れ間。江ノ島から富士が見えますと・・「日本だなぁ」と感じます。
さて、今事業所は鎌倉市大船。横須賀線を使えば「鶴岡八幡宮」は案外近いのでした。シティラピッド君、年下君は七五三はこの八幡宮でした。酔漢父もそうであったとか。父に取りましては、横須賀が故郷のようなものです。3代を経まして、再び「鶴岡八幡宮」でお参りだったのです。これはやはり運命を感じます。
「初詣に鎌倉へは行かねぇのすか?」
そうなのです、これが話しの本題です。
八幡宮への初詣は、相当の覚悟が必要です。何せ、人ごみが凄い。「ファストパス」(東京ディズニーランド)でもなければとても行く気にはなりません。行列はとめどもなく続いております。
一の鳥居から二の鳥居まで約一時間。そこから本殿まで約1時間半はかかります。
塩竈神社の並びようなんてかわいいものです。
今は通行閉鎖となっております「太鼓橋」八幡宮境内にかかっております朱色の橋です。昭和18年当時はここを渡るのが通例だったとか。寒い時期です。橋が凍って滑ります。転ぶ人が大勢おったとか。当時でも相当人であふれておったそうです。
写真です。昭和18年元旦の家族写真。そのまま掲載いたします。
酔漢祖父。尋常小学校時代の叔父二人(父兄、弟)と父です。祖母に抱かれておりますのは叔母です(当然だっちゃ!)
おそらく、最後の家族写真です。
本殿へ上がる階段の下に、能舞台がありまして、その前で撮った写真。
「案外すいてんでねぇかい?」
これには、裏がございまして・・。
海軍士官の家族写真ですから、写真屋さんが気遣いまして、周りの人をどけてくれたとか。ですから、人ごみは写っておらないのでした。
でもなぁ、後ろの階段にも人がまばら。元旦にしては人が少ないような気もいたします。
ところで、昭和18年、当時の小学生が来ているコート。父はその翌年「七ヶ浜亦楽小学校」へ疎開の為、転校いたします。亦楽小では「着物に下駄」が主流だったとか。
地方と都会の差が大きかった当時を如実に語っているような証言です。
映画「少年時代」そのものを経験した酔漢父でもありました。
昭和18年正月。大和は南太平洋におります。その年1月29日には「レンネル島沖海戦」が行われております。
そして2月11日に連合艦隊旗艦を「武蔵」に移行しております。
日本海軍にとりまして、戦況の転換点を迎える年となるのでした。
そして、昭和18年。祖父はその殆どを「海軍省」にて過ごしております。
戦況不利ではあっても、まだ「水上部隊」は健在だったのでした。
日本はこれからの二年間に、世界史上、稀有な経験を致します。そして、その波に飲まれた家族は少なくありません。
この写真の未来を知りえる者の一人として、なんとも複雑な心境になります。
家族で初詣。そして家族で食事。
「来年もまたここさぁお参りにくっぺ」と酔漢祖父は言ったと思います。
ですが、来年はなかったのでした。
酔漢父の顔を見ます。「家族一緒の幸せ」が満面に溢れているように見えます。
そして酔漢祖父も。
平日、家族で「鶴岡八幡宮」へ出かけました。能舞台の正面右に立ちました酔漢です。地面を見ます。
「親父どうした?」シティラピッド君です。
「いや、なんでもない」
この場所での家族写真。
「すみません。シャッター押してくれませんか!」
家内の声がしました。
丁度、左手に表参道の階段が見えるその位置での家族写真が出来上がりました。
ふと気づきます。
「なんだや、親父(酔漢父)達とおんなし場所だっちゃ」
出来上がった写真を見て酔漢はそう声を出しました。
「何と同じなの?」と、家内が聞き返します。
「いや、何でもねぇっちゃ」
「親父、今訛ってなかった?」年下君。
「うん、こんな偶然もあったんだなや」
六十年の月日が経っておりました。
祖父は軍人とは言え、サラリーマン的な生活を送っておりました。
家族もそれが日常として生活しておったのかと、父の話を聞いてそう思いました。
日常の幸せがなくなる事を想像するのが、やはり戦争という異常時だからなのかもしれません。今に生きることを感謝しておる酔漢です。
こんな感じで数十年。
年末の忙しさを肌で感じておられるクロンシュタット様ですね。
まだ、正月が休みの頃。大晦日に夜行急行で塩竈へ帰省したことがございます。
向いの席が「美容室」勤めの青森までの女性。
隣の席が「鳩のマーク」のお方。左前の席が「球団を持っていた量販」の方でした。
大笑いの車内でした。
やっている事は何ら変わっておりませんでした
家族の背景を語りました。
父に取りまして、最も幸福な短い時代をご紹介いたしました。
これも偶然なのですが、横須賀の事業所の裏前、天ぷら屋がございまして、よく昼食を食しておりました。
「なんだや、親父に連れて行ってもらった天ぷら屋だっちゃ」と、父。
60年の月日が経っておりました。
家族写真っていいですね。どこのお家のを見てもほんわかした気分になれます。
そういえば、わが家では全員が揃っている写真はあまり撮っていないかもしれません…
「行ってきます」と出かけて行き、「ただいま」と帰って来る。
この毎日の繰り返しがどれだけ大切なことなのか、ついつい忘れがちになります。
家族で一緒にごはんを食べて、笑って… 平和な世の中に感謝したいと思います。
ひーさんとほぼ同時刻に、おんなじようなコメントを!
当時は「死んで帰れと励まされ」の時代でしたが、肉親の死を望むものは誰もおりません。
私の高校生時代の最大の決断は、「非戦」「反戦」です。
その決断に基づく行動は、家族や周辺に、なにかと波風を引き起こしました。
・・・今はただ、酔漢さんの祖父様のように、だまってかすかに微笑むだけです。
ちょっと達観しすぎか!
私の頂上時代、除夜の鐘はいつも帰宅途中で聞きました。
その生活パターンがこびりつき、紅白歌合戦に興味を持てません。
今年も職場で新年を迎える予定です。また、3が日も仕事で至って普通なわけです。
家族の写真は、誰かにシャッターを押して貰わないと揃わないものです。誰もがこれが最後の写真だと思って撮る人は少ないでしょう。
英霊となり、また英雄にもなったわけですが、青葉城の展示室に貼ってある一人一人の戦死した写真の兵士には必ず母や家族がいたはずです。
そんな時代でもありましたが、死んで名を残すより、生きて帰って来て欲しい…それが妻や家族の本音だったのではと思います。