酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ほそ道の先には・・歌枕 弐

2014-10-01 12:24:55 | もっとくだまきな話
名取川を渡って仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて四五日逗留す。
爰に画工加右衛門と云うものあり。聊か心ある者と聞きて、知る人になる。
この者、年比さだかならぬ名どころを考置待てればとて、一日案内す。
宮城野の萩茂りあひて、秋の気色おもひやられる。玉田、よこ野、つヽ字が岡はあせび咲くころ也。
日影ももらぬ松の林に入りて、爰を木の下と云とぞ。昔もかく露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
薬師堂、天神の御社など拝て、其日はくれぬ。猶、松島、塩がまの所々、画に書て送る。
且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。

 あやめ艸足に結ばん草鞋の緒

かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に、十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。


前回、「おもはくのはし」(現、多賀城市)へ向かいます。とお話しいたしました。
上記の記は、5月7日。芭蕉が宮城野(現、仙台市 宮城野区)へ入った際のものです。
この件を、外しては、塩竈~松島までの行程を語るには、片手落ちになるのではないか。こう考えました。
大事な人物に出逢うからです。
「画工の加衛門」です。
芭蕉は、塩竈で、法蓮寺(現 塩竈様境内。亀井亭より少し下になる「勝画楼」看板のあたりと推察)前に宿泊します。
その手配も加衛門が取り計らった。こうした記録です。
「興味あり」です。
少し見てみます。
「あやめふく日」は、陰暦の五月五日とされます。しかし、曽良日記では、仙台着は五月四日です。
一日違う。
以前、この記録は「フィクション」にしたのではないか。こう言われておりました、そうです。
しかし、裏付けとなる文献がありました。「井原西鶴 好色一代男」の一節です。こうあります。
「其比九才の五月四日の事ぞかし。あやめ葺かさぬる軒のつめ見越の柳しげりて」とあり、端午の節句前日に、菖蒲を軒先の葺くという風習は古くからあったようです。
当日は、国分町に宿を取りました。仙台での行程は、短いものですが、宿では、資金が乏しく、縁者をたよった旅であることには変わりありません。
翌日芭蕉と曽良は、書状を持って、ある仙台藩士を尋ねます。
橋本善右衛門です。場所は記録から、錦町一丁目一番地。とされてまして、丁度、仙台北保健所周辺あたりかと推察されます。
(NHKより少し、広瀬通側だということで、北一番町光禅寺、西側かな?)
しかし、その宿に、橋本家の御用人「山口与次衛門」が、「お断り」の書状を持参し、芭蕉へ渡します。
理由は主、病気療養中の為。
果たして、仙台での伝手を失った芭蕉です。
曽良日記では、「須賀川吾妻五良七より之状、私持参、大町弐丁目、泉屋彦兵へ内、甚兵衛方へ届。甚兵衛留主。其後、此方へ見廻、逢也」
と記載されてますが、大町から大橋(今の大橋と同じ)まで、人物を尋ねた記録になってますが、この時点で誰を尋ねたのかは不明です。
ここで一人の人物が浮かんできます。
「三千風尋ネルに不知。其後、北野や加衛門ニ逢、委知ル」
三千風は、仙台の俳人。以前、「松島眺望集」を上梓した際、芭蕉も桃青の号で「武蔵野の月の若ばへや松島種」の一句を入集しており、未見ではありますが、知らない間ではないわけです。
本人は、先の曽良の日記の通り、甚兵衛なる人物は三千風を「不知」。知らない。と言う返事でした。
そんな中に出逢えたのが、「北野加之」(きたのかし)こと「画工加右衛門」と出会えるわけです。


この人物も俳人であり、俳号を「和風軒加之」と言ってました。

中にも予が文台を譲し俳諧所

師を離てとぶべき梅の花もなし

などの句を詠んだ、三千風の高弟です。

さて、五月六日は、仙台城内を経由し川内を渡り、亀岡八幡宮へ参詣してます。
そして、翌七日。宮城野へ入ります。
その行程は曽良日記によればこうです

権現宮→玉田・横野→つつじが岡→木の下

権現堂は東照宮です。
その東照宮ですが、(少し寄り道になりますが)この建物には逸話が結構あるんですよ。
かの有名が建築家「ブルーノ・タウト」。桂離宮と日光東照宮の比較は有名ですが、ここ仙台で一番気に入った建築物がこの東照宮だったのでした。
こう記録があります。当時、タウトは仙台におります。仙台の商工省工芸指導所に着任してます。
日光東照宮を強烈批判し、桂離宮の美しさを世界へ広めたタウトですが、仙台東照宮を絶賛しております。
「東照宮、日光の出店、しかし老杉の森の中にあるので美しい。寺と神社がいくつもあった。なかなか景勝の地をを占めている。神社の軸がそのまま長い街道り(仙台市宮町方面と推察)に続いているのを初めて見た。これも堕落だ!(直訳ではあるが、彼独特の表現)見事な杉木立に建てられた社殿、しかし建築は格別の事はない。これに反して神官の住居の美しさ!長く突き出た軒先を、やや上向けになった12mもある自然木で受け止め、その両端を細い柱で支えている。すばらしい構造だ」
タウトは自然美を強調する指向があるのは、周知のとおりではありますが、宮本体よりその周りの風景に感嘆の声を上げております。
杉並木、杉林のない今では想像つきませんね。
うっそうとした中の東照宮を見てみたい。そんな衝動に駆られました。



東照宮です。「ひーさん」より頂戴いたしました。
ひーさんの散歩道 仙台東照宮」よりです。


「おくのほそ道」は、は歌枕を尋ねる旅です。これは、前回お話ししたところですが、宮城野、つつじが岡、それらもそうです。

宮木野のもとあらの小萩つゆをおもみ風をまつごと君をこそまで 古今集
詠み人知らずのこの歌ですが、「もとあら」とは根元の葉が散ってしまってまばらになっている状態を指します。
そして、その「もと」は言い換えれば「木の下」となり、これも歌枕です。
萩の葉が散り行く時間の長さと木の下で待っている心情を両方に込めて歌われてます。
風を待つ。散り行きて過ぎても・・・。うーーん!待つは誰そ。

さて、その行程に於ける玉田とはどこを指すのでしょうか。
先に東照宮の東側と推察されます。
玉田も歌枕です

取りつなげ玉田横野の離れ駒つつじが岡にあせみ咲くなり 源俊頼

この歌により、先の芭蕉の「おくのほそ道」があるのでした。
「玉田、よこ野、つつじがおかはあせび咲く頃也」
この俊頼の歌ですが、「あせび」の特徴をとらえているので面白い歌です。
あせびは「馬酔木」と書きます。
文字通り、馬が誤って、食してしまうと、酔っぱらった状態になるのです。
ですから、馬を絶対に馬酔木に近づけない。これは、当時馬を操るいろはでした。

離れた馬が、あせびを見ている様。さてさて、この馬の運命を想像してしまいます。


酔漢撮影、あせび。

芭蕉は、仙台には四日しかおりません。
果たして、仙台をさる芭蕉に加衛門が選別として送ったものは、新しい、そして古い仙台の名物を知りました。



名取川を渡って仙台に入。あやめふく日也。(芭蕉)




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4 コメント

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こんばんは! (ひー)
2014-10-01 21:47:14
[おもはずのはし」とありましたが、多賀城に「おもわくのはし」があります。以前記事にしていました。
「悠久のまち:(おもわく橋)多賀城市のタイトルでhttp://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/f024d00c9debc0856523cc31f7f479bf この橋のことなのかな?と・・・昔の呼び名は現在と違いますので、ふと思いだしました。
奥の細道も面白いですね。特にみじかな地域だと・・・やはり曽良の日記は、非常に重要ですね。自分のHPでも松島と多賀城の記事ではトップに奥の細道を入れています。
ここで東照宮が出てくるのは以外でした。
これからも楽しみにしています。
塩釜の記事をupしました。

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こんばんは (見張り員)
2014-10-01 22:56:13
芭蕉と一緒の旅がいよいよ始まりました。頭の中で芭蕉さんと一緒に歩いているつもりで拝読しています^^。

東照宮。私は日光の死か見たことがないんですが仙台東照宮は渋みというのか重みのあるようにお見受けいたしました。

先が楽しみです。
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ひーさん。おもわくです! (酔漢です。)
2014-10-02 01:13:29
仰せの通り。「おもわくのはし」です。
ここに、リスナーの皆さま含めて、お詫び申し上げます。
「面和久橋」ですから。
本文も訂正いたします。
ひーさんの記事は、拝読させていただきました。
気づかずにおりました。
ひーさん、ありがとうございました。
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見張り員さんへ (酔漢です。)
2014-10-02 01:18:54
自分の足跡を振り返るように、文献を読んでます。
特に、自分が、いたころと、今でも風景が、ガラリと変わっておりますので、当時の写真も順次掲載させていこうかと、思ってます。
懐かしい故郷に出会ったような気分です。
また、御紹介いたしますね。
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