元禄二年(1689年)5月8日(陽暦6月24日)
その日、芭蕉と曽良は約5里の行程を歩きます。
おおよそ仙台から多賀城・塩竈へ。
その行程を見てみます。
国分原町(仙台市内)南目村~平渡戸橋(南目村)~びくに坂(小鶴村)~今市(岩切村)~岩切川橋
~十符菅~南宮村~市川橋(市川村)~壺碑~御祓川橋(塩竈村)~御釜社~野田の玉川~浮嶋~おもはくの橋(留ヶ谷村)~末の松山・沖の石
ざっと上記のようになってます。塩竈~末の松山は往復です。
前回、歌枕なるものをご紹介いたしました。
歌枕、なんでしょうか。
現代俳諧の気鋭、長谷川櫂氏(読売新聞『四季』選者・解説者でもあります)によれば、3つに分類できると、こう申しておられます。
特に「おくのほそ道」の解説はこうです。
これを見てみます。
一 実在する場所が歌の詠まれてできた歌枕 白河関、松島、宮城野、千賀の浦(塩竈 しほがま)
二 まず歌が詠まれて、次に場所が特定されてできた歌枕 遊行柳、信夫文字摺り石 武隈の松 末の松山
三 歌に詠まれても、どこにあるか不明の歌枕。つまり、どこにも存在しない歌枕 壺の碑
続けて、同氏は、こう話されておられます。
歌枕は長い戦乱によって滅んだ古い日本が生みだした名所です。遊行柳 (西行法師が「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」新古今集、山家集と詠んだことで有名となりました。芭蕉は 「田一枚植て立去る柳かな」と詠んでおります。現代の那須町です)が歌枕なるのにかかわった西行も遊行上人も観世小次郎もみな古い日本の歌は宗教家や能役者でした。
一方、芭蕉は戦乱午に誕生した新しい日本の最初の大詩人でした。そこで芭蕉が歌枕を尋ねるということは、新しい日本が古い日本を弔うことでもある。それは和歌という旧時代の文芸の遺産である歌枕を、新時代の文芸である俳句が確認し受け継ぐという意味を持ってました。
(NHK おくのほそ道 長谷川櫂 解説による 抜粋 2013年10月放映)
さて、歌枕を尋ねる。現代では情報が発達しておりますので、場所の特定、他。造作もなく、その場へ行くことは可能ですし、「今どうなっているのか」という芭蕉が最も気にしていた部分も簡単にクリアできるわけです。
当時、そのありもしない、あるかもしれない、行き方もまったくわからない。そんな状況で旅発つことが出来た芭蕉の凄さ。
これは、命がけといいうのも理解できます。
さて、その歌枕。
この芭蕉の歩いた5月8日に、どれだけの歌枕が存在したのでしょうか。
塩竈、多賀城、その周辺で見て見ます。
冒頭の写真は「まがき島」です。塩竈港内に残る、唯一の島となってます。
話は変わりますが、国道45号線から、ビックへ入り、尾島町を背にして、見上げると、尾島が島であったことが分ります。
一本杉しかり。塩竈は、その島々を埋め立てて、その発展があった訳です。
今と情景が全く違っております。
そのまがき島です。古今和歌集から。
わがせこを都にやりてしほがまのまがきの島のまつぞ恋しき
陸奥はいづくはあれどしほがまの浦こぐ舟の綱手かなしも 古今和歌集・東歌
見し人の煙となりし夕べより名ぞむつましきしほがまの浦 紫式部
塩釜の浦ふく風に秋たけて籬が島に月かたぶきぬ 実朝
しほがまの浦の松風霞なり八十島かけて春や立らむ 実朝
古の都人にとっての塩竈への思いというものは、相当なものだったのでしょうね。
最後の実朝の歌は、浦霞の謂われとも言われております。ラベルに書いてありますね。
さて、芭蕉の尋ねたそれぞれの歌枕の場所場所を見て見ます。
母方、祖父実家前。現在の塩竈市玉川一丁目付近です。
今、嘗て野田の玉川のあった場所はこの道路の下です。埋め立てられております。
しかし、この道の蛇行と緩い傾斜は、川があった事を偲ばせております。
昭和、30年代の写真です。
丁度、東北本線側からみた写真だと推察します、先のカラー写真の行った先、逆からの風景だと思います。
まだ、川が流れております。
昭和40年代までは、田圃がありました。
その野田の玉川はこう読まれております。
夕されば潮風こしてみちのくの野田の玉川千鳥鳴くなり 新古今集 能因
果たして、玉川とは。
日本六玉川(むたまがわ)というらしいです。
少し、寄り道ですが、見て見ましょう。
一 京都符綴喜郡井手町。井手の玉川
二 滋賀県栗田郡老上村。野路の玉川。萩の玉川
三 宮城県宮城郡母子川の末流 野田の玉川
四 和歌山県高野山奥院大志廟畔の細流。高野の玉川
五 東京都多摩川。調布の玉川
六 大阪府三島郡三箇牧村・玉川の里
いずれも、歌枕となっております。
玉川で鮒を捕ったのは小学校3年のときの記憶です。
浮嶋です。
芭蕉はここを訪ねます。
写真は「ひーさん」から頂きました。
(「ひーさんの散歩道 多賀城 浮嶋神社」より)
塩竈の前に浮きたる浮嶋のうきて思ひのある世なりにけり 新古今集 山口女王
陸奥へくだりつきて浮嶋にまゐりて祈りつつなほこそ道のおくにしづめたまふも浮嶋の神 橘為仲 同家集
先に、歌枕の分類に於いて、長谷川氏の私見をご紹介いたしました。
浮嶋を分類の例にはしてませんが、氏の解説を見るに、「実存する」に分類されていそうです。
しかし、浮嶋は島ではありません。
記録を紐解きます。
「浮嶋村多賀城ノ東塩竈ノ西南ニ在り。往昔海潮其ノ下ニ来ル」(奥羽観跡聞老志 観や意見県民生活局編 伊達の大木戸・松島・平泉・尿前 より参照)
とあり、社ありきで語られております。
しかしながら、冒頭の歌
「塩竈の前にうきたる・・・」とあって、塩竈浦にあった某島ではないか。こうする説も捨てがたいものです。
しかしながら、地名、社があり、それがそのまま芭蕉も祈りながらその前を通ったとされてます。
でも、この写真をご覧ください。
再び、昭和30年代のものです。
住宅地がなく、周りは田園風景です。当時の多賀城の様子ですが、社は森と一致するわけですが、他に浮かぶ島に見えなくもない。
そんな風に感じます。
散歩道ではその神社の謂れを、ひーさんはご解説されておられますが、「浮嶋のかみ」は、延久六年(1074年)の「朝野群載」三善為康から見られます。
「延久六年六月御卜、坐陸奥国、浮嶋鹽竈鳥海三社」とあり、これが、浮嶋とされる根拠ではあるのですが、これが多賀城の浮嶋を指すものかという確証はないようです。
しかしながら、否定する材料もなく、地名一か所であるから、「その公算が大」という説で落ち着いているようです。
酔漢の自転車散歩のコースを再び見ているようです。
高校生の頃、ただの風景であった場所が、それぞれ大きな歴史と人の思いとがあったのだと、この年になって気づいた次第です。
芭蕉と歌枕を巡る、故郷。
次回、「おもはくのはし」へと向かいます。
その日、芭蕉と曽良は約5里の行程を歩きます。
おおよそ仙台から多賀城・塩竈へ。
その行程を見てみます。
国分原町(仙台市内)南目村~平渡戸橋(南目村)~びくに坂(小鶴村)~今市(岩切村)~岩切川橋
~十符菅~南宮村~市川橋(市川村)~壺碑~御祓川橋(塩竈村)~御釜社~野田の玉川~浮嶋~おもはくの橋(留ヶ谷村)~末の松山・沖の石
ざっと上記のようになってます。塩竈~末の松山は往復です。
前回、歌枕なるものをご紹介いたしました。
歌枕、なんでしょうか。
現代俳諧の気鋭、長谷川櫂氏(読売新聞『四季』選者・解説者でもあります)によれば、3つに分類できると、こう申しておられます。
特に「おくのほそ道」の解説はこうです。
これを見てみます。
一 実在する場所が歌の詠まれてできた歌枕 白河関、松島、宮城野、千賀の浦(塩竈 しほがま)
二 まず歌が詠まれて、次に場所が特定されてできた歌枕 遊行柳、信夫文字摺り石 武隈の松 末の松山
三 歌に詠まれても、どこにあるか不明の歌枕。つまり、どこにも存在しない歌枕 壺の碑
続けて、同氏は、こう話されておられます。
歌枕は長い戦乱によって滅んだ古い日本が生みだした名所です。遊行柳 (西行法師が「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」新古今集、山家集と詠んだことで有名となりました。芭蕉は 「田一枚植て立去る柳かな」と詠んでおります。現代の那須町です)が歌枕なるのにかかわった西行も遊行上人も観世小次郎もみな古い日本の歌は宗教家や能役者でした。
一方、芭蕉は戦乱午に誕生した新しい日本の最初の大詩人でした。そこで芭蕉が歌枕を尋ねるということは、新しい日本が古い日本を弔うことでもある。それは和歌という旧時代の文芸の遺産である歌枕を、新時代の文芸である俳句が確認し受け継ぐという意味を持ってました。
(NHK おくのほそ道 長谷川櫂 解説による 抜粋 2013年10月放映)
さて、歌枕を尋ねる。現代では情報が発達しておりますので、場所の特定、他。造作もなく、その場へ行くことは可能ですし、「今どうなっているのか」という芭蕉が最も気にしていた部分も簡単にクリアできるわけです。
当時、そのありもしない、あるかもしれない、行き方もまったくわからない。そんな状況で旅発つことが出来た芭蕉の凄さ。
これは、命がけといいうのも理解できます。
さて、その歌枕。
この芭蕉の歩いた5月8日に、どれだけの歌枕が存在したのでしょうか。
塩竈、多賀城、その周辺で見て見ます。
冒頭の写真は「まがき島」です。塩竈港内に残る、唯一の島となってます。
話は変わりますが、国道45号線から、ビックへ入り、尾島町を背にして、見上げると、尾島が島であったことが分ります。
一本杉しかり。塩竈は、その島々を埋め立てて、その発展があった訳です。
今と情景が全く違っております。
そのまがき島です。古今和歌集から。
わがせこを都にやりてしほがまのまがきの島のまつぞ恋しき
陸奥はいづくはあれどしほがまの浦こぐ舟の綱手かなしも 古今和歌集・東歌
見し人の煙となりし夕べより名ぞむつましきしほがまの浦 紫式部
塩釜の浦ふく風に秋たけて籬が島に月かたぶきぬ 実朝
しほがまの浦の松風霞なり八十島かけて春や立らむ 実朝
古の都人にとっての塩竈への思いというものは、相当なものだったのでしょうね。
最後の実朝の歌は、浦霞の謂われとも言われております。ラベルに書いてありますね。
さて、芭蕉の尋ねたそれぞれの歌枕の場所場所を見て見ます。
母方、祖父実家前。現在の塩竈市玉川一丁目付近です。
今、嘗て野田の玉川のあった場所はこの道路の下です。埋め立てられております。
しかし、この道の蛇行と緩い傾斜は、川があった事を偲ばせております。
昭和、30年代の写真です。
丁度、東北本線側からみた写真だと推察します、先のカラー写真の行った先、逆からの風景だと思います。
まだ、川が流れております。
昭和40年代までは、田圃がありました。
その野田の玉川はこう読まれております。
夕されば潮風こしてみちのくの野田の玉川千鳥鳴くなり 新古今集 能因
果たして、玉川とは。
日本六玉川(むたまがわ)というらしいです。
少し、寄り道ですが、見て見ましょう。
一 京都符綴喜郡井手町。井手の玉川
二 滋賀県栗田郡老上村。野路の玉川。萩の玉川
三 宮城県宮城郡母子川の末流 野田の玉川
四 和歌山県高野山奥院大志廟畔の細流。高野の玉川
五 東京都多摩川。調布の玉川
六 大阪府三島郡三箇牧村・玉川の里
いずれも、歌枕となっております。
玉川で鮒を捕ったのは小学校3年のときの記憶です。
浮嶋です。
芭蕉はここを訪ねます。
写真は「ひーさん」から頂きました。
(「ひーさんの散歩道 多賀城 浮嶋神社」より)
塩竈の前に浮きたる浮嶋のうきて思ひのある世なりにけり 新古今集 山口女王
陸奥へくだりつきて浮嶋にまゐりて祈りつつなほこそ道のおくにしづめたまふも浮嶋の神 橘為仲 同家集
先に、歌枕の分類に於いて、長谷川氏の私見をご紹介いたしました。
浮嶋を分類の例にはしてませんが、氏の解説を見るに、「実存する」に分類されていそうです。
しかし、浮嶋は島ではありません。
記録を紐解きます。
「浮嶋村多賀城ノ東塩竈ノ西南ニ在り。往昔海潮其ノ下ニ来ル」(奥羽観跡聞老志 観や意見県民生活局編 伊達の大木戸・松島・平泉・尿前 より参照)
とあり、社ありきで語られております。
しかしながら、冒頭の歌
「塩竈の前にうきたる・・・」とあって、塩竈浦にあった某島ではないか。こうする説も捨てがたいものです。
しかしながら、地名、社があり、それがそのまま芭蕉も祈りながらその前を通ったとされてます。
でも、この写真をご覧ください。
再び、昭和30年代のものです。
住宅地がなく、周りは田園風景です。当時の多賀城の様子ですが、社は森と一致するわけですが、他に浮かぶ島に見えなくもない。
そんな風に感じます。
散歩道ではその神社の謂れを、ひーさんはご解説されておられますが、「浮嶋のかみ」は、延久六年(1074年)の「朝野群載」三善為康から見られます。
「延久六年六月御卜、坐陸奥国、浮嶋鹽竈鳥海三社」とあり、これが、浮嶋とされる根拠ではあるのですが、これが多賀城の浮嶋を指すものかという確証はないようです。
しかしながら、否定する材料もなく、地名一か所であるから、「その公算が大」という説で落ち着いているようです。
酔漢の自転車散歩のコースを再び見ているようです。
高校生の頃、ただの風景であった場所が、それぞれ大きな歴史と人の思いとがあったのだと、この年になって気づいた次第です。
芭蕉と歌枕を巡る、故郷。
次回、「おもはくのはし」へと向かいます。
奥の細道を線としてたどる旅、私も遅れを取らないように付いてまいります。
しかしそれにしてもその土地の風景というものは全く別のものへと変貌してしまうのですね。時の流れの「おそろしさ」のようなものを感じています。
人々が憧れた場所を尋ねた芭蕉でした。
目の当たりにしたとき。あまりにも、様変わり(と言いますか、人々の中で過大な美しさとなっていたり)している様子に、心を痛めます。
見張り員さんのコメントと同じかもしれませんね。
また、違った視点で故郷を御紹介いたしますね。
坐陸奥国、浮嶋鹽竈鳥海三社の浮島はここで間違いないでしょうね。ここは国府の敷地内ですから、いろいろと当時の関係の深さがみられます。 明日は天気が良ければ、松島の西行戻しの松に行ってきます。
以前の記事の写真がしょぼいので。
そもそも歌枕として使われる地名は、その言葉で想起する印象でもって、心象風景を表現するわけで、たとえば酔漢さんがあげている新古今集の山口女王の歌ならば「浮嶋」は心定まらぬ、まさに浮遊した心を描写しているわけです。
歌枕を扱うに当たって、その歌枕の風景や比定地の真偽も大事ですが、「歌」が先である以上、そこに酔漢さんなりの心象風景も描き出されるであろう事を、勝手に期待しています。
散歩道で勉強しております。
殆どが行った場所場所なのですが、深く考えることなく、おりました。
年取らないと分からない、と言いますか、興味の問題もあるのでしょうか。
奥の細道は奥が深いですし、難しいですね。
面白いです。
御高覧、ありがとう。
歌の意味の奥深さは、中々知るところではないのですが、せっかくだから、これを機に勉強かな。
少し、理屈ではなくて、感性で歌を詠むのも良いのでしょうね。