酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 誤

2010-03-07 12:57:18 | 大和を語る
 やはり気になりました。「おせっかい焼き」様からご指摘のございました「暗号翻訳」でございます。
今回はこの事につきましての補足とそして記事の事実が一つ解りましたのでこの事を皆様へお知らせしようと考えました。

酔漢が「暗号解読」と致しましたのは、能村次郎大和副長の手記とされます「慟哭の海」からの抜粋です。
「慟哭の海 戦艦大和死闘の記録」
この本の詳細ですが
昭和四十二年八月二十五日 第一刷
昭和四十二年九月一日 第二刷(手元にはこれです)
著者 能村次郎
発行者 鈴木敏夫
発行所 読売新聞

以上でございます。
この本の二十一ページを抜粋いたします。

「発連合艦隊司令長官、
宛第二艦隊司令長官」
「第二艦隊『大和』以下は、水上特別攻撃隊として、沖縄の敵泊地に突入し、所在の敵輸送船団を攻撃撃滅すべし」

司令部暗号班が受信解読したこの電報命令は、普通文に直して、まず、受令者である艦隊司令長官伊藤整一海軍中将に届けられ、長官から改めて麾下の各隊、艦に通達される。
命令の内容は、われわれを死地に導く冷厳深刻なものであった。

とございます。
酔漢、大和の記事を最初に読みましたのが、小学校三年時。知識もなく、(以来この書はこれまで何度も読みました)これをそのまま知識と致しておりました。
ですが、父との会話を記述しているうちに酔漢祖父の戦友「大高勇治」さんが「暗号翻訳が我々の最初の仕事」と話しているのを聞きました。
なるほど、他の書(例えば他の戦記物とか・・)では「敵の暗号を傍受そして解読」と出てまいります。
ですから、常識的に定義いたしますとやはり「見方どうしでの通信は『翻訳』が正しい」のです。
「おせっかい焼き様」のコメントでは「能村副長は元砲術長だったので暗号の呼び方には知識がなかったのはないか」というものです。
酔漢この推察には「なるほど」と思っておりました。
そして、この書「慟哭の海」から数ヶ月後、同じく読売新聞はその特集「昭和史の天皇」で「戦艦大和の最期」を記事に致しておりました。
昭和42年です。
ここからの抜粋を紹介いたします。
新聞記事は(切り抜き)は実家から送られてきましたが、掲載年月日のところが切り取られておりました。何月何日というのは定かではありませんが、(裏面がスポーツ記事でした。→30日午後九時半から藤猛対ポポロ戦が蔵前国技館特設リングで開催される  とございます)角川書店より文庫が出版されております。

「昭和史の天皇 終戦への道 上」読売新聞社編
平成元年七月二十五日 初版発行
発行者 角川春樹
発行所 株式会社角川書店

上記詳細です。新聞記事ですと「昭和史の天皇 106~の掲載 戦艦大和の最期」です。
記事の殆どが能村次郎副長の「慟哭の海」からです。他に証言多数掲載されておりました。
その三百八頁を抜粋いたします。

四月五日、突如、連合艦隊司令部からの機密命令。
いわく『第二艦隊大和以下は、水上特別攻撃隊として沖縄の敵泊地に突入し、所在の敵輸送船団を攻撃、撃滅すべし』と。
司令部暗号班が受信翻訳したこの電報命令は、普通文に直して、まず艦隊司令長官伊藤整一中将に届けられ、長官から改めて麾下の各隊、艦に通達された。(あとで参謀から聞いたことだが、さきの行き先明示のない出撃準備命令が来たとき、長官はたぶん沖縄行きだろうが、オレは反対だ、と強く言っていたが、ほんとうの命令を受けたときは何もいわなかったそうだ)

ここでは、同じローケーションでの描写ではございますが、明らかに同じ文でありながら「解読」ではなく「翻訳」となっております。

この「慟哭の海」と新聞掲載「昭和史の天皇 戦艦大和の最期」は同じ年(昭和42年推察)
でありながら数ヶ月「慟哭の海」の方が早く出版されております。
「読売新聞社が『慟哭の海』の内容の誤りを新聞掲載時に訂正していたのではないか」
と酔漢は考えました。

能村副長が大和右舷一番砲塔脇で「日向ぼっこ」(副長失礼致します!)をしている時に有賀艦長がにこにこしながら(実際はにやにや・・・だと思うのですが・・酔漢流)近づいてその命令書を(紙切れ)これもあんまりにも無造作だとは思いますが・・能村副長に手渡すというシーンは多くの書に書かれております。いくつかの書はそのまま(慟哭の海 二十一頁より)抜粋されております。やはり「暗号解読」と書かれておりました。

この事実を知りましたのも、「おせっかい焼き様」からのご指摘があったからです。
改めまして御礼申し上げます。

さて、能村副長は退艦命令が出た後、この戦闘記録を残されておられます。

私が第二艦橋を離れようとすると、たったいま、私が握って有賀艦長に「総員最上甲板」の下令をお願いした電話機の紫色のランプがつき、ブザーが鳴った。「艦長からだ」と思って、あわてて戻り、電話機を握ると、果して艦長からだった。
受話機を通して、比較的落ち着いた有賀艦長の声が聞こえてくる。
「副長!副長はただちに退艦して、この戦闘状況を詳しく中央に報告しろ」
「艦長・・・・」というわたしの言葉をさえぎって、
「おれは艦に残る。必ず生還して報告するんだぞ」と重ねていう。
「艦長、私もお供いたします」
有賀艦長は、
「いかん!副長、これは命令だ」
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)

上記の経緯を経て、「慟哭の海 戦艦大和死闘の記録」出版の運びとなります。
読売新聞社は先の「昭和史の天皇」をはじめ「戦後六十年 特集」でも「大和の記憶」を新聞掲載いたしております。
この顛末を広く知らしめました事は事実でございます。
ですが、「慟哭の海」を改めてその文を読んでおりますと、巻末に「戦没者名簿」が記載されておりますが、それも誤りがあったり致します。これは致し方のないことと考えますが、先の「解読」「翻訳」はやはり「副長がしらない訳はない」と考えるわけでございます。
編集時、または記載時にあやまったか「副長自らが書いたもの」ではなく「副長の記憶を語っていただき、それを編集した」とみるのがよろしいのではないかと、考えました。
同じく「矢矧艦長 原為一 著『帝国海軍の最後』」はその文体から「原艦長」自らが書いた物と推察いたします。

誤りと申せば「原勝洋著 『真相戦艦大和ノ最期』」です。慰霊祭のとき、酔漢の頭をなでてくれました清水芳人、大和副砲長です。同著では「清水副砲術長」と記載されております。丹治さんからもこれは指摘されております。「副砲術長」とうポジションはございません。清水さんは「副砲の長」なのでした。
原さんの他の著では「清水副砲長」となっておりますので、この誤りはこの著だけだと知りました。

この「くだまき」も多々誤りはあるのでしょう。
皆様からのご指摘は真摯に受けとるよう努めます。
今後とも宜しくお願いいたします。

今回も四月五日を語らずに終わりました。
次回は燃料、そして大和最期の酒宴の模様を、お伝えいたします。
酔漢祖父の呑んでいる写真が見つかりました。
中国広東です。やはり「酔漢!」なんとまぁ・・・鉢巻締めて三味線片手に・・。
大和ではどうだったでしょうか?

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11 コメント

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Unknown (おせっかい焼き)
2010-03-07 15:45:18
>この事実を知りましたのも、「おせっかい焼き様」からのご指摘があったからです。
改めまして御礼申し上げます。

過分なるお言葉をいただきありがとうございます。

>先の「解読」「翻訳」はやはり「副長がしらない訳はない」と考えるわけでございます。
編集時、または記載時にあやまったか「副長自らが書いたもの」ではなく「副長の記憶を語っていただき、それを編集した」とみるのがよろしいのではないかと、考えました。

これについては、ちょっと判断がつきかねますが、酔漢様指摘の可能性も一概に否定もできないように思われます。

本ブログを始め、酔漢祖父様の戦友ということで大高勇治氏の名前が何回か出ています。そこで今回大高勇治氏の著書『海の狼』(光人社、H17年発行)を取り寄せて読んでみました。ところがいろいろ疑問点が出てきました。酔漢様は大高氏とは面識があったようですので、もし下記の点につき、ご存知のことがありましたら教えて下さい。

①まず大高氏はS56年に亡くなっていますので、『海の狼』は同氏の死後24年経ってから出版されたことになります。生前に自費または別の出版社で出したものを今回光人社が再出版したものか、あるいは大高氏が生前書き遺していた原稿を、遺族(とは限りませんけども)が光人社に持ち込んだものか、同書になにも書かれていないので、よく分かりません。
私が知る限りでは、同じ著者になる『テニアン』という本がS26年に光文社(光人社ではない)から出版されています。この本は第三二一海軍航空隊通信士としてテニアンにいた著者が、同島陥落後も生き残り、20年6月米軍に投稿した経緯を書き綴ったもので、それ以前のことについてはなにも記述されておりません。
酔漢様がお持ちの本はやはり光人社版でしょうか。それとも大高氏が『海の狼』と同じ内容のものを生前に自費または別の出版社で出したのものをお持ちなのでしょうか。

②『テニアン』では、19年6月当時少尉であったと明記されていますが、いつ少尉になったかは、どちらの本でもはっきりしません。他人に語らせるというあいまいな記述によれば(『海の狼』86ページ)、16年春ころには少尉だったようです。しかし19年5月1日現在の特務士官の現役、予備役を問わず全員が収録されている「昭和十九年度水交社員名簿」に大高勇治という名前はありません(ただ小さいころ母方の伯父の養子になったということが書かれています。これで名字が変わった可能性も考えられますが、両方の本とも一貫して大高姓で記述されています)。どうして「水交社員名簿」に出てこないのか不思議でなりません。

③「班長は海軍二等兵曹三島〔島は原文のまま〕正造、水雷屋である。……名乗らなくとも、その見事なズーズー弁で宮城県出身であることがわかる飾り気のない男だ。」(『海の狼』43ページ)とあります。三嶋二等兵曹のことはここしか出てきません。ここでいう「水雷屋」というのは、私には水雷学校で水雷術を専修したことを示しているように感じます。
三嶋班長が通信出身であり、そのことを著者が認識していたならば、例えば「私と同じ通信学校高等科卒業の先輩である」というように書くのではないでしょうか。
また、この本によりますと、著者が通信学校高等科を卒業したのは「昭和3年5月某日」としています(『海の狼』21ページ)。そして卒業後すぐ駆逐艦「菊」に乗艦したことになっています。となると三嶋班長が二等兵曹というのはおかしくなります。なぜなら三嶋班長が二等兵曹となったのは昭和8年5月1日だからです(貴ブログの履歴から)。
明らかに「昭和3年5月某日」は昭和8年~10年の間違いでしょう。『海の狼』には横須賀海兵団に何年何月に入団したという記述がなく、海軍に入った経緯も面白おかしく記述されています。『テニアン』の奥付の前にある著者の略歴によれば「中学中途にして海軍に入る。時に十九歳。」とあります。M42年1月生まれなので逆算するとS2~3年に入団したことになります。
三嶋少尉の履歴に○年○月○日普通科○○練習生、高等科○○練習生卒業という記載、また「菊」乗組に関する記載はあるのでしょうか。もし差し支えなければ、ご教示いただければ幸いに存じます。

④貴ブログには「通信室と言えば、艦艇の中では『艦長室』に次いで豪華なことと相場が決まっていた。だがこの駆逐艦『菊』ではどうか。通信機はおいてあるもののボロボロのレシーバーとメモ紙に使う紙がそこらじゅうに散乱し机も木製の足がしっかりしていないしろものであった」大高勇治氏証言(「海の狼 第七駆逐隊」著者。酔漢祖父の戦友)とあります。
光人社版には、上記のような記述がありません。出典は著書ではなく、大高勇治氏の証言と考えてよろしいのでしょうか。

⑤さらに大高勇治氏の証言として「丁度、呉に大和が停泊していたその後、一度だけ酔漢祖父に会いました。このとき酔漢祖父さんは『大和のいたるところに銃弾の跡があって、すさまじい戦闘の様子だったんだなやなと思っていたら、水兵達がなにやら掃除をするために、バケツの中に何かいれてんのっっしゃ。何してんだべっておもったらっしゃ、人の肉さあば拾ってんだおん。おらたまげたっちゃ。まんずこげなとこさぁいらんねぇって思ったっちゃ』って言ってました。これ本音だったっと思います。戦争中だったとはいえ、これまで前線へ行ったことがなければ、そうだと思います」と貴ブログ(2009.11.6)に書かれています。
しかし大高氏は『テニアン』によれば19年4月から終戦までテニアンにいました。当然19年11月から大和沈没までに三嶋少尉に会うことはできなかったはずです。酔漢様の記憶に間違いがなければ、この証言は真に理解に苦しむものです。

私の穿鑿好きが出てしまい、長文になりましたこと、および酔漢祖父様の実名を出したことご容赦下さい。
返信する
おせっかい焼き様へ (酔漢です)
2010-03-07 19:22:45
ご指摘の内容は酔漢自身も疑問に思っておった事でございます。この件は大和の話しが一段落した際、そして父への聞き取りが再度必要と考え、今度帰塩したときに聞こうと考えておりました。
大高さんと祖父がどこで会ったかはこれは駆逐艦の中であろうというのは正しいのかと思います。祖父は大高さんがご結婚するとき、仲人をしております。
父からは「大高さんは何か本を書いている」と大分前からはなしておりましたが、父もその所在については知らず、この「光人社」のものを丹治氏から教えられ酔漢もそして父も知ることとなった経緯がございます。
さて、先に「祖父からの話」についてですが、これは昭和43年大高さんが来塩した際(酔漢実家と叔父の家に5日間滞在)大高さんから聞いたと父が話しをしておるところからです。これも不思議ですが、父は日ごろ「2Fが呉で大和乗艦したとき、一度大和から降りて海軍省に戻った」と話しております。「これはありえない」と酔漢は思うのですが、その動機となったのが本文にいたしました、大高さんが伝えたとされる祖父の言葉だったと父は申すのです。おせっかい焼き様の言うように、酔漢も理解しがたいことなのです。
テニアンにいた大高さんがどうして祖父の言葉を知っているのかこれは不思議です。
「水雷屋」という言葉はおかしいと感じました。やはり「水雷」ということはないのだとこれはその通りです。祖父墓石にはその事が記載されており、または七ヶ浜祖父の実家(宮城県七ヶ浜)へ行きますればその履歴は残ってはいるのでしょうがこれも会わせて今度詳しく調べようと思っております。
履歴書は祖母が取っていたものをそのまま掲載しておりますので間違いはないでしょう。これから逆算しますとやはりご指摘の通りとなります。「菊」乗艦については、これは大高さんの書により始めて知った事実です。父も同様です。比叡時代の写真はございますが、その記録もあいまいで、祖父の具体的な乗艦記録は乏しいのが事実です。広東、上海のように陸戦隊随行の写真はあるのですが、どのような役割をしていたのかは定かではございません。
通信室の内容は抜粋です。光人社にもあったかと記憶しておりましたが(本からそのまま抜きましたので、実家に帰しました)これは直ぐ様確認いたします。
苗字が変わった事実は父から聞いております。旧姓がどうだったかも含めて確認いたします。
現在も奥様が横須賀市田浦に在住でございます。ご長男がヘリコプターの事故で亡くなられており御次男夫婦と共に過ごされていると聞きました。出版の経緯はよく知りませんが、何か解りましたらお知らせしたく存じます。

詳しいお知らせ重ね重ね感謝いたしております。本当にありがとうございます。
祖父の実名はこのコメントには必要でしょう。
削除せずこのままといたします。
どうぞお気になさぬよう。
こちらこそ、具体的な回答にならなく申し訳ございません。時間を頂けますでしょうか。
酔漢自身も知りたい事実なのでございます。
長文になり申し訳ございません。
やはり本編にてお知らせしようと考えております。
不備多々。ご容赦下さいませ。
返信する
酔漢様へ (おせっかい焼き)
2010-03-08 15:09:05
早速ご回答をいただき感謝申し上げます。やはり疑問をお持ちでしたか。お手数をかけますが、調査結果の発表期待しております。

返信する
暗号 (ひー)
2010-03-08 17:45:31
面白いところに注目されましたね。
お二方のやり取りの成果ですかね。
普通ならそれ程疑問にもしないで通過してしまうところです。

敵の暗号は、解読。
確かに辞典にも解読には、暗号……の文字が見られますね。

勿論日本軍も暗号を使いますが、それは敵国から見れば暗号でも暗号を知っている者にとっては暗号に非ず。
よって翻訳するだけと言うことですね。

そして、噛み砕いた説明と参考資料、お見事でした。
返信する
真冬に逆戻り (クロンシュタット)
2010-03-09 05:55:48
沈み行く艦と運命を供にする。
この行為を、逆に「命令」として禁ずることが出来なかったのでしょうか?
玉砕は禁止である。捕虜となって後方を撹乱せよ。
特攻やバンザイ突撃は間違いである。ゲリラ戦を展開し最後まで抵抗せよ。
「命令」は出ませんでした。

小野田さんが発見された際、「命令」が出なければ帰国しないと主張したことを記憶しています。
そうして形だけでしたが「命令書」が読み上げられた場面がありましたね。

仕事上の「命令」には、ずいぶんと「こっそり」逆らってきました。
永遠に出世できない私がおります。
返信する
『慟哭の海』と『海の狼』 (丹治)
2010-03-09 17:07:40
『慟哭の海』における「解読」か「翻訳」かの問題ですが、
「おせっかい焼き」さんと酔漢さんのやり取りでほぼ結論が出たようですね。

能村さんのマークは、確かに通信ではなくて砲術です。
しかし味方の暗号電文を平文に直す作業を「翻訳」ということは、
兵学校出身の士官だったら知らぬはずは無いと思います(通信術の用語の定義としては基本だと思いますので)。

ですから能村さんが直接の著者ではなくてゴーストライターがいたか、
能村さんのへの聴き取りを第三者が編集。
その段階で当時の用語に関する知識の不足から、「翻訳」とすべき所を「解読」と誤記。
それが能村さんの監修を経ぬまま世に出てしまったと見るのが妥当なのではないでしょか。
だとすれば、読売新聞による掲載の際に「解読」が「翻訳」に改められているのも、
指摘を受けての訂正と頷けます。

大高さんの『海の狼』ですが・・・
自費出版か他社から発行されたものの再刊ならば、
奥付などにその旨が記載されているのが普通です。
しかし『海の狼』にはそれらしき記述は見当りません。
やはり大高さんが原稿の形で残しておいたものを、
亡くなられた後に、その存在を知っていた御遺族か関係者が出版したのではないでしょうか。

「おせっかい焼き」さんの投稿にある『テニアン』は、残念ながら詠んでおりません。
しかし昭和二十六年という発行年には大いに意味があると思います。
昭和二十六年というのは、サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立を回復する前年ですね。
だとすれば『テニアン』は、「玉砕の島からの奇蹟の生還」ということで価値が認められたのではないでしょうか。

仮に『海の狼』の成立年代が『テニアン』と同じ時期だとすると、
内容と当時の出版事情からして、出版を引受けてくれる書店はなかったと思います。
あの吉田満さんの『戦艦大和の最期』ですら、
昭和二十六年に『創元』掲載のはずがGHQの検閲に引っかかって全文削除。
翌年に出版された際も口語文に直させられた上に伏字だらけだったそうですから。

大高さんの『海の狼』を読んだ正直な感想は、
「面白い!」の一言に尽きます。
海軍愚連隊というか、兵隊やくざ海軍版といいますか、
軍隊生活の大らかな一面が余す所なく描かれていると思います。
ゲラゲラ笑ったり、思わずニヤリとした箇所が幾つもありました。

ネズミ上陸の話然り。
「何ヲヤッテイルノカ」「水死体ヲ収容中」「検死ノ要アリ、死体ヲ一部本艦ニモヨコセ」の話然り。
これなど正に、酔漢さんのお爺様の「教練対潜戦闘!」そのものですね。
後日談も含めた横須賀海軍病院ガマガエル事件また然りです。

面白い内容をさらに面白くするのか、
講談調とも言える大高さんの語り口です。

思うに大高さん、
正確な記録を残すというよりは当時の雰囲気を伝えたかったのではないでしょうか。
らしい雰囲気を伝えるためには、多少はフィクショナルな要素を取り入れることもあり得るはずです。
たとえば酔漢さんのお爺様が通信ではなくて、水雷のマーク持ちになっている点がそうです。
駆逐艦の主要兵器は、何と言っても魚雷です。
だとすれば「少々お行儀が悪いながらも底抜けに陽気な」駆逐艦乗り気質を表すためには、
牢名主的な人物は水雷科にするのが最適。
(アメリカ海軍でも「ティン・カン・ネイビー」と称する似たような駆逐艦気質があったようですね)。
それで酔漢さんのお爺様を敢て水雷屋にしたのではないでしょうか。
軍人が戦友の術科を間違うはずがありません。

しかし個人の手記を史料として利用する場合は、それなりの史料批判が必要になります。
大高さんのご本の場合だと、
個々の箇所における事実か創作かの検討、
事実誤認の有無の検討が該当するでしょうか。

たとえば『海の狼』には美保ヶ関事件のことが書かれています。
大高さんによれば神通艦長の水城大佐は艦上で切腹したことになっていますが、
実際には自分に不利になることを承知で、「責任はすべて自分にあり」と証言した後に
自宅でカミソリを使って頚動脈を切っています。

自宅での自決を艦上での切腹とするなど、
当時のマスコミでもそこまでのヤラセ報道はちょっと考えられません。
これなど「海軍部内では(特に下士官兵社会では)艦上の切腹という風聞が広まった」という辺りかと思います。

現場の人物、特に下積みの人物、
正確に知っているのは自分の関係した部分だけなのが普通です。
これが下士官兵の記録なのに大局的なことまでが正確に分析されてたりすると、
却って記録としては怪しいということになるのです。

江戸時代までの文献であれば、「偽書」の疑いが生ずることになるわけですね。
『海の狼』における美保ヶ関事件の誤記は、
大局に関する情報を入手しづらい下士官兵の手記の特徴がよく出ていると思います(もちろんのこと変な意味ではありません)。

 「おせっかい焼き」さんが提示された疑問が解けるといいですね。
そうすれば酔漢さんのお爺様と大高さんの間柄についても、
もっと色々なことが分ってくると思います。

追伸1
通信室云々については、稿を改めてお届けします。

追伸2
海軍軍人の手記に関する事実の考証に関しては、
阿川弘之さんの『軍艦長門の生涯』にいくつかの実例があります。



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ひー様へ (酔漢です )
2010-03-12 18:55:13
暗号はアメリカはある程度(と言うよりは相当数)解読に成功しております。
この大和以下出撃に際しましても解読に成功しております。
少し後になりますが、その辺を語りたいと思います。
返信する
クロンシュタット様へ (酔漢です)
2010-03-12 18:58:27
そうですね、命令、指示。時には背くこともありますれば、サラリーマンの世界ではありますよ。ですが逆らえることの出来ない状況が発生も致しております。
伊藤整一司令長官の本音に少し迫りたいと考えております。
解釈の違いかもしれませんが。
これから語る事といたします。
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丹治様へ (酔漢です )
2010-03-12 18:59:55
大高さんの書につきましては、今後調べます。少し、電話でお話した経緯ではあります。
大和の話しの戦後編として整理いたします。
また貴重な情報ありがとうございました。
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大高勇治氏について (たく)
2010-11-26 15:22:29
大高勇治氏は最終的にはテニアンにいたと思われ、S19.8.2に戦死として一度任海軍少尉の発令がなされています。ただ実際にはS20.6まで占領後も頑張られて、捕虜になり生還されたようですよ。普通捕虜になると任官取消になりますが、実際は10ヶ月も頑張られているので、定期進級に追加になった可能性はあります。兵曹長のままとされたか、後日少尉任官の発令が追加されたかは今のところ公式文書ではでてきませんのでわかりません。
ちなみに三嶋正造氏は最終中尉で大和で戦死のようですね。大正14.6入団のようです。
返信する

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