酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 宴

2010-03-12 13:27:02 | 大和を語る
GF電令作第六○七号受領後、徳山湾におりました1YB(第一遊撃部隊→大和以下二水戦)は出撃準備を急速に進めております。
その日の午後偵察と見られるB-29一機を上空三百(3万メートル)に確認いたしました。

「燃料の補給は夜間に行う」
偵察機の目を避ける為でもありました。
結果、艦隊搭載燃料1万1500トンを補給することとなったのです。

(上記補足です。東海大学鳥飼先生Hpでは1万1500トンとなっておりますが、小林儀作GF機関参謀の証言によりますと1万500トンとされております。
実際大和以下駆逐艦も含めて重油搭載量を算出いたしますと1万500トンとなります。
補足ならびに付け加えます。2010年3月18日 18時45分 記載更新。酔漢。)

GFはこれまで燃料不足の理由から2Fが出撃に反するということを恐れておりました。実際、最初の調査では「沖縄までの燃料は確保できない」と結論されておりました。しかし、神大佐がこの作戦をゴリ押しした背景には「燃料はある」と判断したからです。
軍令部指示によれば
「出撃兵力及び出撃時間は貴希望通りとするが、燃料については戦争指導の要求に基き連合艦隊機密電どおり二千トン以内にすること」
でございます。
ですが、帳簿外の燃料は、それには及びません。

各艦に往復燃料を補給する。然し聨合艦隊命令で重油は片道分のみ補給と命令されていたので、片道分は帳簿外燃料より補給す。
補給船には往復燃料を搭載する様に命令する。上司報告には片道分の重油搭載を発令したが、積み過ぎて余分を逆に吸い取らしたが、出撃に間に合わないのでその様にした。
(GF参謀 小林儀作大佐の手記より抜粋)

上記の事実は、2F機関参謀松岡茂大佐の了解を取り付け、呉鎮守府機関参謀今井和夫中佐から帳簿外燃料を入手したことを裏付けるものです。
ですから大和には4千トンの重油が搭載されます。満載塔裁量6千3百トンの大和ですから、4千トンであれば、戦闘航海を考慮しても沖縄から本土往復には十分すぎる程の燃料だったと言えます。(通常航海では可能です。戦闘状態では不可能かもしれません)海軍中央部はこの事を黙認いたしております。

従って直ぐ今井参謀と一緒に上司である呉鎮守府先任参謀井上憲一大佐、参謀副長小山敏明大佐、参謀長橋本少将に報告して承認を得る。今井参謀は直ちに呉海軍軍需部長に命令を出し、各艦に重油搭載を命ず。
(GF参謀 小林儀作大佐の手記 東海大学鳥飼研究室資料より)

大和では月型駆逐艦八番艦「花月」より重油が移載されます。(大和より少尉候補生をこの後乗せています。前回記事に詳細)

三一戦隊の主力は丁型駆逐艦で、高速艦隊の随伴はむりであった。月型は駆逐艦ながら約一千トンの燃料を搭載できる。花月は前日、燃料を六百トン搭載し、ほぼ満載であった。燃料、弾薬の移載が令され、花月は大和の左舷に横付けして燃料を移動し、涼月、冬月に九三式魚雷を二本ずつ移載した。
(花月水雷長 寺部甲子男 手記より抜粋)

ここで言う「帳簿外燃料」です。燃料タンクの底の重油は在庫として報告されておりませんですから、電動ポンプでは吸い上げられません。手押しポンプで集めなければなりません。
これらを全て集めての燃料搭載となりました。
重油搭載量は旗艦「大和」4千トン、「矢矧」1300トン。駆逐艦 各 満載。
合計1万1500トン。
この量は駆逐艦においては、沖縄から呉まで往復して有り余る等搭載量です。
まとめて語る事といたしますが、「この意図するところ」はどういう事なのか。
「片道分燃料ではない」ことは確かなのでございます。
酔漢は2通りの仮説を立てました。
後程、「私見」として語ります。

時間を見てみましょう。
大和が「花月」「朝霜」から燃料を移載したのが四月五日午後六時十五分~六日午前二時前までです。その間、大和では最期の酒宴が催されております。
「酒保開ケ」です。

艦内の片付けも明るいうちに一通り終わったので、日没後「酒保ひらけ」を令して、最後を飾る艦内壮行会を催した。
艦長は平素、艦長室でひとり起居される規定なので、艦内でわれわれと会食するなどの機会は滅多になかった、そこでわたしども副長以下、分隊長級(大尉級)までがいる士官室では、艦長をお招きして、食事を共にし乾杯談笑した。
私は宴の最中、有賀艦長と連れ立って艦内を一巡する約束だった。
(能村次郎 大和副長 手記)

小林昌信さんは生還者として「大和ミュージアム」でも語り部としてビデオ公開されておる人物です。

夕食後、各分隊ごとに居住区で分隊長をまじえて車座になり、もらってきた酒やビールで宴会がはじまった。
宴会といっても、アルマイトの茶のみ食器に酒を入れて飲むのである。シャバのようにマグロの刺し身や天ぷらなどがあるわけでもなく、あるのは落花生、羊羹、長久飴、あとは炊事場からもらってきたタクアンなどである。私達二十五番機銃員もみな大いに意気が上がり、腹の底から故郷の歌、あるいは替え歌などを思い切りがなりあうのであった。
「人のいやがる海軍に志願でくるよな馬鹿がいる」などなど。この時ほど、私達少年兵にとって楽しい時間はない。(中略)日ごろ艦内にいたるところ、どこへ行ってもすれ違う人、みる人のほとんどが上官や古参兵であったから、この能村副長の無礼講の指示ほどうれしかったものはない。私達下っ端の兵隊たちはこのときとばかり、世間話や訓練でつらかったことなど、心おきなく話あったのであった。
(小林昌信さん手記→遺族会には必ずご出席されておられます。父は徳之島と靖国神社で会っております。矍鑠としたおじいちゃんです)

この「酒保開け」の様子で必ずと言っていいほど登場いたしますエピソードです。これは「吉田満」さん著「戦艦大和ノ最期」に書かれているシーンです。「男たちの大和」でもそうでした。
一次室の様子です。
「この作戦の意味があるのか」
「死して何が残るというのだ」
予備仕官達でございます。痛烈な批判。本音でしょう。
「俺達は学業半ばで軍人になったのである。無意味な死に方はしたくない」
「何を!死することに意味があるのだ!貴様何を言っているのだ。国の為、大君の為に死すること自体に意味があるのだ。それ以上に何が必要か!もって瞑すべし」
「それは、頭の中では解る。解るのだ。だが、一体どういう事なのだ!意味が解らん!その価値がどうなるというのだ」
「ヘ・り・く・つ!をいうなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!貴様と今同じ艦にいると思うと反吐が出る!いいか、今一度言う『天皇陛下万歳』と死ねて貴様は嬉しくないのか!」
「嫌だ!それ以上に自分の何かが必要なんだ!」
「ふざけているぅぅ。貴様。性根を叩き直してやる!」

ついさっき、副長と艦長が訪れた一次室。艦長の胴上げで場は盛り上がったはずでございました。しかし、この発言で一次室は修羅場となります。
兵学校出身者と学徒出身の予備仕官達。若い彼等の死生観のぶつかり合いでございます。
殴り合いの喧嘩開始です。
喧嘩を一蹴した臼渕磐大尉です。
「何をしているのか。お互いを信じられなくて艦が動くか!皇国の興廃がかかっているのだぞ。思い切って戦う。これ意外に何があるというのだ。俺は全員の健闘を祈る!今はこれしか頭にないのだ。そして二つ言いたいことがある。一つは俺も貴様達のように人生を考えるのが好きだということだ。もう一つは江田島出の若い連中は、あの世界しか知らんのだから勘弁してやれ。今日は俺に免じて収めて欲しい」

この場におりました「渡辺光男さん」です。祖父を知る数少ない生還者のお一人です。
(予備学生。大和通信室におられました)

仲間達はまだ酒を酌み交わしていたが、私はそっと抜け出して最上甲板に出た。飲めない酒のためか、頬をなでる風が心地よい。先ほど部下達に「故郷へ手紙をだせよ」と言ったが、私自身は今さら通信しても、何故が未練がましく思え、ただ東に向って、「皆々様のご安泰をせつに祈る。今までの親不幸をひとえにお詫び申し上げます」と言葉に出さず静かに頭を下げた。ふと気付くと、担当の者が甲板に出ていた。そして誰ともなく、同期の桜を歌いはじめたが、これに合わせるかのように肩が組まれ大きな斉唱となっていった。
「警戒体制下だからやめよ」と言ったが、その彼もいつもの説得口調ほど強くはなかった。
彼も人であった、しばしたたずんでいたが、歌っているものの頬に伝わる涙を見たとき、副直将校の目にも光るものがみられた。この涙も今宵かぎりだろう。ならば思い切り涙を流そうではないか。私も人の子である。
(渡辺光男さん手記より抜粋)

酔漢祖父はこのとき「どこ?」です。おそらく二次室(二次士官室→兵学校出身ではない士官の部屋です)です。
「まんずあんだらも呑まいん」です。
これ「酔漢の台詞」です。「鴨鶴」「千福」あたりだったかも。ビールは好きだと聞きました。たばこは「しんせい」です。これ以外吸うことはなかったと聞きました。
祖父は(これもまとめて語りますが)2Fに所属することは「前戦へ行く」というよりは「生きながらえる為の移動と考えた」のではなかったと推察いたしております。
「今いる艦は沈まない」と言っていた、と、父は話しております。「大和」は機密ですので「艦名」は家族にも秘匿事項なのでした。
それが、直前に来ての「覚悟」なのです。
そりゃぁいつものように?呑めないわけでしょうが・・・。
遅れました。写真です。
「昭和16年、4月28日。広東」とあります。
笑っている(おふざけでしょうか?)祖父の写真は少なく。これは突出しております。
「三味線が弾けるか」ですが、これはただ持っているだけかもしれません。
酒はやはり好き。これは酔漢以上でございます。
ほんの少し、二次室の様子がわかる件がございます。

年長者の多い第二次士官室および准士官室は、海軍に永年勤務し経験歌かな人ばかりであるから、この期におよんでもさすが冷静そのもので、艦長とわたしが顔をだしたときにはすでに食事もすみ、三々五々より合って杯を重ねながら、静かに談笑する者が多く、これが余命いくらもない人々の集まりかと思われる落ち着きようであった。下士官の居住区では軍歌を合唱するもの、分隊長、分隊士を迎えてその話を謹聴もの、班長、古参兵の武勇談に夢中で聞き入る者、貴重な時間の流れ行く艦内の夜は静騒さまざまであった。
(能村次郎 大和副長手記)

祖父が淡々と酒を呑んでいるシーンを想像します。
はたしてどんな話を宮城語で語っておりましたものやら。
想像するしか手はないのでした。

矢矧艦内。
こうです。
牛飲というか鯨飲とおうのであろうか、酒豪ぞろいの強者多数。踊りたい者は踊る。歌いたい者は歌う。かくし芸も出る。
(原為一 矢矧艦長 手記より抜粋)

これはかなり・・・凄い芸がでております。これは控えますが・・実は面白い!

「今日はみな愉快にやって大いによろし。これでやめよ」
副長の声がマイクで大和艦内に響きます。
この一言から頭のスイッチを戦闘体制にしなくてはなりません。
4月5日。
もうすぐ日が変わります。
4月6日を迎えます。
















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無礼な人生を送っております (クロンシュタット)
2010-03-14 06:42:08
中学・高校の部活動も大学のサークル活動も、常に上下の関係を超越した「無礼講」状態でした。
後輩へのいじめやしごきとは、まったく無縁の学生生活でした。
そりゃ上級生への敬意は常識的に持っておりましたが、それだけのことです。
そういった組織を選んだこともあるのですが、リーダー的立場に立って、率先して作り上げた部分もあるのです。
中学では部長の私が「先輩への無用なあいさつ」(今でも全国で存続しているのでしょうか)を禁止したこともありました。
どうしても軍隊的ヒエラルキーが許せない半生を送ってきたわけです。
父親への反発心が背景にあったのでしょうかね。

・・・それ故、サラリーマン生活には、未だもって溶け込めないでおります。
「ペコペコ礼だけをしていれば済む」そんな場面には、この年齢になっても耐えられません。

出撃前の無礼講。よく描かれる場面ですが、私には酔えない気がします。
届くはずもない家族への手紙を書き連ねている自分の姿を想像します。


返信する
クロンシュタット様へ (酔漢です )
2010-03-15 19:08:46
果して自身は?と自問自答いたしました。
クロンシュタット様の気持がよく解る?かも知れません。
私の会社での評価は急上昇と急降下の連続ですから・・・。

祖父はその時間どう過ごしていたのか。知りたいのですが、知る術がございません。
生還者の方々でもその様子を知る方はおりませんでした。
もしかしたら、一緒にいた方全員が戦死されたとも考えられます。

お体の具合はいかがですか?
返信する
・・・・ (丹治)
2010-03-16 18:15:10
それにしても酔漢さんのお爺様、
実に屈託なく笑っていらっしゃいますね。
お顔がお父様に、それと体型も含めて従弟さんにソックリです!

日本人が家族を思う心は、戦前も戦後も変りありません。
しかし新兵時代から苦楽を共にした同年兵の絆は親兄弟よりも固いとも聞きます。

出撃前夜の無礼講・・・
小生だったらどうでしょうか。
戦前の教育を受けていないので、何とも言えません。

すべての手紙を書き終えてバカ騒ぎをしているか、
それとも騒ぎをよそに寝床で本を読んでいるか、
はたまたクロンシュタットさんの仰るように手紙を書き続けているか・・・

小生の中には、
大酒を食らってバカ騒ぎしている自分と
バカ騒ぎの輪に入れずに一人でいる自分が
同居しています
(概ねその席の顔ぶれや雰囲気によりますが)。

「酒保開ケ!」の無礼講に混じっていなかったという例を一つ。
二水戦の駆逐艦「初霜」の話です。
艦長の酒匂雅三少佐が艦内を巡視していると、
一人の機関兵が作業衣を真っ黒にして機械に油を差しています。
艦長が「お前はどうして宴会に出ないのか」と尋ねると、
機関兵の曰く、
「私は酒をたしなみません。酒好きの戦友に代って発電機当直を引受けたのであります」。
健気な機関兵に、艦長は心の中で「有難う」と言ったそうです。

大和の一次室の情景ですが・・・

映画『連合艦隊』では、和気藹々としたものになっていましたね。

首に数珠を懸けた学徒予備士官が説教をしている所に、
有賀艦長(演ずるは故・中谷一郎さんです)が「坊さん大学、やっとるな」と言って入ってきます。
予備士官が「艦長の頭が木魚に見えてきます」
というと、
艦長は「見えてもよし!」

これは吉田満さんの『戦艦大和の最期』にある
「果は艦長の頭を木魚に見立てて叩く者あり」(趣旨)
を踏えた描写だと思います。

中井貴一さんが吉田少尉(作中では吉岡少尉)を演じた『戦艦大和の最期』では、
乾杯の杯を学徒出身の士官が落して砕いてしまったことから、大乱闘になります。
そこに川野太郎さん演じる臼淵大尉(作中では臼見大尉)が割って入り、場を収めていましたね。
その後、艦内通路で吉田少尉は、兵学校出身の少尉と出会います。
その時、兵学校出身の少尉が吉田少尉に向って一言、
「明日!」
心なしか兵学校出身の少尉の目許は微笑していたように思います。
臼淵大尉の仲裁で、互いの心が通い合ったことを
このワンシーンで表したかったのでしょうね。

一次室での乱闘が事実だったとすれば・・・
やはり兵学校出身者も予備仕官達(学徒出身)も若かったのではないでしょうか。
自分の考えが絶対で、相手の考えを許容できない。
ましてや生還を期し得ない出撃の前夜です。
気を紛わそう、或いは気を鎮めようとして果せず、気が立っている。
だからこそほんの一言、或いは杯を落すという取るに足らぬ過ちをきっかけに殴り合いの修羅場になったのだと思います。

それにしても臼淵大尉、
あの混乱をよく収めましたね。

恐らく二十台も半ばぐらいでしょう。
臼淵大尉たち七十一期は、少尉十箇月の中尉八箇月で大尉になっています。
大和が出撃する時点で、平時ならばまだまだ中尉でガンルーム暮しのはず。
階級のなせる業でしょうか、ケプガン(一次室長)という役職のなせる業でしょうか。

普段から修養を怠らなかった大尉の人格の然らしむる所だったのではないでしょ
返信する
追伸 (丹治)
2010-03-17 09:01:08
昨日のコメントの最終行ですが、正しくは

「・・・大尉の人格の然らしむる所だったのではないでしょうか」

です。きちんと打込んだつもりが、この体たらく。
よくよく焦って打ったのですね(冷汗三斗です)。

ところで酒好きの戦友に代って発電機当直を引受けた機関兵のエピソードですが、
矢矧艦長・原為一大佐の手記『連合艦隊の最期』(河出書房)に矢矧のこととして載っておりました。

とはいえ初霜駆逐艦長の酒匂少佐の体験として書いてある記録でも、
同じ話を読んだことがあるようにも記憶しております。
もう少し文献に当ってみようと思う次第です。
返信する
Unknown (ひー)
2010-03-18 17:11:32
燃料は積んでいたのですね。
艦内の様子が想像できます。
また、これまでのストーリーを読みながら、酔漢さんの祖父=大和への思い。そして祖父の替わりに代弁しているかのようにも感じます。
七ヶ浜弁…親戚もいますので想像できます。

もう一度男達の大和見たくなりました。
返信する
追追伸 (丹治)
2010-03-19 14:34:08
昨日、自宅の勉強部屋を発掘した所、
佐藤和正著『艦長たちの太平洋戦争・続篇』(光人社NF文庫)が出土しました。
初霜艦長の酒匂少佐の証言が載っておりますが、
発電機当直の機関兵のエピソードはありませんでした。
なお調べてみますが、小生の思い違いだったかも知れません。

酒匂少佐の章ですが、興味深いことに
天一号作戦時点での各級指揮官の海兵卒業期数が出ていました。
大和艦長と2F参謀長、2水戦司令官が同期。
駆逐隊司令同士も海兵の同期だったと思います。

大和艦長⇒2F参謀長という森下少将の人事、
大和主計長⇒2F副官という石田少佐の人事
と考え合せても、何らかの意図を感じざるを得ません。

因みに酒匂少佐は2F各級指揮官に見られる同期の関係を、
「命令によらなくとも以心伝心で意志を疎通させることが出来る関係」(趣旨)
と言っています。
返信する
三追伸 (丹治)
2010-03-21 12:24:25
先の投稿で「以心伝心云々」を酒匂少佐の発言のように書きましたが、
文献に当って確認したところ
酒匂少佐の発言ではなくて
著者である佐藤和正氏の評でした。
御詫びと共に訂正致します。
返信する
ひー様へ (酔漢です )
2010-03-25 18:22:30
更新する際にコメントを書いております。遅くなりました。
酒保開けの様子は映画では必ず出てきますね。
「明日出撃」その前日というコントラストが映像となるのでしょうね。
実際はどうだったでしょうか。
各分隊事にこじんまりして呑んでいたという証言を聞いたことがございます。
返信する
丹治様へ (酔漢です)
2010-03-25 18:23:57
コメントは後程、まとめていたします。
本編での場合もございます。
ご容赦下さい。
メールならびに電話いたしました通りでございます。
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