酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

この事を初めて昨日知った事実。

2013-04-19 06:49:18 | 大和を語る
先に、自身のfacebookに掲載させました。
昨日、読売新聞の夕刊を拝読し驚いた事がありました。
驚きましたのは、記事の内容ではございません。
自身の至らなさなのでございます。
冒頭の写真。
徳之島犬田布岬、突端にございます「戦艦大和慰霊塔」です。
この塔の名称を知らなかった酔漢なのです。
知らなかった。どの部分なのか。
昭和52年、父はこの徳之島で開催されました33回忌合同慰霊祭に出席しております。

この写真です。これは以前も「くだまき」にいたしました。
当然、この場所にこうした塔があった事は、当然存じております。

酔漢が驚きましたのは、その名称なのです。
「戦艦大和慰霊塔」
この塔の高さは大和艦橋と同じ高さで作られております。
大和は先の沖縄特攻(この記事内では「特攻」という言葉を使いますが、「くだまき」で定義するところの「特攻」とは違います。あらかじめお断りいたしておきます)では第二艦隊旗艦として出撃しております。
他には第二水雷戦隊の巡洋艦「矢矧」を旗艦とする駆逐艦8隻「朝霜」「浜風」「磯風」「霞」「涼月」「冬月」「雪風」「初霜」が出撃しております。
「くだまき」では終始、祖父の乗艦していた大和ばかりではなく、これら9隻の艦のそれぞれの運命を語ってまいりました。
「大和一艦のみが沖縄へ向かっていった」こうした認識の方々が大変多い事から(そうでなくても、他多数の駆逐艦という認識)一つ一つを掘り起こしてまいりました。
「戦艦大和慰霊塔」であれば、これだけ見ますと「大和一艦だけの慰霊塔」と見られてしまう。
酔漢は、昨日、この新聞を拝読するまで「水上特攻隊慰霊塔」だとばかり思っておったのです。

これを、ここでお話しすることは、はなはだ恥ずかしいことなのかもしれません。
ですが、こう信じておりました。
朝、この塔の正式名称を確認するまで、昨日の夕刊の記事の方が「間違っているのではないか」こうも思っていた次第です。

「大和一艦ではない」(再度、再度、申し訳なし)。
この主旨から致しますればこの塔の名称も「水上特攻隊慰霊塔」とするのが望ましいのではないか。
いや、名称の変更は致すまい。
ただ、この塔を前にして、慰霊の気持ちを表するならば、責めて、9隻の護衛艦と共に戦った数多くの英霊達の事も思い出してもらいたい。

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7 コメント

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こんばんは (見張り員)
2013-04-19 21:29:39
この塔の存在は知っていましたし、名称が「戦艦大和慰霊塔」というのもものの本で見知ってはおりました。
またこの塔が徳之島に建てられたいきさつには地元出身の議員とのかかわりもあるとか聞いていますが実際はどうだか??

ともあれ「戦艦大和」とだけ銘打たれますとあの海戦「坊ノ岬沖海戦」(という名称を知らない向きも多いですが)は『大和』一隻で出撃したような印象しか受けません。
矢矧や雪風、朝霜などはなかったことになってしまいます。
みのもんたが昨年の4月7日に「今日は『大和』が沈んだんだよ、3332名が死んだんだよ!」と知ったようなことを言ってましたが彼も他の駆逐艦の名前を言いませんでした、知らないのでしょうね。『大和』だけが沖縄に向けて行ったと思っているようです。

酔漢さんはご遺族として『大和』をご存じだからこそあの塔の名称が「戦艦大和慰霊碑」ということに驚かれたのですね。
「水上特攻隊慰霊碑」とすべきでしたね。
しかしもう今更変更もできないでしょうからその塔を見るたび、あの海戦を思うたび「矢矧」や「霞」等の艦艇を、その乗組員を思いましょう。

それにしても私は妙に「朝霜」が気になるのですが・・。
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見張り員さんへ (酔漢です)
2013-04-20 07:30:24
本当に気付かなかったんですよ。
これはお恥ずかしい。
今さらですし、あれだけ語って来ましたし・・・。
「朝霜」
自身のfbで紹介した際、僕の友人達は、みな驚いておりました。
この朝霜の生涯こそ、もっと、もっと多くの人にしってもらいたいですよね。
一番気になる艦ですよね。
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あなたが花なら 沢山のそれらと変わりないのかもしれない (ある友人)
2013-04-20 10:41:35
同感。まあ歴史教育の問題点でもあるんだけど、どうしても英雄史観というか、物語や芝居などでデフォルメされた一点に片寄ってしまう傾向がある。この慰霊碑にもそれが現れているように思います。源義経と弁慶は多くの人が知っているのに佐藤兄弟を知っている人はほとんどいませんからね。
芭蕉は「兵どもが」と詠みましたが、まさに名も無き者に意味がないわけではなく、歴史のほとんどはそういう者たちに支えられている。だからそこにもささやかな光を当てて欲しいと感じます。
私の妻はよく言うんです。「野草という名前の草はない」って。地味で目立たなくともそれぞれにちゃんとした名前があると。だから花の名はちゃんと覚えていたいですよね。
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ある友人君へ (酔漢です)
2013-04-21 09:58:51
野草の名前は勉強中です。(汗)
慰霊祭の席順は、2水戦、大和乗り組み員、二艦隊でした。それぞれが兵が最前列。そして士官、佐官と続きます。特に大和乗艦者は「二水戦の方々に足を向けて寝られない」こう話しておりました。以前「秋津州」の話しがありましたが、あの模型の提供者は、「あの艦には、県内出身の英霊が大勢いたんだ」これを伝えたくて、護国神社の顕彰館に置いたのだと考えています。見張り員さんのコメントにもあって、自身も印象にある朝霜の話しは、後世に絶対に伝えて行きたい。そうした思いばかりがよぎります。
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 (トムくん)
2013-04-22 22:57:21
こんばんは。
言われなければうっかりでした。
「水上特攻隊慰霊塔」が正確でしょうが、知らない人が聞くとボート特攻のようなイメージになるのでは?
「戦艦大和等慰霊碑」はどうでしょうか?
どうしても名称には「大和」が必要でしょう。
「等」は官公庁でよく使われる単語ですが、陸海軍も同じ国家機関ですからね。
「等」により大和だけではないということを知らしめるのです。
「等? 大和だけじゃないんだ。」と思ってくれればいいと思います。
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トムさんへ (酔漢です)
2013-04-24 08:42:01
「等」ですか。この言葉に気づきませんでした。
他の艦を連想するにはいいですよね。
「大和」という単語がどれほど国民に浸透しているのか。
知らない人はいない位ですよね。
他の艦ももう少し知って頂くには、いいかもしれませんね。
ありがとうございました。
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慰霊塔 (なっちゃん)
2014-06-13 10:36:48
はじめまして。
仙台のなっちゃんといいます。
護国神社で戦艦大和の展示をしていると聞きwab上で調べていたところこちらにたどりつきました。

「戦艦大和慰霊塔」
やはり全ての艦名を入れるべきだと思います。
知られるべき事実です。
ご遺族の方のためにも入れていただきたいですね。
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