伊藤長官が去った後、艦橋にいた人々は、檣桜の階段を伝わって、散りぢりに最上甲板降りて行った。
艦橋に残った茂木航海長は、部下の花田掌航海長と、脚を主羅針儀の台に縛りあった。
下部から「浸水間近い_天皇陛下万歳!」の声が伝わってきた。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
大和、最後の最後。あの爆発をする直前の艦橋の様子を、副長手記から抜粋いたしました。
副長手記、並びに、吉田満氏著、「戦艦大和ノ最期」では、有賀艦長も身体を羅針儀に縛ったとされております。
この場面、くだまきでは、「茂木航海長」と「花田掌航海長」とが身体を縛ったとし、有賀艦長は、防空指揮所羅針儀のしがみついていた。と致しました。
ですが、多くの証言から、「航海長と掌航海長は、その覚悟を決め、艦と運命を共にしていた。」これは、間違いのない史実です。
「とーーりぃぃかぁぁーーーじぃぃぃ。いっぱぁぁぁい」
伝声管も割れよといわんばかり、茂木航海長の声が艦橋内に響き渡っております。
昭和二十年四月七日午後。
大和戦闘中。
防空指揮所にいる有賀幸作艦長の「回避!取り舵!」という指示を、操舵室へ、ありったけの声でもって復唱する航海長。
伝声管にしがみつくような恰好をしております。
「取り舵三十五度」
すかさず、操舵室から復唱。
大和は巨大な船体を傾けながら、急旋回を見せます。
三位一体の「あ・うん」の呼吸。
巨大戦艦の俊敏な動きを生み出すのには、この呼吸に乱れがあってはいけないのです。
舵輪を握っているのは小山(階級、お名前不明)。
操舵室は、完全密室。羅針儀だけが頼りなのです。
航海長の指示、号令のもと舵輪を回します。
茂木航海長、艦長指示を受け、決死の操艦を行っております。
茂木史朗航海長が大和へ着任したのは、三月初旬。榛名よりの着任でした。
レイテ海戦時の航海長津田大佐との引継ぎ時間はわずかでございました。
海軍では「航海の茂木」と言えば、その手腕を疑う者は誰一人おりません。
歴戦勇士でもございます。
「榛名とは何もかも桁違いです」
「癖はあるが、扱いやすいところもある。航海長なら大丈夫だ」
一週間のダブル配置。
一週間では短いとお感じになられる方が多かろうと思いますが、これ自体が稀有なことなのです。
普通は掌航海長が残り、たとえ一週間だけとはいえ、航海長二人ということはなかったのでした。
それだけ大和の操艦が難しかったのではなかったかと、推察するところではございます。
昭和20年四月五日一八○○。
「酒保開け」。
航海科新任二人、「浅羽満夫少尉」(水測士)と「森一郎少尉」(艦長付航海士)らは、第一士官次室で酒宴を催しておりました。
(祖父は二次士官室にいたのだと推察しております)
そこへ、航海科の連中が入ってきます。
「浅羽少尉!こっちへ来い!航海科と一緒に呑もうじゃないか!」
浅羽少尉は、右舷中甲板の兵員居住区へと向かいました。
「おい!こっちこっち!中に入れ!」
「お前ら、豪気だなぁ。これ『千福』だろ!よくあったもんだ」
「これか?しゃばの味を楽しみたいってとこさ」
「アルマイトの器じゃな。だがこれでも酒の味なんか変わるもんか」
アルマイトの食器へなみなみと注がれた冷酒。
「では、これより我々の武運長久の為!乾杯!」
軍歌「同期の桜」を合唱していたまさにその時。
バタン!と扉があきました。
一同、扉の方を向きます。
全員が息をのみ直立不動。敬礼!
よっぱらっているとは言え、流石の流儀です。
「おい、おい今日は無礼講だろ」
かなり酔っている茂木航海長でした。
「航海長!士官室(一次室)ではなかったのですか?」
「何?俺が入っちゃ都合が悪いかぁぁ?」
「そうではありません。航海長が来てくれるのを皆が楽しみにしておったのであります!」
「まぁ、そう言うな!呑め、呑め!」
「航海長!」
「航海長どうぞ!」
車座になっての酒宴が続きました。
「いくら俺でも(かなりの酒豪とお聞きいたしました)そんなに注がれては明日に差し支える・・どうだ!俺と一丁やってみる奴ぁいるか?」
「航海長、何をやるんでありますか?」
その言葉が出るか否や、茂木航海長、いきなり腕をまくりあげました。
車座の中心に居座り、全員の目を見ながら、茂木航海長、凄みのある声で。
「腕相撲・・・ダ!誰か、俺にかなうと思う奴はいるか?」
「よし!俺がやる!」
一人の若い士官が腕まくりをします。
「よぉぉしかかってこい!」
少尉の腕の方が太い。しかし結果。秒殺。
「次は俺だ!」
航海長二連勝。
「俺も!」「俺もだ!」
若い士官達を、次々なぎ倒し、あっと言う間の十連勝。
流石の、茂木航海長も息が上がっております。
「もう流石にもたん!」
十人抜きで終了。しかし、若い士官たちはそれぞれ腕を摩ったまま。
「お前ら!俺に着いて来い!俺に命を預けてくれ!」
航海長、最後の言葉。
「行きます!」
「どこへでも連れて行って下さい!」
「航海長!命預けましたぁ!」
「よぉぉしやるぞぉぉ!」
その声と同時に茂木航海長の身体を持ち上げます。ちょうど騎馬戦の様子です。
津田大佐から引き継いだわずか三週間目の今日。
茂木史朗航海長が、全員の心を掌握した瞬間でございました。
大和の操艦。
そのしくみ、メカニズムも世界の類を見ない先進技術に支えられております。
通常「大和型」の「取り舵」「面舵」は十五度の舵きりが基本でした。
「取り舵一杯」であれば、例えば「長門」では三十度の角度のところ、「大和」では三十五度に保ちます。
ですが、この三十五度は極限転舵であって平素は使いません。
三十五度極限での回頭、その復元性は「大和」のみにできる芸当です。
例えば、速力十二ノットで航そう中、艦長から「面舵」と下令され、航海長がこれを復唱。操舵室からさらに「面舵十五」と帰ってきます。
そこで大和が回りだすまで、一分四十秒かかります。
ですが、一度回りだすと、すぐさま回頭を始めます。
上記のような条件で転舵しますと、艦尾が反対方向へ横滑りします。車でいうドリフト状態に入ります。
そして、反対側に傾いて徐々に回りだします。
横約640m。縦590m。と言う円運動を描き旋回します。(公試運転記録)
武蔵の記録では、速力二十七ノットで、右540m。左550m。の円運動で回頭、旋回したとあります。
これは、例えば、米戦艦ミズーリと変わらない数値でした。
「回りだすと、小回りが利く」
大和型の特徴でもあったのです。
90度変針の場合。その操舵はこうです。
「面舵」→三十五度の回頭。
「止め」→舵そのまま保持。
ここで予定針路の三十度で十五度の「当て舵」(「戻せ」の指示)を取って、旋回終了となるわけです。
かなりの微妙な予測と判断が必要とされることは容易に想像が着きます。
大和型の舵は二枚。「主舵」と「副舵」が15mほど話されて、前後配置となっております。
これまでの平行二枚配置では、舵が二枚とも被害にあう確率が高いところから前後配置となりました。
主舵の一枚が約70トン。面積で38.9㎡。電動油圧方式を用いております。
人力操舵も可能と伝われておりますが、その主機について、酔漢は知りません。
ですが、設計上に不備があったとされてもいます。
副舵です。実際には「あまり効果はなかった」と実験結果が出いたものを、設計上「見落としていた」とあります。
これは、世界の艦船より「戦艦武蔵会」のレポートを拝読しての事ですが、実際のところどうであったかは、酔漢には知識がなく、これ以上の記述は出来ません。
しかし、艦の性能を熟知し、それを自在に操る。
これは、航海長の仕事となります。
茂木史朗大佐は、当時、その術にかけては、世界一の腕を持っておりました。
レイテ海戦時、闇夜のサンベルナジノ海峡を一糸乱れない航行を榛名をはじめ二十三隻の艦隊は通過しております。
「榛名」は警戒隊形左翼へ陣取り、重要なポジションを任されておりました。
当時の航海長も茂木史朗中佐でした。
航海長は第十一分隊の「測的」「照射」第十三分隊の「航海」「信号」「気象」を掌握しております。
そして「航海士」「電測士」「水測士」以下を指揮。「測的長」「見張長」「信号長」がこれを補佐する役目を負います。
「航海長」
その任は非常に重く、かつ重要な役割を担っております。
一通のコメントを拝読いたしました。
ここにご紹介いたします。
祖父・茂木史朗 (茂木大志)
2011-11-22 03:13:29
祖父の名前で検索していると、このページがヒットしました。「操舵のこと」コメントを読み、投稿する事にしました。祖父史朗はこの時39歳。死に場所を見つけたと母親に告げ出航したそうです。間違いなく当時日本で最高の航海術の持ち主でした。
私は双子で、弟は和志といいます。大志と和志。いやでも大和を背負わされた思いで、今まで生きてきました。そんな私も46歳となり、祖父の人生をとうに超えてます。祖父のその生き様は、今も色あせる事なく私のプライドでもあります。決してブレないその生き方は、融通が利かないとか、不器用だとかとは次元の違うものだから。でも母は言います。死して孫のプライドになるよりも、恥を晒してでも、大好きだった父親に生きて帰って欲しかったと。
実名でのコメントに正直驚きました。
また、内容もさることながら、そのお名前の重さも痛感いたしました。
「茂木 大志」様。「茂木 和志」様。
上記、語りました「茂木史朗大和航海長のお孫様」でいらっしゃいます。
コメントにもございますが、お二人のお名前は、「大和」から一文字づつ取られたものでございます。
ご両親の思い、いかばかりであったか。
シティラピッド君(長男)は祖父の名より一字取りました酔漢です。
少しは共通する思いもあったのではないか。
そう感じました。
「死して孫のプライドになるよりも、恥を晒してでも、大好きだった父親に生きて帰って欲しかったと。」
父は生前こう申しておりました。
「なんじょしたっていぎぃて(生きて)けぇってもらいたかったのっしゃ」
茂木様のコメントを拝読し、涙の出て来た自身です。
同様に丹治さんからのコメントも掲載いたします。
改めて御冥福を御祈りします (丹治)
2011-11-24 13:49:19
茂木太志様
初めまして。酔漢氏の友人の丹治と申します。
私のコメントを御覧になって投稿されたとのこと、恐縮の至りです。
「操舵のこと」は有賀艦長の視点にしての投稿でした。
大和乗組みを命ぜられたのは、
どれぞれの術科や階級で優秀な技量を認められた人ばかりだったと聴いております。
これは艦長からい一水兵に至るまで変りません。
定期異動なのか臨時の移動なのかは詳らかにしませんが、
茂木さんのお爺様が大和航海長になられたのも、
優秀な航海術の技量を認められたからこそだと思います。
また有賀艦長が茂木航海長に操艦を任せたのも理由も、正にそこにあったはずです。
大和乗組みを命ぜられた時、お爺様は喜びと責任感で身も引締る思いだったのではないでしょうか。
そしてまたそれだけに、着任して日が浅く乗艦の操舵特性を十分に体感できなかったことが
無念だったに違いありません。
大和がいよいよ沈む時、沖縄に行き着けなかった航海長としての責任を一層強く感じたに違いありません。
「花田掌航海長と羅針儀に身を縛りつけている時、それが傍目にも痛いほどよく分り、声などかけられる状況ではなかったのではないか」とは、このことを電話で話し合った折の酔漢さんの言葉です。
実を申しますと、私の母方の祖父は歩兵四連隊の中隊長でした。
満州事変に出征して負傷し、後方勤務に変りました。
しかしこの負傷がなかったら、蘭印かガダルカナル、あるいはビルマで間違いなく戦死していたでしょう。
終戦時には台湾におりましたが、転勤したのは開戦後のことです。
場合によっては船を潜水艦に沈められたかもしれません。
(祖父に遅れて台湾に行く母や伯父、伯母が乗った高千穂丸は、その後潜水艦の魚雷攻撃で沈んでおります)。
幸いにも祖父は生還しました。
しかし戦争に行かれた方の話を聞くだに、紙一重の差で生死が分れることを痛感します。
それだけに戦死された方々の話が他人事とは思えないのです。
祖父は私が三歳の時に他界しました。
「もっと長生きしてくれれば色々な話を聞くこともできたのに」
と、今にして思います。
茂木航海長の出処進退にけじめをつける生き方は、武蔵の越野砲術長とも共通します。
お二人の人柄の足下には遥か及ばぬ私ですが、出処進退は潔くありたいと思っております。
茂木さん、立派なお爺様を持たれましたね。
私も六十四歳の父を病気で亡くしました。
十年以上も前のことですが、「もっと長生きしてほしかった」との思いは捨てることができません。
大好きなお父様、立派なお父様と、お母様は小さいうちに別れなくてはならなかったのです。
「恥を晒しても生きて帰ってほしかった」との思いは、大きくなるにつれてますます強くなったことと思います。
茂木さんのお母様のお気持ちも、今にしてよく分ります。
茂木航海長の御冥福を改めて御祈り申し上げます。
映画「男たちの大和」では高岡建治さんが演じられました「茂木史朗航海長」です。
敵無線傍受の報を受け。
「これじゃ敵さんに連れて行ってもらった方がいい」との台詞がございました。
また、第一波攻撃終了直後。
「この分だと沖縄まで辿り着ける」とも。
しかして、その最期を知る者の一人として、その責任感の強さたるや。言葉には出来ません。
「よーーし、俺に勝てると思う奴は遠慮なんかするな!かかって来い!」
歴戦を掻い潜って来た自信と共に、繊細かつ豪放。
海軍きっての航海長。茂木史朗大佐。
ご遺族との繋がりは大切にしていきたい。
こう思わざるを得ませんでした。
艦橋に残った茂木航海長は、部下の花田掌航海長と、脚を主羅針儀の台に縛りあった。
下部から「浸水間近い_天皇陛下万歳!」の声が伝わってきた。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
大和、最後の最後。あの爆発をする直前の艦橋の様子を、副長手記から抜粋いたしました。
副長手記、並びに、吉田満氏著、「戦艦大和ノ最期」では、有賀艦長も身体を羅針儀に縛ったとされております。
この場面、くだまきでは、「茂木航海長」と「花田掌航海長」とが身体を縛ったとし、有賀艦長は、防空指揮所羅針儀のしがみついていた。と致しました。
ですが、多くの証言から、「航海長と掌航海長は、その覚悟を決め、艦と運命を共にしていた。」これは、間違いのない史実です。
「とーーりぃぃかぁぁーーーじぃぃぃ。いっぱぁぁぁい」
伝声管も割れよといわんばかり、茂木航海長の声が艦橋内に響き渡っております。
昭和二十年四月七日午後。
大和戦闘中。
防空指揮所にいる有賀幸作艦長の「回避!取り舵!」という指示を、操舵室へ、ありったけの声でもって復唱する航海長。
伝声管にしがみつくような恰好をしております。
「取り舵三十五度」
すかさず、操舵室から復唱。
大和は巨大な船体を傾けながら、急旋回を見せます。
三位一体の「あ・うん」の呼吸。
巨大戦艦の俊敏な動きを生み出すのには、この呼吸に乱れがあってはいけないのです。
舵輪を握っているのは小山(階級、お名前不明)。
操舵室は、完全密室。羅針儀だけが頼りなのです。
航海長の指示、号令のもと舵輪を回します。
茂木航海長、艦長指示を受け、決死の操艦を行っております。
茂木史朗航海長が大和へ着任したのは、三月初旬。榛名よりの着任でした。
レイテ海戦時の航海長津田大佐との引継ぎ時間はわずかでございました。
海軍では「航海の茂木」と言えば、その手腕を疑う者は誰一人おりません。
歴戦勇士でもございます。
「榛名とは何もかも桁違いです」
「癖はあるが、扱いやすいところもある。航海長なら大丈夫だ」
一週間のダブル配置。
一週間では短いとお感じになられる方が多かろうと思いますが、これ自体が稀有なことなのです。
普通は掌航海長が残り、たとえ一週間だけとはいえ、航海長二人ということはなかったのでした。
それだけ大和の操艦が難しかったのではなかったかと、推察するところではございます。
昭和20年四月五日一八○○。
「酒保開け」。
航海科新任二人、「浅羽満夫少尉」(水測士)と「森一郎少尉」(艦長付航海士)らは、第一士官次室で酒宴を催しておりました。
(祖父は二次士官室にいたのだと推察しております)
そこへ、航海科の連中が入ってきます。
「浅羽少尉!こっちへ来い!航海科と一緒に呑もうじゃないか!」
浅羽少尉は、右舷中甲板の兵員居住区へと向かいました。
「おい!こっちこっち!中に入れ!」
「お前ら、豪気だなぁ。これ『千福』だろ!よくあったもんだ」
「これか?しゃばの味を楽しみたいってとこさ」
「アルマイトの器じゃな。だがこれでも酒の味なんか変わるもんか」
アルマイトの食器へなみなみと注がれた冷酒。
「では、これより我々の武運長久の為!乾杯!」
軍歌「同期の桜」を合唱していたまさにその時。
バタン!と扉があきました。
一同、扉の方を向きます。
全員が息をのみ直立不動。敬礼!
よっぱらっているとは言え、流石の流儀です。
「おい、おい今日は無礼講だろ」
かなり酔っている茂木航海長でした。
「航海長!士官室(一次室)ではなかったのですか?」
「何?俺が入っちゃ都合が悪いかぁぁ?」
「そうではありません。航海長が来てくれるのを皆が楽しみにしておったのであります!」
「まぁ、そう言うな!呑め、呑め!」
「航海長!」
「航海長どうぞ!」
車座になっての酒宴が続きました。
「いくら俺でも(かなりの酒豪とお聞きいたしました)そんなに注がれては明日に差し支える・・どうだ!俺と一丁やってみる奴ぁいるか?」
「航海長、何をやるんでありますか?」
その言葉が出るか否や、茂木航海長、いきなり腕をまくりあげました。
車座の中心に居座り、全員の目を見ながら、茂木航海長、凄みのある声で。
「腕相撲・・・ダ!誰か、俺にかなうと思う奴はいるか?」
「よし!俺がやる!」
一人の若い士官が腕まくりをします。
「よぉぉしかかってこい!」
少尉の腕の方が太い。しかし結果。秒殺。
「次は俺だ!」
航海長二連勝。
「俺も!」「俺もだ!」
若い士官達を、次々なぎ倒し、あっと言う間の十連勝。
流石の、茂木航海長も息が上がっております。
「もう流石にもたん!」
十人抜きで終了。しかし、若い士官たちはそれぞれ腕を摩ったまま。
「お前ら!俺に着いて来い!俺に命を預けてくれ!」
航海長、最後の言葉。
「行きます!」
「どこへでも連れて行って下さい!」
「航海長!命預けましたぁ!」
「よぉぉしやるぞぉぉ!」
その声と同時に茂木航海長の身体を持ち上げます。ちょうど騎馬戦の様子です。
津田大佐から引き継いだわずか三週間目の今日。
茂木史朗航海長が、全員の心を掌握した瞬間でございました。
大和の操艦。
そのしくみ、メカニズムも世界の類を見ない先進技術に支えられております。
通常「大和型」の「取り舵」「面舵」は十五度の舵きりが基本でした。
「取り舵一杯」であれば、例えば「長門」では三十度の角度のところ、「大和」では三十五度に保ちます。
ですが、この三十五度は極限転舵であって平素は使いません。
三十五度極限での回頭、その復元性は「大和」のみにできる芸当です。
例えば、速力十二ノットで航そう中、艦長から「面舵」と下令され、航海長がこれを復唱。操舵室からさらに「面舵十五」と帰ってきます。
そこで大和が回りだすまで、一分四十秒かかります。
ですが、一度回りだすと、すぐさま回頭を始めます。
上記のような条件で転舵しますと、艦尾が反対方向へ横滑りします。車でいうドリフト状態に入ります。
そして、反対側に傾いて徐々に回りだします。
横約640m。縦590m。と言う円運動を描き旋回します。(公試運転記録)
武蔵の記録では、速力二十七ノットで、右540m。左550m。の円運動で回頭、旋回したとあります。
これは、例えば、米戦艦ミズーリと変わらない数値でした。
「回りだすと、小回りが利く」
大和型の特徴でもあったのです。
90度変針の場合。その操舵はこうです。
「面舵」→三十五度の回頭。
「止め」→舵そのまま保持。
ここで予定針路の三十度で十五度の「当て舵」(「戻せ」の指示)を取って、旋回終了となるわけです。
かなりの微妙な予測と判断が必要とされることは容易に想像が着きます。
大和型の舵は二枚。「主舵」と「副舵」が15mほど話されて、前後配置となっております。
これまでの平行二枚配置では、舵が二枚とも被害にあう確率が高いところから前後配置となりました。
主舵の一枚が約70トン。面積で38.9㎡。電動油圧方式を用いております。
人力操舵も可能と伝われておりますが、その主機について、酔漢は知りません。
ですが、設計上に不備があったとされてもいます。
副舵です。実際には「あまり効果はなかった」と実験結果が出いたものを、設計上「見落としていた」とあります。
これは、世界の艦船より「戦艦武蔵会」のレポートを拝読しての事ですが、実際のところどうであったかは、酔漢には知識がなく、これ以上の記述は出来ません。
しかし、艦の性能を熟知し、それを自在に操る。
これは、航海長の仕事となります。
茂木史朗大佐は、当時、その術にかけては、世界一の腕を持っておりました。
レイテ海戦時、闇夜のサンベルナジノ海峡を一糸乱れない航行を榛名をはじめ二十三隻の艦隊は通過しております。
「榛名」は警戒隊形左翼へ陣取り、重要なポジションを任されておりました。
当時の航海長も茂木史朗中佐でした。
航海長は第十一分隊の「測的」「照射」第十三分隊の「航海」「信号」「気象」を掌握しております。
そして「航海士」「電測士」「水測士」以下を指揮。「測的長」「見張長」「信号長」がこれを補佐する役目を負います。
「航海長」
その任は非常に重く、かつ重要な役割を担っております。
一通のコメントを拝読いたしました。
ここにご紹介いたします。
祖父・茂木史朗 (茂木大志)
2011-11-22 03:13:29
祖父の名前で検索していると、このページがヒットしました。「操舵のこと」コメントを読み、投稿する事にしました。祖父史朗はこの時39歳。死に場所を見つけたと母親に告げ出航したそうです。間違いなく当時日本で最高の航海術の持ち主でした。
私は双子で、弟は和志といいます。大志と和志。いやでも大和を背負わされた思いで、今まで生きてきました。そんな私も46歳となり、祖父の人生をとうに超えてます。祖父のその生き様は、今も色あせる事なく私のプライドでもあります。決してブレないその生き方は、融通が利かないとか、不器用だとかとは次元の違うものだから。でも母は言います。死して孫のプライドになるよりも、恥を晒してでも、大好きだった父親に生きて帰って欲しかったと。
実名でのコメントに正直驚きました。
また、内容もさることながら、そのお名前の重さも痛感いたしました。
「茂木 大志」様。「茂木 和志」様。
上記、語りました「茂木史朗大和航海長のお孫様」でいらっしゃいます。
コメントにもございますが、お二人のお名前は、「大和」から一文字づつ取られたものでございます。
ご両親の思い、いかばかりであったか。
シティラピッド君(長男)は祖父の名より一字取りました酔漢です。
少しは共通する思いもあったのではないか。
そう感じました。
「死して孫のプライドになるよりも、恥を晒してでも、大好きだった父親に生きて帰って欲しかったと。」
父は生前こう申しておりました。
「なんじょしたっていぎぃて(生きて)けぇってもらいたかったのっしゃ」
茂木様のコメントを拝読し、涙の出て来た自身です。
同様に丹治さんからのコメントも掲載いたします。
改めて御冥福を御祈りします (丹治)
2011-11-24 13:49:19
茂木太志様
初めまして。酔漢氏の友人の丹治と申します。
私のコメントを御覧になって投稿されたとのこと、恐縮の至りです。
「操舵のこと」は有賀艦長の視点にしての投稿でした。
大和乗組みを命ぜられたのは、
どれぞれの術科や階級で優秀な技量を認められた人ばかりだったと聴いております。
これは艦長からい一水兵に至るまで変りません。
定期異動なのか臨時の移動なのかは詳らかにしませんが、
茂木さんのお爺様が大和航海長になられたのも、
優秀な航海術の技量を認められたからこそだと思います。
また有賀艦長が茂木航海長に操艦を任せたのも理由も、正にそこにあったはずです。
大和乗組みを命ぜられた時、お爺様は喜びと責任感で身も引締る思いだったのではないでしょうか。
そしてまたそれだけに、着任して日が浅く乗艦の操舵特性を十分に体感できなかったことが
無念だったに違いありません。
大和がいよいよ沈む時、沖縄に行き着けなかった航海長としての責任を一層強く感じたに違いありません。
「花田掌航海長と羅針儀に身を縛りつけている時、それが傍目にも痛いほどよく分り、声などかけられる状況ではなかったのではないか」とは、このことを電話で話し合った折の酔漢さんの言葉です。
実を申しますと、私の母方の祖父は歩兵四連隊の中隊長でした。
満州事変に出征して負傷し、後方勤務に変りました。
しかしこの負傷がなかったら、蘭印かガダルカナル、あるいはビルマで間違いなく戦死していたでしょう。
終戦時には台湾におりましたが、転勤したのは開戦後のことです。
場合によっては船を潜水艦に沈められたかもしれません。
(祖父に遅れて台湾に行く母や伯父、伯母が乗った高千穂丸は、その後潜水艦の魚雷攻撃で沈んでおります)。
幸いにも祖父は生還しました。
しかし戦争に行かれた方の話を聞くだに、紙一重の差で生死が分れることを痛感します。
それだけに戦死された方々の話が他人事とは思えないのです。
祖父は私が三歳の時に他界しました。
「もっと長生きしてくれれば色々な話を聞くこともできたのに」
と、今にして思います。
茂木航海長の出処進退にけじめをつける生き方は、武蔵の越野砲術長とも共通します。
お二人の人柄の足下には遥か及ばぬ私ですが、出処進退は潔くありたいと思っております。
茂木さん、立派なお爺様を持たれましたね。
私も六十四歳の父を病気で亡くしました。
十年以上も前のことですが、「もっと長生きしてほしかった」との思いは捨てることができません。
大好きなお父様、立派なお父様と、お母様は小さいうちに別れなくてはならなかったのです。
「恥を晒しても生きて帰ってほしかった」との思いは、大きくなるにつれてますます強くなったことと思います。
茂木さんのお母様のお気持ちも、今にしてよく分ります。
茂木航海長の御冥福を改めて御祈り申し上げます。
映画「男たちの大和」では高岡建治さんが演じられました「茂木史朗航海長」です。
敵無線傍受の報を受け。
「これじゃ敵さんに連れて行ってもらった方がいい」との台詞がございました。
また、第一波攻撃終了直後。
「この分だと沖縄まで辿り着ける」とも。
しかして、その最期を知る者の一人として、その責任感の強さたるや。言葉には出来ません。
「よーーし、俺に勝てると思う奴は遠慮なんかするな!かかって来い!」
歴戦を掻い潜って来た自信と共に、繊細かつ豪放。
海軍きっての航海長。茂木史朗大佐。
ご遺族との繋がりは大切にしていきたい。
こう思わざるを得ませんでした。
碑の写真が愛媛県の
護国神社のHPに
掲載されています(以下)
http://www.gokoku.org/topics/?p=4269
お知らせありがとうございました。
早速、HPを拝読させていただきました。
コメントもさせて頂きました。
茂木大志様のコメントもございました。
茂木史郎中佐を思い、改めてそのご冥福をお祈り申し上げます。
私は愛媛県宇和島市のGAIYAと申しますm(__)m
今月で48になりますが、戦艦「大和」の生還者、八杉康夫さんと縁あって深交させて頂いております。
4年前、我が愛媛・松山で八杉さんを招いて「戦艦大和最後の語り部・八杉康夫講演会」を開催致しました。
その際、一番早く聴講のご予約を頂いたのが、茂木史朗・大和航海長の御息女(姉妹で)様でした。
驚きと感激でした(^^;)
最前列に席をお取りし聴いて頂きました。
以来毎年、年賀状を下さり感謝していますm(__)m
松山市内に航海長のお墓があるのは存じておりますが、まだ行けていません(>_<")
いつか慰霊に伺いたいと思っています。
我が愛媛には「五軍神慰霊碑」あり、「九軍神慰霊碑」あり、松山基地には三四三空の精鋭部隊も居ました。
県内各地に陸・海軍ゆかりの地も残っております。
三四三空偵察第四飛行隊「彩雲」搭乗員だった杉野富也さんは、松山基地から沖縄特攻出撃前、三田尻に向かう「大和」を双眼鏡で目撃されています。
大和乗組員だった八杉康夫さんも、その際、周防大島の南で着任された茂木航海長が急速転舵の訓練をされたのを覚えているそうです。
ご高覧ありがとうございます。
八杉さんは、私も直接お逢いしたことがございます。その際のお話は「くだまき」にいたしました。
賑やかな、おじいちゃん(当時はおじさん)というイメージでした。常に、私達ご遺族の事をお考えでいらして、当時、中学生だった私にも、きちんと応えて下さったのが印象的でした。
茂木史郎航海長のお話は、ご生還されたみなさんがよくお話にされておられました。
そのお人柄が偲ばれます。
このブログを通してご遺族の皆様と繋がりが持てていることは、うれしい限りです。
GAIYA様、お知らせありがとうございます。
今後ともよろしくお願いいたします。
杉野さんは松山基地から沖縄特攻出撃前、三田尻に回航中の大和を目撃された方でもあり、八杉さんの講演会でお二人は対面しています。
当日、愛媛零戦搭乗員会・会長の保田基一さんも参加されます。
保田会長は零戦、桜花と体験された方です。
会合の後、茂木航海長の墓参りに伺う予定です。
お誕生日おめでとうございます。
GAIYA様の誕生花は「馬酔木」ですね。
献身的という意味があるのですよ。
良き一年をお過ごしになられますように。
「彩雲」ですね。偵察機でありながら高馬力の発動機。「われに追いつくグラマンなし」は有名な打電文ですね。
そのようなご縁もございましたか。
70年の月日を思いますが、まだまだ完結しえない戦争なのですね。
お知らせありがとうございました。
ご連絡いただければ、写真をお送りしますので、どれが茂木史郎さんか教えてください。
平成28年5月20日
(公財)常盤同郷会 常務理事
兼 秋山兄弟生誕地 運営委員長 宇都宮良治