酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

塩竃の記憶

2012-08-10 08:52:27 | もっとくだまきな話
写真をご覧になられまして、「おや?」と思う方が大勢いらっしゃることと思います。
「おや?」ならまだいい方で、この写真のネガを見ました酔漢は「なして?」と声を上げたのは言うまでもございません。
「チリ地震津波の塩竃の様子」を先だって「くだまき」にいたしました。
その写真の入っておりましたアルバムの隅にありましたのが、冒頭の写真他でございます。
父のアルバムには昭和30年~とあり、他題名などはございません。
そして、この写真が父が直接撮影したのか、どなたから譲り受けたものであるのか、詳細は不明です。
ここで思い出しましたのが、戦後直ぐに行われました「昭和天皇地方巡幸」です。
改めて調べてみました。

宮城県の巡幸は、昭和22年8月5日から7日にかけて行われています。

志田郡荒尾村、東北大学農学研究所女川水産実験所、女川魚市場、塩釜魚市場、仙台長生園更生寮、古川町社会事業組合授産場(志田郡古川町)、国立仙台病院、仙台木町通小学校、東北大学金属材料研究所、宮城県庁、松島瑞巌寺、石巻小学校、栗原郡築舘町、若柳町新山公園、伊達貞宗邸(仙台市一本杉)、古川高等女学校(志田郡古川町)。


その年、昭和天皇は、積極的に地方を巡幸されておられます。
この東北巡幸の前6月7日~9日までは和歌山県内を回られておられます。
「酷暑が終わってからではいけないのでしょうか」と侍従に進言された陛下。
「この夏の間に東北を廻らねばならぬ」とお応えされておられます。
果たしてその通りに8月5日の福島・宮城県を皮切りに下記の通りのなります。

宮城 
昭和22年08月05日 福島県⇒仙台⇒伊達別邸御宿泊
昭和22年08月06日 伊達別邸⇒仙台・石巻・塩釜・松島・女川・石巻・小牛田・古川⇒県立女学校泊
昭和22年08月07日 県立女学校御発輦⇒古川・築館・若柳・石越⇒岩手県
岩手 
昭和22年08月07日 宮城県⇒一関・藤根・古川・花巻・盛岡⇒小岩井別邸御宿泊
昭和22年08月08日 小岩井別邸⇒盛岡・磯鶏・陸中山田・釜石・陸中山田・宮古・陸中川井・平津戸・浅岸・大志田・盛岡⇒小岩井別邸御宿泊
昭和22年08月09日 小岩井別邸御宿泊(御休養日)
昭和22年08月10日 小岩井別邸御発輦⇒盛岡・奥中山・一戸⇒青森県
青森 
昭和22年8月10日 岩手県⇒尻内・館村・八戸⇒大川邸御宿泊
昭和22年8月11日 大川邸御発輦⇒八戸・尻内・野辺地・青森・浪岡・弘前⇒弘前市公会堂御宿泊
昭和22年8月12日 弘前市公会堂御発輦⇒弘前⇒秋田県
秋田 
昭和22年8月12日 青森県⇒大館・沢口村・大館・鷹巣・東能代・羽後飯塚・秋田⇒佐竹邸御宿泊
昭和22年8月13日 佐竹邸御発輦⇒秋田⇒佐竹邸御宿泊
昭和22年8月14日 佐竹邸御発輦⇒秋田・秋田港・秋田・横手・湯沢・山田村・湯沢・秋田⇒佐竹別邸御宿泊
昭和22年8月15日 佐竹別邸御発輦⇒秋田・羽後本庄⇒山形県
山形 
昭和22年08月15日 秋田県⇒本楯・上田村・酒田・大泉村・鶴岡⇒酒井邸御宿泊
昭和22年08月16日 酒井邸御発輦⇒鶴岡・狩川・新庄・萩野村・新庄・山形・上ノ山⇒村尾旅館御宿泊
昭和22年08月17日 村尾旅館御発輦⇒米沢⇒福島県
福島 
昭和22年08月17日 山形県⇒福島・伏黒村・桑折・飯坂温泉⇒花水館御宿泊
昭和22年08月18日 花水館御発輦⇒福島・喜多方・会津若松・猪苗代湖・翁島村⇒高松宮翁島御別邸御宿泊
昭和22年08月19日 高松宮翁島御別邸御発輦⇒安積疏水・郡山・矢吹・白河⇒栃木県(那須御用邸)

かなりの強行軍。
しかも、宮城では、宿泊場所を確保できず、宮城県古川高等女学校に泊まられておられます。


さて、ここで気付くことがあります。
写真はおそらく、東北区水産試験場塩竃支所内の写真です。
次の写真をご覧ください。

塩竃市史、「故郷の記録、塩竃・松島 写真集」には、これより数分前と思われる写真が掲載されております。
先頭を行きますのは、当時の桜井辰治塩竃市長。
その後の景色に見えますのが「東北ドック」のクレーンです。
現在の東塩釜駅の方面です。
「水研は新浜?」
酔漢の乏しい知識からは、ここも調べる必要があります。
「水研の歴史」これを見てみます。

昭和24年(1949)
東北水研
・6月1日付け水産庁設置法一部改正により農林省水産試験場は改組され、八海区水産研究所が発足し、東北区水産研究所(宮城県塩釜市東塩釜)が設立され、千葉県野島崎以北、北海道に至る東北海区を担当し、資源調査、漁況海況予測、水産物の保蔵法、利用加工法及び沿岸水域の増養殖に関する研究・調査をすることとなった。

・農林省水産試験場宮古試験地併合

・第一旭丸(木造、50トン)調査船として、水産資源及び海洋観測に従事


はて?昭和天皇が塩竃を訪れたのが、昭和22年では。
とその水研の年表を追いかけますと。

昭和30年(1955)
東北水研
・昭和天皇行幸(4月7日)


当初、昭和22年の行幸のお写真ではないか。こう思っておりましたが、そうではございませんでした。
写真はすでにお分かりいただけたかと存じますが、昭和30年4月7日でございます。
場所は塩竈市内にあります「東北区水産試験場内」です。
この日の日程等の詳細は手元にございません。
母より聞き取りました。

「昭和天皇は塩竃神社へ参拝され、その後水産試験場へお車でお出かけになられ、その後仙台へ向かわれた」と話しております。
また「『安産祈願』(現、天皇陛下)ではないか」と巷では話していたそうです。
宿泊先がどちらか。これには記憶がないそうです。
御休息所としては「勝画楼」(2012年6月5日「くだまき 塩竃雑景」を、ご参照下さい)ではなかったかと。こう申しておりました。
(上記、詳細は不明です)

ところで、果たして、父がこの場に居合わせ、自身でシャッターを切ったかどうか。
父とこの件を話題にしたことは記憶にないのですが、(酔漢自身が興味がなかったことも確かなのですが)一度、こう聞いたことがございます。
「だれ、金屏風が必要ということになってや。探したんだおん」
これは、塩竃市内にあります、老舗で大きな工務店(名前失念)から拝借したとか。(左記、母証言)
「声小さぐてや、『あ、そう』しか聞こえねがったんだおん」
と、話しておりましたところから・・・もしかして・・・と考えた次第です。
ですが、このアングルで写真撮影ですから、報道関係者としましても、難しいとも思うわけです。



熱心に説明をお聞きになられております、昭和天皇、皇后様です。
内容をメモしておいてあれば、その詳細も解ろうと思うのですが。
何も記載されておりません。



取り込みの際にピンボケになったのではなく、そのままの写真です。
お帰りになられるところであろうかと推察しております。

写真の出所は?
やはり、本人に聞いてみないことには分かりません。(もっと早く気付けばえがったっちゃ)

昭和22年からわずか8年で二度目の巡幸。
塩竃が、何か特別な街にも見えて来ます。

松島も地図さながらに見えにけりしづかに移る旅の空より

上記の句は昭和22年にお読みになられました歌でございます。

盆の入り。
食卓には「ずんだ餅」が必ず。
時の明治天皇が瑞巌寺で御休息された際、「ずんだ餅」を食し、おかわりをされたとか。

蝉の声を聴きながら「くだまき」を語っております。


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