同性寺に車を止めます。和光幼稚園の前を通り、ため池からの分かれ道を右へ、池を左に見ながら緩やかな坂道を登って行きます。右脇の崖にそって、墓地への入り口。水道がありまして、そこから細い道をさらに上がります。子供の頃、この道でよく足を滑らせました。上がりきった左手。妖怪「ぬりかべ」そっくりの墓石が見えます。祖父の墓でございます。墓石の背面には祖父の碑が彫られております。当時の村長によるものです。父は最初、大和にゆかりのある(大和からの生存者である)副長か副砲長にお願いをしたかったと申しておりますが、それは時間的な問題も含めて叶わなかったと話しております。
昭和45年に無くなった祖母、そして32年に亡くなられた叔父(父兄)と共に眠っております。
当然ながら、祖父の遺骨はありません。
祖母は、吉田浜の出身。船主の娘ですから、かなり裕福に育っております。酔漢小学校まで一緒にくらしておりましたが、当時としては珍しく長身。1メートル58センチはございました。祖父ががっちり型に対して祖母は、スラリとしております。昔から馴染みのお鮨屋さんから、「酔漢さん、おばあちゃんに似てきたね」と言われた事がございました。初めて申します、酔漢、瘠せすぎです。171cmの57Kgです。
海軍を志した祖父。半分駆け落ち状態で祖母と結婚いたします。隣浜のお嬢様を強引に横須賀へ連れて行った?訳でした。
その頃、大正の終わりから昭和の始め、酔漢祖父は、水雷屋でございました。兵時代は長門にも乗艦してましたが、その殆どが第七駆逐艦隊所属でした。
日中戦争時は上海へ特務として単身赴任をしています。任務は通信暗号。特殊な技術故、前線へ行くことはありませんでした。
上海から戻っておりますが、そのお土産が「亦楽尋常小学校」にはあったそうで、
なんでも「万里の長城のレンガ数個」だったとか。今はもう無いんだろうなぁ。どこか倉庫に眠ってたりして・・・・。
横須賀鎮守府所属ですから住まいは「横須賀不入斗」⇒読めますか?「いりやまず」です。
ここの場所、先にひー様がブログで語っておりました「塩竈こまっつぁき」と同じ風景なのでした。坂道が入り組み、段々畑のように住宅が立ち並ぶ。「火事になったらそれこそ大変」なのはここも同じです。
本当に塩竈と横須賀は見られる風景が似ています。
昭和初期、酔漢叔父が誕生。そして父も。結果、三男一女を設けます。
父は、横須賀は「鶴久保尋常小学校」へ入学します。ですから「山口百恵」さんの大先輩でした。
「だれ、山口百恵はおらほの後輩だっちゃ」と、父はよく申しております。
(全く縁はございません、クロンシュタットさんの松田聖子さんの方が・・ほほう・・・です)
この頃が、父に取って短かった普通の少年時代だったわけです。
祖父は横須賀鎮守府へは、徒歩で通勤していました。不入斗から今はバスが通っておりますが、近くのバス停まで山道(坂道のレベルではありません)を降りても結構な時間がかかります、横須賀元町の商店街から、京急「横須賀中央駅」あたりまでで坂道が一応終了します。海に向って「さいか屋」まで、大きな商店街を通ります。横須賀駅へは左へ。その交差点をまっすぐ行きますと横須賀鎮守府です。
酔漢、歩きました。徒歩40分。これ毎日では相当な距離です。
海軍省へ出かけるときは、さらに横須賀駅まで歩きます。
つくづく、「昔の人はよく歩いたんんだなぁ」です。
父に取りまして、この時期が一番幸せに暮らせた時期だったのでは、と思います。
祖父は上記に語りましたように、軍人でありながら、一般サラリーマンのような生活をしております。日曜が休み。朝出勤し、夜には帰って来る。こんな生活です。
父の通いました尋常小学校の頃の横須賀市立鶴久保小学校ですが、当時では珍しくモダンな小学校です。これは横須賀市の記録にも残っているのですが、校庭はアンツーカーが張られ、(記録ではアンツーカー一部コンクリートとなっております。が、父はコンクリート、アスファルトだったのではないかと申しております。⇒横須賀市教育委員会記録から)講堂の舞台は回転式です。校庭が二ヶ所。かなり恵まれた小学校です。現在もそうで、小学校のトイレが日本一きれいとかでモデル校となっています。
尋常小学校ですが、制服がありまして、年中半ズボンで通学していたとか。
写真を拝見しましたが、どこぞやの私学の小学校と変わらない様子です。
日曜日、「嵐勘十郎 鞍馬天狗」を見たそうです。その後、「さいかや百貨店」(現在三越グループ)で、上層階での食事。普通の家庭の普通の祭日です。
夏休みは、七ヶ浜まで帰省です。これは祖母の実家の威力が勝ります?
横須賀線で東京。そして上野。汽車で十数時間。仙台駅。駅前でハイヤー待っています。七ヶ浜までその車で。あのでこぼこ道(貞山橋を越えて、遠山からは小学校時代まで未舗装でした。ぐずら様ご自宅は山ん中?)を花渕まで。
海と野山と田んぼでの夏休みです。これも今の時代となんら代わりはございません。
戦争が激化。横須賀はその街の性格から、集団疎開が始まります。父は縁故疎開で七ヶ浜へ。
亦楽尋常小学校へ通う事となります。が、ランドセルを背負い、半ズボンに制帽。
学年に父しかおりません。しかも剣道の防具を自身で持っているのも・・。
当時、周りの小学生達は着物で通学していたとの事です。
このロケーション「少年時代」(映画)と全く同じです。
兄そして弟と共に花渕の祖父の実家で暮らします。横須賀とはガラリと生活が変わります。
祖母はそのまま横須賀へ残りました。
こうして、戦後十年近経って、今のこっまつぁきで暮すようになりました。
「酔漢、転勤だ」
「どこっしゃ?」
「横須賀だ」
「横須賀すか!」
「どうした、横須賀で何も驚くことはないだろう」
8年前。上司との会話です。
横須賀の事業所に3年間お世話になりました。
その間、横須賀の街を歩き回りました。不入斗へも出かけました。
「なんだや、こっまつぁきと一緒だっちゃ」山道の間に住宅が立ち並んでいる風景。酔漢、最初の感想です。
横須賀港を田浦の山から眺めます。
規模は違いますが、ドックがあって、クレーンがあって、貨物船、自衛隊の護衛艦が停泊しているのが見えます。
これも、「なんだや塩竈とかわんねぇっちゃ」でした。
事業所の裏に昔からある天ぷら屋。有名店です。昼食を取ります。
父から「親父に連れてもらったことある天ぷら屋だっちゃ」でした。
話によりますと・・さいかや隣にある酔漢の事業所です。
「映画館のあったとこだべ」と。
その時、ふと思いました。
「何で、俺や、ここさぁいんだべ?」
親子三代。塩竈と横須賀と70年掛けての往復です。
縁を感じました。不思議なものです。感慨深いものがありました。
祖母が声を掛けてきました。
「酔漢ちゃん、散歩さいぐべ」
祖母と手を繋いで、二小へ向います。ブランコに滑り台。遊んだ後、必ず、祖母は港の見える場所へ酔漢を連れて行きます。
しばし、海を眺める祖母。
今にして思えば、横須賀の風景を思い出すのと、自身の実家がある吉田浜へ思いをはせていたのだと思います。
仙台火力発電所三本煙突の煙が、夏の夕方に高くなびいている。
そんな頃でした。
昭和45年に無くなった祖母、そして32年に亡くなられた叔父(父兄)と共に眠っております。
当然ながら、祖父の遺骨はありません。
祖母は、吉田浜の出身。船主の娘ですから、かなり裕福に育っております。酔漢小学校まで一緒にくらしておりましたが、当時としては珍しく長身。1メートル58センチはございました。祖父ががっちり型に対して祖母は、スラリとしております。昔から馴染みのお鮨屋さんから、「酔漢さん、おばあちゃんに似てきたね」と言われた事がございました。初めて申します、酔漢、瘠せすぎです。171cmの57Kgです。
海軍を志した祖父。半分駆け落ち状態で祖母と結婚いたします。隣浜のお嬢様を強引に横須賀へ連れて行った?訳でした。
その頃、大正の終わりから昭和の始め、酔漢祖父は、水雷屋でございました。兵時代は長門にも乗艦してましたが、その殆どが第七駆逐艦隊所属でした。
日中戦争時は上海へ特務として単身赴任をしています。任務は通信暗号。特殊な技術故、前線へ行くことはありませんでした。
上海から戻っておりますが、そのお土産が「亦楽尋常小学校」にはあったそうで、
なんでも「万里の長城のレンガ数個」だったとか。今はもう無いんだろうなぁ。どこか倉庫に眠ってたりして・・・・。
横須賀鎮守府所属ですから住まいは「横須賀不入斗」⇒読めますか?「いりやまず」です。
ここの場所、先にひー様がブログで語っておりました「塩竈こまっつぁき」と同じ風景なのでした。坂道が入り組み、段々畑のように住宅が立ち並ぶ。「火事になったらそれこそ大変」なのはここも同じです。
本当に塩竈と横須賀は見られる風景が似ています。
昭和初期、酔漢叔父が誕生。そして父も。結果、三男一女を設けます。
父は、横須賀は「鶴久保尋常小学校」へ入学します。ですから「山口百恵」さんの大先輩でした。
「だれ、山口百恵はおらほの後輩だっちゃ」と、父はよく申しております。
(全く縁はございません、クロンシュタットさんの松田聖子さんの方が・・ほほう・・・です)
この頃が、父に取って短かった普通の少年時代だったわけです。
祖父は横須賀鎮守府へは、徒歩で通勤していました。不入斗から今はバスが通っておりますが、近くのバス停まで山道(坂道のレベルではありません)を降りても結構な時間がかかります、横須賀元町の商店街から、京急「横須賀中央駅」あたりまでで坂道が一応終了します。海に向って「さいか屋」まで、大きな商店街を通ります。横須賀駅へは左へ。その交差点をまっすぐ行きますと横須賀鎮守府です。
酔漢、歩きました。徒歩40分。これ毎日では相当な距離です。
海軍省へ出かけるときは、さらに横須賀駅まで歩きます。
つくづく、「昔の人はよく歩いたんんだなぁ」です。
父に取りまして、この時期が一番幸せに暮らせた時期だったのでは、と思います。
祖父は上記に語りましたように、軍人でありながら、一般サラリーマンのような生活をしております。日曜が休み。朝出勤し、夜には帰って来る。こんな生活です。
父の通いました尋常小学校の頃の横須賀市立鶴久保小学校ですが、当時では珍しくモダンな小学校です。これは横須賀市の記録にも残っているのですが、校庭はアンツーカーが張られ、(記録ではアンツーカー一部コンクリートとなっております。が、父はコンクリート、アスファルトだったのではないかと申しております。⇒横須賀市教育委員会記録から)講堂の舞台は回転式です。校庭が二ヶ所。かなり恵まれた小学校です。現在もそうで、小学校のトイレが日本一きれいとかでモデル校となっています。
尋常小学校ですが、制服がありまして、年中半ズボンで通学していたとか。
写真を拝見しましたが、どこぞやの私学の小学校と変わらない様子です。
日曜日、「嵐勘十郎 鞍馬天狗」を見たそうです。その後、「さいかや百貨店」(現在三越グループ)で、上層階での食事。普通の家庭の普通の祭日です。
夏休みは、七ヶ浜まで帰省です。これは祖母の実家の威力が勝ります?
横須賀線で東京。そして上野。汽車で十数時間。仙台駅。駅前でハイヤー待っています。七ヶ浜までその車で。あのでこぼこ道(貞山橋を越えて、遠山からは小学校時代まで未舗装でした。ぐずら様ご自宅は山ん中?)を花渕まで。
海と野山と田んぼでの夏休みです。これも今の時代となんら代わりはございません。
戦争が激化。横須賀はその街の性格から、集団疎開が始まります。父は縁故疎開で七ヶ浜へ。
亦楽尋常小学校へ通う事となります。が、ランドセルを背負い、半ズボンに制帽。
学年に父しかおりません。しかも剣道の防具を自身で持っているのも・・。
当時、周りの小学生達は着物で通学していたとの事です。
このロケーション「少年時代」(映画)と全く同じです。
兄そして弟と共に花渕の祖父の実家で暮らします。横須賀とはガラリと生活が変わります。
祖母はそのまま横須賀へ残りました。
こうして、戦後十年近経って、今のこっまつぁきで暮すようになりました。
「酔漢、転勤だ」
「どこっしゃ?」
「横須賀だ」
「横須賀すか!」
「どうした、横須賀で何も驚くことはないだろう」
8年前。上司との会話です。
横須賀の事業所に3年間お世話になりました。
その間、横須賀の街を歩き回りました。不入斗へも出かけました。
「なんだや、こっまつぁきと一緒だっちゃ」山道の間に住宅が立ち並んでいる風景。酔漢、最初の感想です。
横須賀港を田浦の山から眺めます。
規模は違いますが、ドックがあって、クレーンがあって、貨物船、自衛隊の護衛艦が停泊しているのが見えます。
これも、「なんだや塩竈とかわんねぇっちゃ」でした。
事業所の裏に昔からある天ぷら屋。有名店です。昼食を取ります。
父から「親父に連れてもらったことある天ぷら屋だっちゃ」でした。
話によりますと・・さいかや隣にある酔漢の事業所です。
「映画館のあったとこだべ」と。
その時、ふと思いました。
「何で、俺や、ここさぁいんだべ?」
親子三代。塩竈と横須賀と70年掛けての往復です。
縁を感じました。不思議なものです。感慨深いものがありました。
祖母が声を掛けてきました。
「酔漢ちゃん、散歩さいぐべ」
祖母と手を繋いで、二小へ向います。ブランコに滑り台。遊んだ後、必ず、祖母は港の見える場所へ酔漢を連れて行きます。
しばし、海を眺める祖母。
今にして思えば、横須賀の風景を思い出すのと、自身の実家がある吉田浜へ思いをはせていたのだと思います。
仙台火力発電所三本煙突の煙が、夏の夕方に高くなびいている。
そんな頃でした。
酔漢さんに頼まれて、お爺様の墓石の碑文を写しに行ったことがありましたね。
墓地で手帳に書き写す時はよかったけど、
家に帰って清書するのが一苦労でした。
文章の性質上、ホワイトなどで修正する訳にも参りません。
そういえば、お寺の本堂から墓地に行く道も細い上り道でしたね。
酔漢さんの実家のあたりも。
今日のお話だと、横須賀で酔漢さんのお爺様が住んでいたあたりも坂道があったのですね(あ、「山」道でした)。
坂があって海が見える景色・・・
酔漢さんのおうちの皆さんの原風景なのかもしれませんね。
遠きにありて思うものでも、
石をもて追わるるごとくに出でし悲しみを忘れる時がなくても、
故郷とは忘れられぬものです。
前前回のお話にありましたが、
お爺様はやっぱり、あの田んぼがあって海の見える七ヶ浜に帰りたかったのではないでしょうか。
阿川弘之の『軍艦長門の生涯』(立ったと思う)で読んだ覚えがあります。
船乗りが陸(おか)に上って一番最初にやりたかったこと・・・
酒を飲むことでも、活動を観に行くことでも、○×△を買いに行くことでもなく、
「土を踏んで歩くこと、思い切り手足を伸ばして緑の芝生に寝転ぶこと」
だったそうです。
酔漢さんのお爺様が帰りたかった所、
七ヶ浜だったにちがいありませんよ。
もう何年も、学会で上京すると必ず一日空けて横須賀に行っています(「ハマ通り越してスカに行くバカがどこにいる?」って、某氏に言われそうですね)。
あ、学会はちゃんと行ってます!
ホントですとも!!
ウソじゃありませんよ!!!
エエ、絶対に!!!!
小生自身、塩竈という坂があって海の見える町に長く暮しているからなのでしょうね。
北海道でいうと札幌も確かに懐かしいのですが(住んでました)、小樽や函館といった坂のある港町に単なる「懐かしさ」以上のものを感じるのです。
ドイツに一年住んでホームシックにかからなかったのも、ハイデルベルクが坂のある町だったからかもしれません(海はなかったけど)。
海があって坂が見える景色・・・
小生にとっても原風景なのだと思います。
それ故、車両に関しても新型が投入されるケースが多かったのです。
確か流線型の車両も走っていたと思います。
制服が眩しく映った時代でした。
翻って自衛隊の存在は、今もって日陰者です。
敗戦により行き場を失った父は横須賀から秋田に戻り、やがて自衛隊に勤めました。
水のみ百姓の三男坊でしたからね。同じようなケースが多かったと思います。
時代の流れに翻弄され続けた自衛隊時代でした。
悲しいことに災害や大きな事故が発生して、やっとこさ存在が認められるような立場でした。
以前は三中の敷地のはずれが原っぱになっており、多賀城駐屯地に続いていました。
よく授業をサボって原っぱで寝転がっていた私でしたが、1度だけ金網越しに巡視中の親父と出くわしたことがあります。
「あれ!どうしたんだ?」「おーっ!今は休み時間だぞー」
そんな長い休み時間は、あるわけないですよね。
横須賀への転勤は偶然とは思えませんね。
私も、先日から気になり、祖父の軍服姿に刀を立てて立っている写真があったと思い、母に訊ねましたが実家にあるかも…と、祖母より10歳も上だった祖父は明治生まれ、朝鮮で撮った写真と聞いており、年代から考えるとどうも日露戦争のようです。
母の上の兄弟は、次々亡くなり、もう訊ねる叔父叔母も少なくなりました。
この史実は、後世かたりつがねばなりません。
いいことも悪いことも。
同じ船乗りだった我が祖父と祖母のことを紹介しておこうと思います。
先日のコメにも書きましたが、ぐずら家は戦後のある時期まで旧塩竈駅前で廻船業を営んでおりました。
とはいえ、もともと塩竈に代々続いた家ではなく、牡鹿郡のとある浜の旧家の四男坊だった祖父が
海産物問屋を営む別家の大叔父の塩竈支店の留守居として昭和初期にやって来たのが始まりでした。
塩竈で最初に住んだところは宮町の西端の小松崎へ曲がる角の辺りで、ずいぶん後まで本籍もその場所にありましたが、酔漢さんのご実家からは目と鼻の先の辺りですね。
この祖父さんは明治17年生まれで、明治後期に鮎川に捕鯨業が興隆したころにその中に飛び込み
ノルウェイ式捕鯨術を修め、塩竈に出てきてからも死ぬまで捕鯨船乗りでも在りました。
祖母も祖父と隣村の裕福な旧家の娘で、半ばさらわれるようにして祖父と結婚したらしいのですが
夫の寄港地を追っ駆けて全国を飛回りながらも4男2女をもうけております。
明治から昭和へ最新テクノロジーとグローバリゼーションが海を舞台にしていた時代、ともに浜育ちの酔漢さんのお祖父さんとぐずらの祖父
進んだ道は違っていても、目の前の海を越えて世界の海へ飛び出して行くのに迷いはなかったと思います。
そういえば、普通のお墓とは別格で立派なお墓があったような気がします。
幼稚園に行くとお寺の前に駐車しますが、参観日などはすぐいっぱいになってしまうので、お墓の方に車をとめていました。
なにも考えずに駐車してましたが、酔漢さんのご先祖さまが眠るその前なのに…大変失礼しました!
今月半ばに幼稚園の夏祭りがあります。
ぐずらも私も行く気満々なのに、子どもたちは全然乗り気じゃないんですよぉ~
もう恥ずかしいんでしょうね。小さい子しかいないし。
まさか親だけで行ってもね… 先生方に笑われそうです!
昭和初期の長門だと思います。改装前の。
以前はありがとうございました。貴重な記録ではございますのに、引越しの荷のまだどこかへあるのだろうと思います。ですが、本家本元の「酔漢(よっぱらい)のくだ巻き」は全巻無事に保存されております。
(話を途中で変えようとしている魂胆ですって?そんな事はございません・・・)
本日より大和建造に渡る話を語ろうと考えております。史実に間違いがございましたら、訂正等お願い申し上げます。
皇族の方が使われる機会が多い所為だと聞きました。
父の話ですと、横須賀より先、久里浜へは、父が小学校3年生時に建設が始まったようです。
軍時的目的の線ですよね。
レイテの際、運休している横須賀線を「緊急事態だから」と一両貸切で海軍省へ向った祖父でございました。
父は知っているかもしれません。
ぐずら様のお爺様も時代の先駆でいらっしゃいました。
塩竈の昔を聞きますと、意外な程、世界に近い人が大勢いることに気づきます。
叔父(父弟)ですが、北洋遠洋漁業にたづさわり、機関長でした。
アリューシャンで操業していた時代です。
やはり戦争体験者でない部分が大きいと思いました。ですが、それぞれの見方でこの史実を語りませんことには、未来へと続くことがないのではと考えました。
本日は、祖父は登場しませんでした。大和建造の話を自身の感性でえ語ろうと考えました。