「それは、我々を歓迎してくれると思う間もなく、たいそうな眺めだった。まるで火山の爆発を見ているようだ」ベローウッド隊、マイケル・マゾッコ少尉は戦後そう証言いたしております。
マイケル少尉は「デカイ奴は俺が仕留める」と最初から話しておりました。愛機(ヘルキャット)には500ポンド爆弾を二発搭載させております。
「後のアベンジャーの奴等は殆ど盲目飛行を続けている。あんな度胸無しと一緒にはされたくはない」
と、機を急降下させようとしたその瞬間です。「デカイ奴」の巨大な灰色の砲塔が煙を吐くのが見られました。空気の振動で機が震えるのを感じます。
「火山を見ているようだ」
「花火を打上げたぜ!」
「吹流しだ。ありゃ!」
「おい、あの雲に近づくんじゃない。見とれている間に命がなくなるんだ!」
彼は「デカイ奴」の激しい対空砲をかいくぐり二発の爆弾を後部煙突辺りへ投下します。
「デカイ奴」の後方から大きな煙が上がるのを確認しました。
「命中した!」
ですが、他の艦とは違って爆弾の煙が非常に小さく見えます。
「デカイ奴を沈めるのに、俺達はあと何回同じ事をしなくちゃならないんだ」
彼は、目的を果たすと、ベローウッドへ帰還しました。
大和が主砲を発射したことを物語る証言です。この時、有賀艦長は「主砲撃ち方」とは発令しておりません。至近の敵には主砲の発砲は無駄だと判断してのことなのです。
曇天の中、主砲の三式焼霰弾は使えません。大和はこの天候与件で「天下の宝刀」を抜くことが出来ずにおります。
大和の主砲対空弾は「三式焼霰弾」所謂「三式弾」と呼ばれております。(正式には「三式通常弾改一」と呼ばれます)これは時限信管式でした。捷一号作戦時、その対空戦で三式弾は六十九発使用されております。ですが、この作戦時使用制限をうけております。撃ちたかったのですが、信管の数が少なかったのでした。長時間用信管の供給数が足りなかったのでした。この信管は「四式時限信管零型」と言われます。最長百秒までの調整が可能です。発射後百秒後に破裂します。有効射程は二万二千メートルでした。
航空機を目標とした場合、高度は一万一九○○メートルに及び、対空射撃用の三式通常弾には内部に約一四○○コの小弾を内蔵しており、これが空中で炸裂すれば、この小弾は火の玉となって四散する。そして、敵航空機を焼き尽くすほどの威力をもっている。
(元呉海軍工廠設計員 一號艦防空火器艤装担当 大谷豊吉さん 証言手記より抜粋)
米軍艦載機はあきらかに大和型主砲三式対空弾を恐れていたのでした。
「吹流しの炸裂だ!」と米搭乗員は報告しておりました。これは三式焼霰弾の炸裂点を目視してのことです。
もう少し、詳細をお話いたしましょう。
先にお話いたしました「四式時限信管零型」です。全長は一・六メートル、完備重量千三百六十キログラム、炸薬量八キログラム、焼夷弾子(数は九百九十六個、一個の寸法は二十五×七十ミリメートル)と支栓五百四個の合計千五百個です。炸裂した場合。その散開角度は十五度、燃焼秒時八秒、被害半径二百二十メートルです。弾体炸裂による弾片数は二千六百四十七個、焼夷剤成分の内訳といたしまして多硫化系合成ゴム、生ゴム、ステアリン酸、硫黄、硝酸バリウム、エレクトロン屑、テルミットを含んでおります。放出状況は最長七百メートルに及びます。(原勝一氏著「真相・戦艦大和ノ最期」より参考)
戦闘開始直前の様子をもう一度見てみます。
午後零時二十七分。無数の黒点を百三十度と二百十度方向に発見。黒点の群れはまたすぐ雲にはいった。(中略)目測距離二万五千メートル。晴天ならば当然、主砲の対空射撃を開始して、大いに効果を発揮しうる距離である。しかし、艦隊上空の雲高は、以前して一千メートル前後。(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
十二時十五分、電探発見のときは六、七万メートル、距離がありすぎ、零時二十七分のときは二万五千で絶好の射程距離だったが、当時は電探射撃が出来るほど精密なものではなかった。晴天ならばそれが出来たが、雲が濃く、敵は雲から雲を縫ってやってくるので、なかなかつかめない。(黒田吉郎 大和砲術長 手記より抜粋)
近距離、しかも機銃、高角砲が対空射撃を行っている間。主砲は撃てません。主砲の撃つ衝撃がむき出しの機銃員に与える影響が大きいのと、発砲時にでる煙が敵捕捉に悪影響を及ぼすからです。ですから本来主砲発砲時にはブザーがなり機銃射撃指揮官は捕捉するためのプリズムを締まってから退避するのが原則だったのです。大和はその天下の宝刀を完全に封じ込められているのです。
前部射撃指揮所。主砲の目標捕捉、そして主砲発射を指揮するところです。主砲の引き金もここにあります。
大和のトップ海面上約七○メートルの高所にございます。
「左二十五度、高度八、四○、グラマンニ機、右進行」
「今、目標五機、否、一○機、否、三○機以上」
「敵、一○○以上。突っ込んで来る」
艦橋の見張員の声が伝声管より聞こえてきました。
小林健水長は、四箇所ある窓のハンドルを開けて外の様子を見ました。
「おい、あちこちから敵が突っ込んでくる」
「数はどうだ!」
「数えられない!」
小林上水は潜望鏡を格納すると指揮所ないで敵捕捉の任務に取りかかります。
主砲九門は全て左舷側敵主力のあると思われる方向へ向いております。
「主砲の撃てる距離ではない・・・が・・・弾幕は張れる」
黒田吉郎砲術長はそう考えておりました。これは大和着任する前「伊勢」に載っていたときの教訓なのでした。確かに三式焼霰弾が確実に敵を撃破したとの記録は少ないのです。しかし、それが作り出す「吹流し」は明らかに敵を近づけさせない効果は絶大なのです。弾幕の効果は電探と連動射撃が出来ないことには始まりません。しかも、敵を目視できる距離は高角砲、機銃が有効なのは明らかです。しかし。
「主砲撃たずして何が大和であるのか」
これは黒田砲術長が今考えていることだったのでした。
「射ち方、ハジメ!」
防空指揮所にいる有賀艦長が一斉に下令いたしました。
艦長の大きな声が発せられるや、大和が持っている機銃、副砲、高角砲のすべてが、待っていましたとばかりに一斉に火を吹きはじめる。大和周辺の僚艦も砲火をひらき、一瞬のうちに、東シナ海の一点上は一大戦場と化していった。
(小林健上水 大和第九分隊 証言手記より抜粋)
黒田砲術長は艦隊を覆っている雲を呪いました。
「砲術長、さっきから一言も命令を発していないな」
爆音が炸裂するなか、主砲射撃指揮所は戦場において「蚊帳の外」状態なのです。
「そりゃ、この大和の主砲を撃ちたいのは俺達だって同じさ。だから砲術長はそれ以上だと思う」
大和の主砲は一番、二番は左舷の敵を見据えております。
捷一号作戦時、戦艦伊勢は巧みな弾幕を撃ちあげております。
今回の作戦は対空戦が予測された。(中略)全砲火を組み合わせて自艦上空に防空弾幕を展張する、いわゆる弾幕射撃の方式を採用することにしたのである。すなわち、全砲銃に、自艦上空にジョウゴ型になるように受け持ちの角度をあたえ、かつ各砲銃の有効射程に応じ、あらかじめその照尺量を定めておいて、号令一下、各砲銃いっせいに火ぶたを切り、立体的に、かつ幅広のジョウゴ弾幕をつくるのである。
(黒田吉郎 大和砲術長 手記より抜粋)
黒田砲術長はこの伊勢での戦訓をもとに伊藤司令長官へその対空防御法を自論として意見具申をしております。
「今後対空戦闘は大となる。大和でもいかんなくその実力を発揮してもらいたい」として、大和着任の運びとなります。
しかし、今戦闘中。主砲は撃てません。
「艦長!艦長!主砲を!主砲を撃たせてください!」
黒田砲術長はありったけの声で直下にいる有賀艦長へ伝えました。
「駄目だ!主砲は撃つな!」
間髪を入れず有賀艦長からの返事です。
主砲射撃指揮所は艦橋トップです。艦が回避運動を取るたび、左、右へと大きく傾きます。
空襲はいよいよ激しさを増し、被弾の音が大きく伝わるようになりました。
「もう一度、意見をスル!」黒田砲術長はまたも伝声管へありったけの声を出しました。
「艦長!・・艦長!主砲を!主砲を射たしてください!」
「雲は・・・低い!」
「敵は捕捉不能!」
大和自慢の測距器では敵捕捉はあまりにも近すぎて不可能な状態だったのです。まったくの盲目射撃を実行するようなものです。それは黒田砲術長は判りすぎるほど判っているのです。ですが、その思い。
「主砲あっての大和」なのです。
「主砲は射つな!射ってはならぬ!」
「くっそ!電探が使えれば」
射撃指揮所内にいる者全員がそう思っているに違いないのでした。
それは、おそらく有賀艦長も同じなのです。恨めしいのは「天候」なのです。
航空機を用いた戦闘は、正念場は十五分間です。私は終止最上部の測的所にいましたが、悪いことにこの日は雲が低く垂れ込めていて、雲上の敵機を捕捉出来ません。(中略)もし晴天であれば、主砲の三式弾が敵編隊に相当なダメージを与えることができたでしょう。
(中略)雷撃機は低空から魚雷を放ちます。こちらは曇天が邪魔をして測距ができず、主砲が撃てません。思うように戦えず、悔しさに泣きたい思いでした。(中略)防空射撃指揮所で指揮を執っていた有賀幸作艦長が地団駄を踏んでいるのが見えました。
(石田直義上曹 大和測距儀測手 証言より抜粋)
射撃指揮所内中央。黒田砲術長。
「主砲、射撃用意!」いきなり発しました。
各砲台からは。
「主砲準備ヨシ」と次々に返ってきました。
「射ち方ハジメ!」
一番、ニ番前部の主砲六門が一斉に火を吹きました。
「何をしておるか!何故射った!」
とたんに艦長から叱声が返ってきました。
「主砲が射ったのか」
小林昌信上水は右舷機銃におりました。いきなりの轟音とともに煙覆われます。
最初は主砲の発射とは思わなかった。が爆弾とも違っていると。息が詰まるような感じでした。一分位だったと感じましたが、目標が見えなくなりました。
(小林昌信上水 証言より抜粋)
「おい独立記念日のショーが始まったゼ」
エセックス隊のパイロットはこう打電しております。(パイロット名は未記載)
彼等にとって「真上の行くと危ない奴」そして「吹流しの花火」は、最大の脅威だったのでした。
伊勢のときは、対空弾幕射撃は有効に実施することができたのであるが、大和の場合は天象は敵に有利にして、われに利あらず。かぎられた弾薬定数をもってしては、弾幕射撃を持続して来襲にそなえるというわけにはいかず、大いに期待をかけた弾幕射撃も、その効果を挙げることができなかったことは、千載の痛恨事というほかない。
(黒田吉郎 大和砲術長 手記より抜粋)
戦後「大和は何故主砲、三式弾を射たなかったのか」と、疑問を投げかける方が大勢おられます。しかし、その戦闘状況を顧みますれば「その状況にはなかった」と申し上げる他はないことを知ります。果して黒田さんは、戦後この「主砲発射」の事実を語っておられません。単に「命令違反」としてだけではなく「それ以上の『思い』があったのではないか」と推察しております酔漢です。清水さん(大和元副砲長)は「主砲発射は戦後になっても知らなかった」と申しておりました。まして「主砲が射ってなかった」とお話される方もおられます。ですが、アメリカの記録写真には、はっきり「大和主砲発射の瞬間」と見られるものがございます。
天下の砲塔を持つ大和が、天下の宝刀を抜けなかった。
その長である黒田さんの気持が大きくのしかかる酔漢でございました。
2010年6月24日 7時50分 追加捕捉。
石田直義さん 元大和測距儀測手の証言がございました。ここに捕捉追加といたしました。
マイケル少尉は「デカイ奴は俺が仕留める」と最初から話しておりました。愛機(ヘルキャット)には500ポンド爆弾を二発搭載させております。
「後のアベンジャーの奴等は殆ど盲目飛行を続けている。あんな度胸無しと一緒にはされたくはない」
と、機を急降下させようとしたその瞬間です。「デカイ奴」の巨大な灰色の砲塔が煙を吐くのが見られました。空気の振動で機が震えるのを感じます。
「火山を見ているようだ」
「花火を打上げたぜ!」
「吹流しだ。ありゃ!」
「おい、あの雲に近づくんじゃない。見とれている間に命がなくなるんだ!」
彼は「デカイ奴」の激しい対空砲をかいくぐり二発の爆弾を後部煙突辺りへ投下します。
「デカイ奴」の後方から大きな煙が上がるのを確認しました。
「命中した!」
ですが、他の艦とは違って爆弾の煙が非常に小さく見えます。
「デカイ奴を沈めるのに、俺達はあと何回同じ事をしなくちゃならないんだ」
彼は、目的を果たすと、ベローウッドへ帰還しました。
大和が主砲を発射したことを物語る証言です。この時、有賀艦長は「主砲撃ち方」とは発令しておりません。至近の敵には主砲の発砲は無駄だと判断してのことなのです。
曇天の中、主砲の三式焼霰弾は使えません。大和はこの天候与件で「天下の宝刀」を抜くことが出来ずにおります。
大和の主砲対空弾は「三式焼霰弾」所謂「三式弾」と呼ばれております。(正式には「三式通常弾改一」と呼ばれます)これは時限信管式でした。捷一号作戦時、その対空戦で三式弾は六十九発使用されております。ですが、この作戦時使用制限をうけております。撃ちたかったのですが、信管の数が少なかったのでした。長時間用信管の供給数が足りなかったのでした。この信管は「四式時限信管零型」と言われます。最長百秒までの調整が可能です。発射後百秒後に破裂します。有効射程は二万二千メートルでした。
航空機を目標とした場合、高度は一万一九○○メートルに及び、対空射撃用の三式通常弾には内部に約一四○○コの小弾を内蔵しており、これが空中で炸裂すれば、この小弾は火の玉となって四散する。そして、敵航空機を焼き尽くすほどの威力をもっている。
(元呉海軍工廠設計員 一號艦防空火器艤装担当 大谷豊吉さん 証言手記より抜粋)
米軍艦載機はあきらかに大和型主砲三式対空弾を恐れていたのでした。
「吹流しの炸裂だ!」と米搭乗員は報告しておりました。これは三式焼霰弾の炸裂点を目視してのことです。
もう少し、詳細をお話いたしましょう。
先にお話いたしました「四式時限信管零型」です。全長は一・六メートル、完備重量千三百六十キログラム、炸薬量八キログラム、焼夷弾子(数は九百九十六個、一個の寸法は二十五×七十ミリメートル)と支栓五百四個の合計千五百個です。炸裂した場合。その散開角度は十五度、燃焼秒時八秒、被害半径二百二十メートルです。弾体炸裂による弾片数は二千六百四十七個、焼夷剤成分の内訳といたしまして多硫化系合成ゴム、生ゴム、ステアリン酸、硫黄、硝酸バリウム、エレクトロン屑、テルミットを含んでおります。放出状況は最長七百メートルに及びます。(原勝一氏著「真相・戦艦大和ノ最期」より参考)
戦闘開始直前の様子をもう一度見てみます。
午後零時二十七分。無数の黒点を百三十度と二百十度方向に発見。黒点の群れはまたすぐ雲にはいった。(中略)目測距離二万五千メートル。晴天ならば当然、主砲の対空射撃を開始して、大いに効果を発揮しうる距離である。しかし、艦隊上空の雲高は、以前して一千メートル前後。(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
十二時十五分、電探発見のときは六、七万メートル、距離がありすぎ、零時二十七分のときは二万五千で絶好の射程距離だったが、当時は電探射撃が出来るほど精密なものではなかった。晴天ならばそれが出来たが、雲が濃く、敵は雲から雲を縫ってやってくるので、なかなかつかめない。(黒田吉郎 大和砲術長 手記より抜粋)
近距離、しかも機銃、高角砲が対空射撃を行っている間。主砲は撃てません。主砲の撃つ衝撃がむき出しの機銃員に与える影響が大きいのと、発砲時にでる煙が敵捕捉に悪影響を及ぼすからです。ですから本来主砲発砲時にはブザーがなり機銃射撃指揮官は捕捉するためのプリズムを締まってから退避するのが原則だったのです。大和はその天下の宝刀を完全に封じ込められているのです。
前部射撃指揮所。主砲の目標捕捉、そして主砲発射を指揮するところです。主砲の引き金もここにあります。
大和のトップ海面上約七○メートルの高所にございます。
「左二十五度、高度八、四○、グラマンニ機、右進行」
「今、目標五機、否、一○機、否、三○機以上」
「敵、一○○以上。突っ込んで来る」
艦橋の見張員の声が伝声管より聞こえてきました。
小林健水長は、四箇所ある窓のハンドルを開けて外の様子を見ました。
「おい、あちこちから敵が突っ込んでくる」
「数はどうだ!」
「数えられない!」
小林上水は潜望鏡を格納すると指揮所ないで敵捕捉の任務に取りかかります。
主砲九門は全て左舷側敵主力のあると思われる方向へ向いております。
「主砲の撃てる距離ではない・・・が・・・弾幕は張れる」
黒田吉郎砲術長はそう考えておりました。これは大和着任する前「伊勢」に載っていたときの教訓なのでした。確かに三式焼霰弾が確実に敵を撃破したとの記録は少ないのです。しかし、それが作り出す「吹流し」は明らかに敵を近づけさせない効果は絶大なのです。弾幕の効果は電探と連動射撃が出来ないことには始まりません。しかも、敵を目視できる距離は高角砲、機銃が有効なのは明らかです。しかし。
「主砲撃たずして何が大和であるのか」
これは黒田砲術長が今考えていることだったのでした。
「射ち方、ハジメ!」
防空指揮所にいる有賀艦長が一斉に下令いたしました。
艦長の大きな声が発せられるや、大和が持っている機銃、副砲、高角砲のすべてが、待っていましたとばかりに一斉に火を吹きはじめる。大和周辺の僚艦も砲火をひらき、一瞬のうちに、東シナ海の一点上は一大戦場と化していった。
(小林健上水 大和第九分隊 証言手記より抜粋)
黒田砲術長は艦隊を覆っている雲を呪いました。
「砲術長、さっきから一言も命令を発していないな」
爆音が炸裂するなか、主砲射撃指揮所は戦場において「蚊帳の外」状態なのです。
「そりゃ、この大和の主砲を撃ちたいのは俺達だって同じさ。だから砲術長はそれ以上だと思う」
大和の主砲は一番、二番は左舷の敵を見据えております。
捷一号作戦時、戦艦伊勢は巧みな弾幕を撃ちあげております。
今回の作戦は対空戦が予測された。(中略)全砲火を組み合わせて自艦上空に防空弾幕を展張する、いわゆる弾幕射撃の方式を採用することにしたのである。すなわち、全砲銃に、自艦上空にジョウゴ型になるように受け持ちの角度をあたえ、かつ各砲銃の有効射程に応じ、あらかじめその照尺量を定めておいて、号令一下、各砲銃いっせいに火ぶたを切り、立体的に、かつ幅広のジョウゴ弾幕をつくるのである。
(黒田吉郎 大和砲術長 手記より抜粋)
黒田砲術長はこの伊勢での戦訓をもとに伊藤司令長官へその対空防御法を自論として意見具申をしております。
「今後対空戦闘は大となる。大和でもいかんなくその実力を発揮してもらいたい」として、大和着任の運びとなります。
しかし、今戦闘中。主砲は撃てません。
「艦長!艦長!主砲を!主砲を撃たせてください!」
黒田砲術長はありったけの声で直下にいる有賀艦長へ伝えました。
「駄目だ!主砲は撃つな!」
間髪を入れず有賀艦長からの返事です。
主砲射撃指揮所は艦橋トップです。艦が回避運動を取るたび、左、右へと大きく傾きます。
空襲はいよいよ激しさを増し、被弾の音が大きく伝わるようになりました。
「もう一度、意見をスル!」黒田砲術長はまたも伝声管へありったけの声を出しました。
「艦長!・・艦長!主砲を!主砲を射たしてください!」
「雲は・・・低い!」
「敵は捕捉不能!」
大和自慢の測距器では敵捕捉はあまりにも近すぎて不可能な状態だったのです。まったくの盲目射撃を実行するようなものです。それは黒田砲術長は判りすぎるほど判っているのです。ですが、その思い。
「主砲あっての大和」なのです。
「主砲は射つな!射ってはならぬ!」
「くっそ!電探が使えれば」
射撃指揮所内にいる者全員がそう思っているに違いないのでした。
それは、おそらく有賀艦長も同じなのです。恨めしいのは「天候」なのです。
航空機を用いた戦闘は、正念場は十五分間です。私は終止最上部の測的所にいましたが、悪いことにこの日は雲が低く垂れ込めていて、雲上の敵機を捕捉出来ません。(中略)もし晴天であれば、主砲の三式弾が敵編隊に相当なダメージを与えることができたでしょう。
(中略)雷撃機は低空から魚雷を放ちます。こちらは曇天が邪魔をして測距ができず、主砲が撃てません。思うように戦えず、悔しさに泣きたい思いでした。(中略)防空射撃指揮所で指揮を執っていた有賀幸作艦長が地団駄を踏んでいるのが見えました。
(石田直義上曹 大和測距儀測手 証言より抜粋)
射撃指揮所内中央。黒田砲術長。
「主砲、射撃用意!」いきなり発しました。
各砲台からは。
「主砲準備ヨシ」と次々に返ってきました。
「射ち方ハジメ!」
一番、ニ番前部の主砲六門が一斉に火を吹きました。
「何をしておるか!何故射った!」
とたんに艦長から叱声が返ってきました。
「主砲が射ったのか」
小林昌信上水は右舷機銃におりました。いきなりの轟音とともに煙覆われます。
最初は主砲の発射とは思わなかった。が爆弾とも違っていると。息が詰まるような感じでした。一分位だったと感じましたが、目標が見えなくなりました。
(小林昌信上水 証言より抜粋)
「おい独立記念日のショーが始まったゼ」
エセックス隊のパイロットはこう打電しております。(パイロット名は未記載)
彼等にとって「真上の行くと危ない奴」そして「吹流しの花火」は、最大の脅威だったのでした。
伊勢のときは、対空弾幕射撃は有効に実施することができたのであるが、大和の場合は天象は敵に有利にして、われに利あらず。かぎられた弾薬定数をもってしては、弾幕射撃を持続して来襲にそなえるというわけにはいかず、大いに期待をかけた弾幕射撃も、その効果を挙げることができなかったことは、千載の痛恨事というほかない。
(黒田吉郎 大和砲術長 手記より抜粋)
戦後「大和は何故主砲、三式弾を射たなかったのか」と、疑問を投げかける方が大勢おられます。しかし、その戦闘状況を顧みますれば「その状況にはなかった」と申し上げる他はないことを知ります。果して黒田さんは、戦後この「主砲発射」の事実を語っておられません。単に「命令違反」としてだけではなく「それ以上の『思い』があったのではないか」と推察しております酔漢です。清水さん(大和元副砲長)は「主砲発射は戦後になっても知らなかった」と申しておりました。まして「主砲が射ってなかった」とお話される方もおられます。ですが、アメリカの記録写真には、はっきり「大和主砲発射の瞬間」と見られるものがございます。
天下の砲塔を持つ大和が、天下の宝刀を抜けなかった。
その長である黒田さんの気持が大きくのしかかる酔漢でございました。
2010年6月24日 7時50分 追加捕捉。
石田直義さん 元大和測距儀測手の証言がございました。ここに捕捉追加といたしました。
米軍機が撮影した大和の写真に、
前部の一番主砲塔と二番主砲塔から砲煙が出ているものがあります。
また別の写真数枚では、一番砲塔と二番砲塔は右舷を指向しています。
これは砲側照準による各個射撃ではなく、
主砲方位盤による統一射撃をした証拠です。
主砲を発射していなければ(少なくとも発射の意志がなければ)、
主砲は艦の軸線方向を向いているはずです。
児島襄氏の『戦艦大和』(下)に次のような箇所があります(文春文庫版229ページ)。
・・・小林上等水兵が大声で叫ぼうとしたとき、左前方の密雲を突きぬけてコルセア戦闘機三機がかけ下りてきたとみるや、そのあとから米機約二○○機がわき出し、「大和」前方を右に走った。(すげェ)と、はじめて見る大量の敵機に小林上等水兵が眼をむいたとたん、見張員の絶叫にあわせて主砲発射準備のブザーが鳴り、防空指揮所で大喝する有賀艦長の砲撃開始号令がスピーカーにひびくと同時に、「大和」はずんと引き下げられるような衝撃をうけ、小林上等水兵は吹きつける爆風にゆすぶられた。
午後零時三十二分-村田大尉手練の主砲瞬発射撃であり、その砲声を合図に「大和」は二四ノットに増速して突進を開始した。
なお児島さんは、村田大尉に取材してこの本を書いています。
これだけ証拠が揃えば、
「主砲を撃たなかった」ということはあり得ません。
もっとも大和の主砲が撃ったのは対空三式弾であり、九一式徹甲弾ではありません。
「沖縄の米艦隊にを目標に九一式徹甲弾を撃たせてやりたかった」
と考えるのは、文学屋の悪いクセであります。
「大和は徹甲弾を撃たなかった」の「撃たなかった」が独り歩きして
「大和は主砲を撃たなかった」となり、そこから
「大和はなぜ主砲で三式弾を撃たなかったのか」
という説が生じたのではないでしょういか。
戦法が変わって、大艦巨砲主義が
終焉していたということですね。
大和も武蔵も活躍の場がなくて、
さぞかし無念だったことでしょう。
10年先を見据えて計画を、
とよく言いますが、結局は
運のような気もします。
先見の明がなかったとは言えないでしょう。
さらに外気に身をさらしている乗組員の身体を傷つけてしまう恐れもあります。
あくまでも主要艦同士の遠距離戦のみを想定した兵器思想ですよね。対航空戦なんぞは元来想像だにしなかったのでしょう。
ワシントンやロンドンの軍縮条約を締結していなかったならば、さらに大艦巨砲主義は蔓延していたと思います。
艦体派の鼻高々という状況となっていたのでしょうが、そもそもアメリカの大艦隊が太平洋を押し渡って来ることがありえたのでしょうか?
基本戦略がそうであったとしても、主戦場が欧州大西洋となるのはアメリカも日本も十分にわかっていたはずですよね。
双方が建艦競争に勝つための「狼少年」的なまやかしの基本戦略であったように感じてしまいます。
ところが、目的地に着く前にやっかいな蜂の大群に攻撃されました。
これが半端な数じゃない。
主砲の煙りで蜂を黙らせようとすれば、自分達が蜂の姿を見失い、煙りにまかれて逆に蜂に刺されしまう。
あまりにも、蜂の数が多過ぎましたね。
蜂には蜂が必要でしたが、無念としかいいようのない状況ですね。
主力艦同士の主砲の撃ち合いによる艦隊決戦が生起しなかった。
こう考えるのが妥当だと私も思います。
マリアナ沖海戦が艦隊決戦と言えなくもないですが、
艦隊同士は相手を目視せず、三次元の戦闘になってしまいました。
日本の水上部隊は、確かに運がありませんでしたね。
艦隊決戦は生起しませんでしたが、
水上艦艇の遭遇戦で戦艦が主砲を撃つ場面はありました。
戦艦同士が主砲を撃ち合う場面もありました(第三次ソロモン海戦の第二夜戦)。
確かに後世の我々は、水上部隊同士の艦隊決戦が生じなかったことを知っています。
しかしその事実を以て
「艦隊決戦が生ずるはずもないのに、なぜ大戦艦を建造したのか」
「艦隊決戦が生ずるはずもないのに、なぜ雷装重視の巡洋艦や駆逐艦を整備したのか」
という批評をすることは、慎むべきだと思うのです。
人間は全知全能の神ではありません。
当時の人物に「現代と同じ情報量で情勢を判断しろ」と要求するのは、
いささか酷な気がするのです。
それと米国艦隊が太平洋を渡って攻めてくる可能性はあったと思います。
日露戦争に日本が勝ってからというもの、アメリカの仮想敵国は一貫して日本でした。
ハリマンによる南満州鉄道の共同経営提案が拒否されると、
米議会は対日移民法案を可決します。
白色艦隊を世界一周の途中で日本に寄港させたのは(1908年)、
明らかに日本への示威が目的です。
第一次世界大戦の後に日本が国際連盟の常任理事国になった後、
ワシントン体制の成立によって日英同盟は失効し、
日英通商航海条約と日米通商航海条約は廃棄されます。
一種の集団安全保障体制が成立したと言えないこともありません。
しかしその結果、日本と米英の個別の同盟関係はなくなりました。
これは明らかに日本の封じ込めを狙ったものと言えるでしょう。
当然、アメリカとしては対日戦争を予想していました。
アメリカのオレンジプラン(対日戦争計画)は
1)グアムとフィリピンの米軍を救出するため西太平洋に出動、
2)日本本土を海上封鎖する
というものでした。
反攻の起点がソロモン諸島になってはいますが、
太平洋戦争の米軍はほぼこの計画に沿って侵攻してきます(その意味で日本海軍の漸減作戦も理にかなったものだったと思います)。
違いといえば戦争が二次元ではなくて三次元で戦われたこと、
艦隊決戦ではなくて太平洋の島を争奪する陣地戦で決着がついたということでしょうか。
「今や主力艦による艦隊決戦の時代ではない」。
連合軍がそう気づいたのは、やはり真珠湾攻撃とマレー沖海戦の結果です。
しかしアメリカは太平洋戦争中に新しい戦艦を就役させています。
また真珠湾で沈められた戦艦を引揚げて再就役させます。
これは戦艦の対日保有率がひどい不均衡に陥ったからに他ありません。
アメリカの見るべき所は、
引揚げた戦艦を徹底して実戦向きに改装したこと(副砲を廃止して高角砲を装備)。
それと機動部隊の護衛や陸上の陣地や工業施設に対する艦砲射撃など、新たな目的のために戦艦を活用したことでしょう。
翻って我が日本の戦艦には、基本的には活躍の場が与えられませんでした。
なるほど昭和十九年に戦艦中心の第一艦隊が廃止されます。
これは日本海軍が「水上部隊同士の艦隊決戦は起らない」と判断した証拠だと思います。
しかしこの判断が昭和十九年までつけられなかったのは、
「戦艦は主力艦。陸上目標への艦砲射撃や母艦の護衛に使うなどもっての他」という考えが、
海軍首脳の中に抜きがたく存在したからでしょう。
その拠り所になるのが日本海海戦の完全勝利だったのは、
歴史の皮肉というより他ないと思います。
それと戦艦は浮いているだけで燃料を大量に消費するという事実も見逃せません。
アメリカは航空母艦の建造と並んで大戦中も戦艦を就役させ、
引揚げた戦艦を徹底して実戦向きに改装しました。
日本で開戦後に就役したのは、戦前に起工された大和と武蔵のみ。
また対空兵器の強化はどの戦艦でもなされましたが、
機動部隊への随伴に必要な高速化はなされずじまいでした。
両国の工業的な基礎体力の差を痛感させられます。
様々な意味で、日本の水上艦艇、特に戦艦はつくづく運がありませんでした。
坪井さん八杉さん三笠さんそして石田さん。
すばらしいおじいちゃん達だと思っております。
さて、主砲の発射はまだあります。
次回編で語るところでありますが、黒田さんは一貫してその史実をお話されていらっしゃいません。米軍記録から推察するところです。
第二波攻撃の際「時限信管をゼロ設定」黒田さんは砲塔へこう下令されておりました。
建造記録のところでも考えましたが、あおの当時、10年後の状況を誰が予想できたでしょう。
米、英、そして多くの国々も「大鑑巨砲」だったのです。
歴史の結果を知る私達が知る史実。
先見はあの段階では日本にあったとそう感じるような気がします。
多くの方がそれぞれの私見を述べられており、それを整理するのは本篇ではないと判断いたあしました。ですが、少しばかり語ってもよかったかと思いました。
難しい問題ですね。
主砲発射の爆風他の影響は確かに大なのですが、副砲(15.5サンチ)が発射されたときの爆風は主砲のそれと、かわらなかったとお話される機銃分隊の方がおられました。「機銃発射中、副砲の発射が一番邪魔だった」との証言です。副砲のある位置、ロケーションの問題ではないかと考えてます。