史料の整理、そして自らの史観、仮説への立証のめどがようやく立ちました。
東海大学「鳥飼先生」のご協力も得ることが出来ました。
昭和20年一月からの歴史を振り返りながら、今一度、大和が沖縄へ向う様子を語って行きたいと考えます。
酔漢祖父。通信室におります。再度ご紹介いたします。
第二艦隊司令部通信。参謀は小沢信彦。酔漢祖父はその直轄として、主にGF(連合艦隊)と2F(第二艦隊)そして軍本部との通信に従事しております。
能村次郎(大和副長)の手記によりますと「艦同士の連絡には大和が、GFの連絡には2F通信隊がその役割を担っていた」と記しております。
祖父は当時の戦況を一番先に平文にする役目であったのでした。
昭和53年、の靖国神社で行われた慰霊祭。話は飛びますが、昭和20年4月5日に少尉候補生退艦が行われます。その中のお一人であります「吉田さん」です。
「酔漢祖父さん、ずうずう弁でね。『おらいのやってる事さぁ見てるだけでいいんだからっしゃ』と言っておられました。ですがね、正誤表なしで海軍暗号を平文にするんですから、暗号解読では大和でも一、二だったんじゃないかって思ってるんですよ」とおっしゃっておられました。
祖父の下には、様々な戦況が入ってくるのでした。
昭和20年1月早々。「最高戦争指導会議」が開催されます。
本土防衛を優先させて、「全軍特攻」をその文書で見る事ができます。
→今後、「特攻」という言葉に着目いたします。私見を述べさせていただけますれば、この大和が沖縄へ向う作戦「天一號」は「特攻にはあらず」というのが、酔漢の私見でございます。この事は遺族の間でもしばしば問題になるところではございますが、「大和は特攻ではなく通常作戦であった」と結論付けます。
様々なご意見があろうかとは存知ますが、これを仮説とし、この仮説を裏付ける根拠を挙げながら、4月7日までを語りたいと考えております。
同年1月20日。
祖父の下に帝国海軍より電文が到着いたします。
「帝国海軍作戦計画大綱」でした。
第一条 帝国今後ノ国内施策ハ速カニ物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スルニ在リ
第二条 国力並戦力造成要綱
一 作戦上ノ中核戦力トシテ、依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス
二 国力ノ造出ハ日、満、支資源ヲ基盤トシ自給不能ナル南方資源ヲ充足シ,其ノ総合的運営ノ下ニ近代戦争遂行能力ノ確立ヲ主眼トシ併セテ各地域毎ノ攻戦略態勢ノ強化ヲ図ル
「いよいよ、海軍も腹をくくったようだね」
この文を見て伊藤は神妙な顔をしておりました。
「ですが、この大和をどうやって、どのような作戦で使うのでしょう」
有賀の質問は尤もです。
着任してから伊藤は「大和をどのように使うか」を自問自答を繰り返していたのでした。そして伊藤はふとフィリピンマニラでの出来事を思い出しておりました。
→今後「特攻」という言葉にこだわっていきたいと考えております。大和が沖縄へ向う「天一號作戦」は「特攻にあらず」というのが酔漢の私見でございます。これは仮説ですが、この仮説を裏付ける「くだまき」といたします。「特攻」か「否」か。遺族の間でも問題になる事です。
これは歴史家の間でもしばしば議論されるところでもございますが、今後「特攻ではない。通常作戦であった」との結論へ向けて語っていくところでございます。
ご意見多数ございましょうが、酔漢的史観として受け取ってくだされば、幸いと考えております。
昭和18年。第二航空艦隊「大西瀧治郎」司令長官を尋ねたときのことでした。
「伊藤さん久しぶり」
(この大西さん。あの大高勇二さんをして「豪放磊落。なかなかの武人であった」と話されております。大高さんは「大西の親父」と呼んでおられます。祖父との接点もあったかた推察いたしております)
「特攻でしか作戦の道はないかと・・・敵空母はおおよそ30。輸送船は400。特攻機30と400・・・戦法はこれしかない」
伊藤は「そんな簡単なことではない」と反論しかかったのでしたが、側にいた源田が早速口を挟んだのでした。(「源田実」です。つい最近まで参議院議員さんでした)
「敵は特攻に対して、防備を固めてきます。まともな航空機と作戦を立案しないことには話しになりません」
「貴様の言っていることは正論だ。だがな、戦闘機があるか!作戦があるか!空母があるか!そして熟練した搭乗員がいるのか!なければ、あるものでやるしかないではないか!」
この言葉に伊藤は唖然とするのでした。
よく、この大西さんを「特攻推進者」と見る向きもあるのですが、先の大高さんの著書などを拝読いたしますと必ずしもそうではない部分も見えてまいります。
「大本営の作戦が一億総特攻」となっていく歴史の仮定にたいして、大西さんはある意味「そんな作戦で敵に勝てるわけはない」とはっきり申しております。ですから裏を返せば「軍に対するアンチテーゼがこのような発言、もとい、行動に移っていったのではないのでしょうか」(酔漢私見)
伊藤は全てが危機的状況にあることをその時、察していたのでした。
その後のレイテの悲劇は、歴史が示す通りの結果です。
「大和乗艦。第二艦隊司令部司令長官としてここにいるまで戦争を知らない、前線経験のない自分が何故ここにいるのか」これも伊藤の自問なのでした。
「マニラ陥落」大和通信室がその報を受け取ります。
昭和20年1月30日。パターン半島スビックハーバーにアメリカ軍が上陸いたしました。
「大本営より打電受信。マニラ海軍防衛部隊岩淵少将から」
大和通信室が傍受いたします。
内容です
「敵、マニラに侵入するや、市民はもろ手を挙げて、これを歓迎。万事我軍の戦闘行為を阻害しつつアリ。市民は70万人と認められるも、三日より五日に至るパシック河以北の戦線に於いて奇襲不可能ならしめたるは、ゲリラ化する一般市民にして、攻撃前に敵へ内通せられ、特攻隊員にして市民より狙撃され、敵所在を表示せられ、目的をたっせざりしもの数挙にいとまあらず。当方よりは攻撃の手段なく、端的の申せば、敵教練射撃の目標となりおるに過ぎず、切歯の極みなり。唯一の頼みとする特攻も、敵の警戒とゲリラの妨害、兵器の不備、練度不足の為、まったく予期の成果を収めえず。彼我装備の差は隊員の士気にも影響し、軍属多数を有する海軍としては、真の憂慮しおる次第」
岩淵司令は自決されたのでした。
そして、1月からは沖縄への攻撃が激化します。
「やはり沖縄か。台湾ではないな」
この認識は、誰しも思うことでした。
1945年1月21日1152,米任務部隊は再度沖縄方面を攻撃。迎え撃つ日本海軍特攻機17機が出撃。
第一航空艦隊:爆装戦闘機2機+直掩(直接援護戦闘機)零戦3機:台南発:堀口吉秀少尉
神風特攻第3新高隊:爆装戦闘機7機+直掩零戦6機:フィリピン北部ツゲガラオ発:川添実大尉
神風特攻第3新高隊:彗星8機+直掩零戦5機:台南発:西田幸三中尉
上記東海大学「鳥飼研究室」史料より抜粋。
「全て『特攻』なのか。この言葉が総意であろうはずがない」
伊藤は心底思うのでした。
「長官。同感です。大和は今後どうなるのでしょうか」
有賀の質問に伊藤は答えられずにいるのでした。
大和を建造した呉海軍工廠です。
最早、大和を建造したドックには艦船はありません。広大な工廠内では、桜花を作成しております。
「桜花千機。至急」
「これは、最早、航空機ではない!軍は何をしているのか解って言っているのか」
西島亮二は艦政部の中でこう叫んでいるのでした。
「一億総特攻」
町中に溢れているスローガンになっております。
軍令部第二部長「黒島亀人少将」に嘗て伊藤はこう話しております。
「最新兵器?海軍の?『回天』『海龍』これが使われるような凄惨な戦は最早戦争ではない。使われる以前にやめなければならない!」
「奮戦スレド徒死スルナカレ」
伊藤が自ら掲げた第二艦隊のスローガンなのでした。
東海大学「鳥飼先生」のご協力も得ることが出来ました。
昭和20年一月からの歴史を振り返りながら、今一度、大和が沖縄へ向う様子を語って行きたいと考えます。
酔漢祖父。通信室におります。再度ご紹介いたします。
第二艦隊司令部通信。参謀は小沢信彦。酔漢祖父はその直轄として、主にGF(連合艦隊)と2F(第二艦隊)そして軍本部との通信に従事しております。
能村次郎(大和副長)の手記によりますと「艦同士の連絡には大和が、GFの連絡には2F通信隊がその役割を担っていた」と記しております。
祖父は当時の戦況を一番先に平文にする役目であったのでした。
昭和53年、の靖国神社で行われた慰霊祭。話は飛びますが、昭和20年4月5日に少尉候補生退艦が行われます。その中のお一人であります「吉田さん」です。
「酔漢祖父さん、ずうずう弁でね。『おらいのやってる事さぁ見てるだけでいいんだからっしゃ』と言っておられました。ですがね、正誤表なしで海軍暗号を平文にするんですから、暗号解読では大和でも一、二だったんじゃないかって思ってるんですよ」とおっしゃっておられました。
祖父の下には、様々な戦況が入ってくるのでした。
昭和20年1月早々。「最高戦争指導会議」が開催されます。
本土防衛を優先させて、「全軍特攻」をその文書で見る事ができます。
→今後、「特攻」という言葉に着目いたします。私見を述べさせていただけますれば、この大和が沖縄へ向う作戦「天一號」は「特攻にはあらず」というのが、酔漢の私見でございます。この事は遺族の間でもしばしば問題になるところではございますが、「大和は特攻ではなく通常作戦であった」と結論付けます。
様々なご意見があろうかとは存知ますが、これを仮説とし、この仮説を裏付ける根拠を挙げながら、4月7日までを語りたいと考えております。
同年1月20日。
祖父の下に帝国海軍より電文が到着いたします。
「帝国海軍作戦計画大綱」でした。
第一条 帝国今後ノ国内施策ハ速カニ物心一切ヲ結集シテ国家総動員ノ実効ヲ挙ケ以テ必勝ノ為飽ク迄戦ヒ抜クノ確固不抜ノ基礎態勢ヲ確立スルニ在リ
第二条 国力並戦力造成要綱
一 作戦上ノ中核戦力トシテ、依然航空機並限定セル特攻屈敵戦力ヲ優先整備ス
二 国力ノ造出ハ日、満、支資源ヲ基盤トシ自給不能ナル南方資源ヲ充足シ,其ノ総合的運営ノ下ニ近代戦争遂行能力ノ確立ヲ主眼トシ併セテ各地域毎ノ攻戦略態勢ノ強化ヲ図ル
「いよいよ、海軍も腹をくくったようだね」
この文を見て伊藤は神妙な顔をしておりました。
「ですが、この大和をどうやって、どのような作戦で使うのでしょう」
有賀の質問は尤もです。
着任してから伊藤は「大和をどのように使うか」を自問自答を繰り返していたのでした。そして伊藤はふとフィリピンマニラでの出来事を思い出しておりました。
→今後「特攻」という言葉にこだわっていきたいと考えております。大和が沖縄へ向う「天一號作戦」は「特攻にあらず」というのが酔漢の私見でございます。これは仮説ですが、この仮説を裏付ける「くだまき」といたします。「特攻」か「否」か。遺族の間でも問題になる事です。
これは歴史家の間でもしばしば議論されるところでもございますが、今後「特攻ではない。通常作戦であった」との結論へ向けて語っていくところでございます。
ご意見多数ございましょうが、酔漢的史観として受け取ってくだされば、幸いと考えております。
昭和18年。第二航空艦隊「大西瀧治郎」司令長官を尋ねたときのことでした。
「伊藤さん久しぶり」
(この大西さん。あの大高勇二さんをして「豪放磊落。なかなかの武人であった」と話されております。大高さんは「大西の親父」と呼んでおられます。祖父との接点もあったかた推察いたしております)
「特攻でしか作戦の道はないかと・・・敵空母はおおよそ30。輸送船は400。特攻機30と400・・・戦法はこれしかない」
伊藤は「そんな簡単なことではない」と反論しかかったのでしたが、側にいた源田が早速口を挟んだのでした。(「源田実」です。つい最近まで参議院議員さんでした)
「敵は特攻に対して、防備を固めてきます。まともな航空機と作戦を立案しないことには話しになりません」
「貴様の言っていることは正論だ。だがな、戦闘機があるか!作戦があるか!空母があるか!そして熟練した搭乗員がいるのか!なければ、あるものでやるしかないではないか!」
この言葉に伊藤は唖然とするのでした。
よく、この大西さんを「特攻推進者」と見る向きもあるのですが、先の大高さんの著書などを拝読いたしますと必ずしもそうではない部分も見えてまいります。
「大本営の作戦が一億総特攻」となっていく歴史の仮定にたいして、大西さんはある意味「そんな作戦で敵に勝てるわけはない」とはっきり申しております。ですから裏を返せば「軍に対するアンチテーゼがこのような発言、もとい、行動に移っていったのではないのでしょうか」(酔漢私見)
伊藤は全てが危機的状況にあることをその時、察していたのでした。
その後のレイテの悲劇は、歴史が示す通りの結果です。
「大和乗艦。第二艦隊司令部司令長官としてここにいるまで戦争を知らない、前線経験のない自分が何故ここにいるのか」これも伊藤の自問なのでした。
「マニラ陥落」大和通信室がその報を受け取ります。
昭和20年1月30日。パターン半島スビックハーバーにアメリカ軍が上陸いたしました。
「大本営より打電受信。マニラ海軍防衛部隊岩淵少将から」
大和通信室が傍受いたします。
内容です
「敵、マニラに侵入するや、市民はもろ手を挙げて、これを歓迎。万事我軍の戦闘行為を阻害しつつアリ。市民は70万人と認められるも、三日より五日に至るパシック河以北の戦線に於いて奇襲不可能ならしめたるは、ゲリラ化する一般市民にして、攻撃前に敵へ内通せられ、特攻隊員にして市民より狙撃され、敵所在を表示せられ、目的をたっせざりしもの数挙にいとまあらず。当方よりは攻撃の手段なく、端的の申せば、敵教練射撃の目標となりおるに過ぎず、切歯の極みなり。唯一の頼みとする特攻も、敵の警戒とゲリラの妨害、兵器の不備、練度不足の為、まったく予期の成果を収めえず。彼我装備の差は隊員の士気にも影響し、軍属多数を有する海軍としては、真の憂慮しおる次第」
岩淵司令は自決されたのでした。
そして、1月からは沖縄への攻撃が激化します。
「やはり沖縄か。台湾ではないな」
この認識は、誰しも思うことでした。
1945年1月21日1152,米任務部隊は再度沖縄方面を攻撃。迎え撃つ日本海軍特攻機17機が出撃。
第一航空艦隊:爆装戦闘機2機+直掩(直接援護戦闘機)零戦3機:台南発:堀口吉秀少尉
神風特攻第3新高隊:爆装戦闘機7機+直掩零戦6機:フィリピン北部ツゲガラオ発:川添実大尉
神風特攻第3新高隊:彗星8機+直掩零戦5機:台南発:西田幸三中尉
上記東海大学「鳥飼研究室」史料より抜粋。
「全て『特攻』なのか。この言葉が総意であろうはずがない」
伊藤は心底思うのでした。
「長官。同感です。大和は今後どうなるのでしょうか」
有賀の質問に伊藤は答えられずにいるのでした。
大和を建造した呉海軍工廠です。
最早、大和を建造したドックには艦船はありません。広大な工廠内では、桜花を作成しております。
「桜花千機。至急」
「これは、最早、航空機ではない!軍は何をしているのか解って言っているのか」
西島亮二は艦政部の中でこう叫んでいるのでした。
「一億総特攻」
町中に溢れているスローガンになっております。
軍令部第二部長「黒島亀人少将」に嘗て伊藤はこう話しております。
「最新兵器?海軍の?『回天』『海龍』これが使われるような凄惨な戦は最早戦争ではない。使われる以前にやめなければならない!」
「奮戦スレド徒死スルナカレ」
伊藤が自ら掲げた第二艦隊のスローガンなのでした。
おいそがしいようですね。
こちらこそいろいろ教えてください。
これから4月7日までの顛末が語られるのですね。
では誰が推し進め、決断したのか、極めて不可思議です。
国民を全滅させてでも守り抜こうとした「国体」とは何だつたのでしょうか。
「国体」の象徴としての「あの家族」。私は心の底から、「あの家族」の口から語って欲しいです。
なぜなら、あと一歩で父親は前線に送られるところでした。
私が生を受けていないところでした。
今週よりようやく普通の生活に戻れます(予定?です)
これからは、一ヶ月、一日、数時間と凝縮された時間を語らなければならなくなりました。
多くの方の手記、証言を参考にまとめてまいりたいと考えております。
特攻について語っておりますが、単純に語るしかないのでした。この言葉で多くの人が苦しんだ経緯を忘れてはいけないのだと思っております。淡々と語っているようですが、自身の思いはかなり複雑です。
特攻か否か、今後論議を醸し出しそうですが、自説を展開させようと決心いたしました。
今年は是非、お会いいたしましょう!
吉祥寺に出かける用事が出来そうです。